<第1章> Boy meets Girl (After 2 years' absence) 01
「正直、来てくれると思わなかったよ」
「こんな機会がないと帰ってきませんからね」
――高松市の南西部。
瀬戸内海を一望できる丘の上に、僕と斎藤零は今いる。
腰あたりまである何の変哲も無い石塔の前に膝をつき、手を合わせた。
祈りを捧げていると、あいつとの思い出が自然に湧き上がってくる。
大したことないものから、大したことあるものまで、多種多様な記憶。
いや、もはやそれは記憶とは少々呼びがたいものなのかもしれない。
僕だけが覚えている、あの景色、あの世界。
それは、もはや一種の幻想と言った方が近いだろう。
あるいは妄想。
別に、どっちでもいいけれど。
「もう2年だな」
立ち上がった零さんは遠くの空を見ながら言う。
「僕にとっては、まだ――ですけど」
話が続かない。
背中に吸い付くシャツと、首元に巻きつくネクタイが気になり始めた。
いくら夏用のスーツとはいっても長袖長ズボンという格好だと汗が吹き出る。
「お前にとって、この二年間はどうだった?」
「それは――」
それは、地獄のような日々だった。
2年前の今日、斎藤厘は死んだ。
あの日、世界を破滅に導いた彼女の心臓を僕が突き刺したのだ。
皮膚を割き、肉を貫いた感触は手のひらから消えることはなかった。
胸元から湧き出る血潮が、脳裏にフラッシュバックする。
鉄臭い血の香りが、鼻腔の奥から蘇る。
忘れたくても、忘れさせてくれなかった。
消したくても、消すことを許されなかった。
まるで無間地獄のような終わることのない罪の転回の中に、二年ものあいだ僕はいた。
何をしていても楽しくない。
何を食べても美味しくない。
何を聞いても心地よくない。
何を見ても美しくない。
何を嗅いでも分からない。
それはこの街を離れても変わることはなかった。
東京の大学に進学しても、変わらなかった。僕は、何も変わらなかった。
まるで時計の電池が切れたように、全てがそこで止まった。
「いっそ、殺してくれよ」なんて何度願ったことか。
それでも死ねない。死ぬ勇気がない。
所詮僕はその程度の人間だった。
他人は殺せても、自分は殺せない。
肥大化したエゴイズムの塊。
際限を知らない自己寵愛の鑑。
それが僕という人間だった。
「お前、変わっちまったよな」
零さんは、石塔前に供えた酒饅頭を手に取ると包装紙を破き始めた。
あいつの好きだった食べ物だ……。
「罰当たりますよ」
「こんな暑い中いつまでも放置していると腐っちまうだろ」
パクりと一口で平らげてしまう。
「なあ、ひまはのひひは」
「飲み込んでから話してください」
うむ。と頷くと、これでもかと言う速さで口を動かす彼女。
ゴクリと嚥下すると、お供え物の緑茶のペットボトルを開け、勢いよく流していった。
「ふー、ごちそうさま」
二回目の合掌。
「で、お前今楽しいのか?」
「そんな分かりきっていること、どうして聞くんですか」
「質問に質問で返すな」
「…………」
感情は枷だ。
そんなもの、僕はとっくに捨てている。
「もしかしてお前、自分には楽しいと思う資格などない。なんて思っちゃってんのか?」
彼女の一言が僕の胸の奥をえぐっていく。
この人は昔からこういう人だった。
斎藤零、斎藤厘の腹違いの姉。
人の心を読み、人の心を操る能力、《深層潜水》の持ち主。
「こんなこと、お前の中に潜らなくても分かるよ。なぁ、もうそろそろ鍵を外してもいいんじゃないのか?」
「なんの鍵ですか?」
すると、僕の左胸を拳でずんっと突いてきた。
「心だよ」
少年漫画の読みすぎだ。
全く、余計なお世話なんだよ。
「そうかい、そうかい。まぁ別にお前のことだから構わねえけどさ。そんな感じだったらお前、また貧乏くじ引くぜ?」
「それで僕に見せたいものってなんですか?」
「もしも妹と瓜二つの女の子が突然目の前に現れたら、お前どうする?」
どうするも何も、そんなの存在するはずない。
僕は確かに彼女の死を見届けた。それはこの人も同じだろう。
「いくらなんでも言っていい冗談と、言っちゃいけない冗談があると思いますよ」
「そういう反応をすると思っていたさ。お前こっちにはいつまでいるつもりなんだ?」
「またすぐに東京に帰りますよ」
「なにか火急の要件でもあるのか?」
「いえ、大学の授業があるくらいですけれど」
とは言いつつも、僕はほとんど授業には出席していなかった。
朝目覚めてから陽が沈むまで、ただベッドの上で膝を抱える毎日。
腹が減ったら冷蔵庫の中身を適当に摘んで、眠くなったら寝る。
昨年、親元を離れてから僕の厭世的ライフサイクルは、より一層の磨きがかかっていった。
それを見て何も言わない両親も両親だけれど、もしかしたら半分諦められているのかもしれない。
最近は妹の受験勉強に注力しているみたいだし。
「じゃあ、今日はうちに泊まれ」
「どうしてですか?」
「実は去年、父親も海外に赴任することになって、母親がそれについて行ったんだよ」
「はぁ……」
「つまり、今うち、親がいないの」
「ラブコメ風に言い直さないでいいですから」
僕の応えに、彼女はくくくっと笑う。
「まぁ、いい。見たら驚くぜ?」
彼女はそう言うと、車を停めた方へ歩いて行った。
一人になった僕は石塔を見つめる。
墓標のない墓。
斎藤厘の墓。
けれどそこに主人はいない。
そんなこと、分かっている。
分かっているけれど、僕はつい語りかけてしまう。
なぁ――君はなんで世界に失望したんだ?
「何しているんだ、早く来い!」
遥か先から彼女の声が響く。
こんなところで置いてきぼりを食らったら、たまったもんじゃない。
僕は石塔から目線を外して、彼女の待つ方に向かって走り出した。
一車線しかない道路の路肩に停まる黒いアウディーA5。
それが彼女の車だった。
これ、他に車が来たらどうするつもりだったんだ……。
「零さん四輪の免許も取ったんですね」
助手席に座り、シートベルトをつけながら彼女に問う。
「せっかく家に親の車があるんだしな。持っていると何かと便利だぜ、免許証?」
「僕はいいですよ。自殺志願者がハンドルなんか握ったら大変なことになりますから」
「ふぅーふぅー、カッコイィねぇ」
そう言うと、エンジンを吹かせた。
「…………」
山の横っ腹にすがりつくように敷かれたバイパスをゆっくりと降っていく。
ここからだと遮るものが何もない。
讃岐平野の真ん中、草食動物のように群れるビル群と、その先に広がる瀬戸内海。ポツポツと浮かぶ島々。
全てが何も変わらない――。
その景色の中に、僕たちはゆっくりと溶け込んでいった。