<第3章> Confession. 01
大人になることを、怖がってはならない。
「ねえ、ママはどうして死んだの?」
そう言って、霖はビー玉のように澄んだ瞳を僕に向けてきた。
覚悟はしていた。
こんな日がいつかくることも、避けられないこともわかっていた。
けれどそれは、風が吹けば倒れてしまいそうなほどの、軽い覚悟だった。
逃げ出したいという気持ちが芽を出す。
膝が笑っている。
そうか、僕は怖いんだ――。
全てを話して、霖に嫌われることを恐れているんだ。
それでも僕は伝えなくてはならない。
僕だけが知っている、あの日の出来事を。
あの日、世界が消し去った斎藤厘という一人の物語を。
君のママの物語を、僕は語らなければならない。
痙攣する肺を落ち着かせようと深呼吸をひとつするが、すると今度は涙腺が崩壊しそうになる。
顔面の筋肉が弛緩したがっているのが分かる。
両足の裏に力を込めて、歯をくいしばる……。
覚悟を決め、彼女と向かい合うと、僕は口を開いた――。
霖との奇妙な共同生活も二日目を迎えた。
昨日とは違って腕が沈みこむ感覚。
それに暖かい。
「ねえ、もう昼前だよ? そろそろ起きなよ」
声が聞こえる。優しい、鈴を転がしたような声が。
「りん?」
「そうだよ。ねぇ、起きなって」
小刻みに僕の肩を揺らしてくる。いやでも意識が覚醒する。
うっすら目を開ける。ぼんやりと靄がかかったような視界の先で彼女は笑っていた。
「おはよう、おにーちゃん」
あぁ、そうか。
目の前にいる瓜二つの彼女を僕は見間違えていた。
あいつは死んだんだった……。
「うん、おはよう。ていうか、話し方変じゃないか?」
「えぇ、そう? 普通だと思うんだけど。それより早くご飯作ってよ! もう10時だよ」
そう言うと、彼女は部屋を後にした。階段が軋む音がこちらまで聞こえてくる。
そうだ、昨日零さんの部屋で寝たんだった。
ベッドが一つしかなかったから霖を寝かせて、僕はベッドの縁を枕にいつの間にか眠ってしまったというわけか……。
二日連続で変な態勢で寝てしまったせいか、関節はポキポキと音が鳴る。
それに昨日のほぼ半日彼女を背負った影響で背中とふくらはぎが痛い。
日頃の運動不足のツケだな。
のろのろと起き上がり、僕は階段を降りていく。
霖は居間で膝を伸ばし、テレビを見ていた。
魔法少女もののアニメではなく、ニュース番組。
昨日はそんなもの見ていなかっただろう。
「あぁ、そうだ。ご飯作る前に先に着替えて。洗濯機回したいから。おにーちゃんも洗って欲しいものあったら籠の中に入れておいてね」
声だけこちらに向ける霖。
「洗濯? 霖がするの?」
「そうだよ」
「できるの?」
今度は首までも僕の方に向け、こちらまで届くほど大きなため息をつく。
「おにーちゃん、私だっていつまでも子供じゃないんだよ?」
――あぁ、そういうことか。
その一言で僕はいま、違和感の正体に気がついた。
零さんも言っていたじゃないか。
「精神的な部分は社会環境で磨かれる面が強いから、あまり成長していないんだよ」と。
いま僕の目の前にいる彼女は成長したのだ。
おそらく昨日初めて社会に触れたから。
彼女は外の世界から様々なものを吸収していったのだ。
使い古した乾いたスポンジのようにあの短時間で多くのものを吸収し、そして彼女の精神年齢はその分成長した。
身体的特徴は出会った時から――さらに言うと彼女の複製元である厘自身、あまり発育の良い子ではなかった――変化はなかったが、それでも心は確かに大人へと成長したというわけか。
「ねえ、いつまでボーってしてるの? 早くご飯作ってよ」
「はいはい」
朝起きたときに覚えた違和感もきっとこのせいだろう。
僕は、彼女をそのまま残し脱衣所に向かった。
洗面台の横にある洗濯機。
その上に置かれた籠の中には、彼女が昨日着ていた白いワンピースが入っていた。
「白物と色物は分けて洗わないと色移りするぞ」
籠の中からその白いワンピースをつまみ上げた。
「どうせならこれはクリーニングに出そうかな」
昨日、まだ幼かった霖が雑に脱ぎ散らかしたせいでシワが入ってしまったそれを、両手で掬うように持つ。
ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえる。
気が付いた時には、僕は鼻の頭を付け、息を吸い込んでいた。
彼女自身の持つ匂いと、ほのかに残るラベンダーの香りが鼻腔の奥に広がる。
――体が同じということは、匂いも同じなのか。
厘……。
いつの間にか僕は、心の中でそう叫んでいた。
夜の海のような長い黒い髪に、夏空を切り取ったように透き通る青い瞳。
笑うとにゅっと三日月のように歪曲する唇。
彼女の胸を穿ったあの感覚までも蘇ってくる。
「りん……」
自ずと気持ちが溢れる。
「ーーなにしてんの?」
突然背後から投げられた言葉に体がビクッと縮み上がる。
扉が少し開き、彼女がそこから首だけ中に突っ込んでいたことに気が付かなかった。
見られた……。
頭が真っ白になる。
「いや……あの、これは……」
起きたての思考回路ではうまくいいわけができない。
いや、これほど強固な状況証拠が揃っていて、目撃者もいて、僕は間違いなくクロじゃないか。
だったら一層開き直って……。
「どうだった?」
「……へ?」
全開になった扉の縁に体を預ける彼女から出た言葉を、僕はすぐには理解できなかった。
「だから、どうだったのって。匂い、ママと同じだった?」
深く首肯する僕。
彼女はそれを見ると、「そっか」とだけ呟いた。
「ママと同じなんだ……」
「ごめん、これは……その」
言葉が続かない。
とりあえず、彼女のワンピースを元の籠に戻す。
「いいよ、別に。おにーちゃん、ママのこと好きだもんね。ちゃんと分かっているから」
霖はそう言って僕に背を向けると、ひとり居間の方へ戻って行った。
その後ろ姿にほんの一瞬黒光りするものが見えたのは、僕の気のせいだろうか――。




