エピソード1:視えない世界③
「――おかえりなさい。3人とも、お疲れ様」
里穂と仁義の力を借りて統治と心愛の家の玄関にたどり着いたユカに、目の前にいる女性が優しく声をかけてくれた。
この声には聞き覚えがある。ユカは居住まいを正すと、声がしたほうを見上げ、彼女の名前を呼んだ。
「そこにおるのは……愛美さん、ですよね。今回はお世話になります」
彼女――名杙愛美はユカを見下ろし、思わず心配そうに声をかける。
「ユカちゃん、随分大変なことになったのね。話は統治から何となくしか聞いてないけど……目が、本当に……」
愛美はユカの黒目の焦点が合っていないことで、彼女の状態が深刻であることを悟る。人知れず息を吐いて気持ちを切り替えた後、里穂と仁義を見て次の指示を出した。
「仁義君は、台所で統治を手伝ってくれないかしら。里穂ちゃんは、客間にいる心愛を手伝って頂戴。ユカちゃんは私が連れて行くから」
「分かりました」
「了解っす!!」
仁義は静かに靴を脱いで台所の方へ歩いていき、里穂はユカを愛美に託した後、パタパタと仁義とは別の方へ消えていく。
愛美はユカを玄関に座らせると、彼女の靴を脱がせた。そして、ユカを自分の右側に立たせると、自分の腕を握らせて、ゆっくりと廊下を進む。
「目が見えない以外に、何か不具合はないの?」
努めて普段どおり問いかける愛美に、ユカは苦笑いで首肯した。
「今のところは、特に何も。食欲はあるし、体はピンピンしてるんですけど……」
ユカと愛美は、これが初対面ではない。宮城に来てからも、そして、彼女が福岡で勤務している時にも、何度となく会ったことがあった。
名杙当主の妻であり、あの、ひねくれていた統治の母親ということで、初対面の時は大分構えてしまったけれど……予想以上に、良い意味で『名杙らしくない』女性に、ユカ自身が面食らって萎縮し、隣にいた麻里子に笑われたものだ。
あれから時間が経過しても、凛とした立ち姿と確固たる強さは変わらない。心愛は彼女の血を色濃く引いていることを、最近は特に実感していた。
『縁故』能力を保持している愛美は、視界を切り替えてユカの縁を確認する。そして、特に目立つ異変も違和感もないことを確認してから頭上を見上げ、寄り添っている分町ママにアイコンタクトを取った。
そして、分町ママが頷いたことを――愛美と同じで、何の異変も感じていないことを確認してから、改めて前を見据える。
「そうなのね……流石にここまで重症だと、他のところも引きずられるかもしれないから、何かあったらすぐに教えてね。あと……政宗君から、伝言」
「政宗から?」
「そう。まぁコレは、伝言っていうよりも……」
頭上で楽しく笑いながら言葉を続ける愛美に、ユカは黙り込んだ後……苦笑いで「分かりました」と了承したのだった。
その後、名杙家の客間に大きめの机を用意して、統治を中心に全員分の食事を並べてから。
ユカは誘われるままに座布団の上へ座り、目の前から漂ってくる。食欲を刺激するスパイシーな香りに……思わず、生唾を飲み込んだ。
この匂いは、間違いない。
カレーだ。
カレーに間違いない。
見えないけれど目の前の皿をガン見しているユカに、隣に座っている愛美がスプーンを2本用意しながら問いかける。
「ユカちゃんは、辛いカレーは好き?」
「人並みであれば……え? 名杙のカレーは辛いんですか?」
事前確認に、ユカは思わず息を呑んだ。すると、そんなユカの隣に座る里穂が、明るい声で内情を暴露する。
「違うっすよケッカさん。ココちゃんに合わせて甘口なマイルドカレーっす。だからむしろ、辛さが足りないかもしれないっすねー」
「りっぴー!!」
テーブルを挟んだ向かい側から、心愛の焦った声が飛んできた。里穂は「本当のことっすよー」と悪びれることもなく言い放ち、ユカの前にお茶の入ったコップを置く。
「あ……愛美おばちゃん、ストローないっすか?」
「ストローね。ちょっと待ってて」
ユカの飲みやすさを考慮した要望に応えるため、愛美が立ち上がってキッチンの方へ移動していった。その足音を聞きながら、ユカが里穂の声がした方を見る。
「里穂ちゃん、そういうとこ……よく気付くね」
「おばあちゃんのお見舞いに行く時、おばあちゃんの飲み物にも、他の人のものにも、ストローがついてるっすよ。櫻子さんが挿してあげてるのを見たこともあるっす」
「なるほど……」
ユカは里穂の答えに納得しながら……改めて、周囲の音を聞いた。
少し離れた場所にある台所では、統治や心愛、仁義、愛美の声が聞こえる。
こんなに人がいる食卓は、久しぶりだ。
福岡にいた時は、覚醒直後は瑠璃子や麻里子と、ユカが落ち着いてからは麻里子と2人だった。たまに一誠や、福岡の副支局長・古賀孝高、他の同僚と一緒に食べることもあって。
ユカが一人暮らしを始めてからも、瑠璃子や一誠、麻里子、そしてセレナ……と、誰かと食事をする機会はあった。今の名杙は、その時に似た、心地よい騒がしさがある。
仙台に来てからは、基本的に1人で食べているけれど――
「……政宗、どうせ呑んどるっちゃろうな……」
1人ではないことも、多かったから。
この場にいない彼のことを無意識のうちに呟き、苦笑いを浮かべた。
名杙家当主・名杙領司は午後から外へ出ており、帰りが遅いということで……この場にいる全員が着席して、食事を食べ始めた。
当然だが何も見えないユカは、愛美から一口ずつ口に運んでもらうことになり……しょうがないとはいえ、この歳になって気恥ずかしいったらありゃしない。でも、お腹はすいているのでしょうがない。
ユカはツバメの雛のように、用意が出来たら口を開き、野菜の甘さがじっくり染み込んだカレーを口の中で堪能する。
しばらくは楽しく談笑しながら、和やかに時間が経過していたのだが……食事開始から5分ほどが経過したところで、ユカの正面に座っていた統治が、静かに口を開いた。
「情報を共有しておきたい。母さん、今日……一体、何があったんだ?」
彼の言葉が、今日、名杙家で発生した『あの件』のことを指しているのは明白だった。愛美はユカに一口食べさせた後、全員の視線が詳細を求めていることを確認して……一口、お茶をすする。
「……今日、名杙にやって来た名波蓮君が、慶次おじさんに襲いかかったそうよ。母さんもその場に居合わせたわけじゃないけれど……本家で昼食の用意をしようとしていた時に、騒がしくなって……彼が連れてこられたの」
今から数時間前、本家母屋の台所で昼食を考えていた愛美と、本家の女中として働いている分家の女性・芦名来海が、互いに手を止め、顔を見合わせた。
年齢は40代後半、身長は155センチ程度と、成人女性にしては小柄な印象がある。長い髪の毛を後ろで1つに結っており、半袖ブラウスと膝丈のスカートの上から白い割烹着を身にまとう様はすっかり堂に入っていた。
それも無理はない。来海は愛美が嫁ぐ前から――彼女が10代の頃から名杙で働いており、愛美と同年代ながら、彼女の花嫁修業の師匠でもある。彼女に逆らうと食事が質素になるので誰も逆らえない、そんな人物なのだから。
この家は母屋を中心に、現代では珍しいほど広大な敷地面積を誇っている。そのせいもあって、普段は周囲の音もほとんど聞こえないような、とても、静かな空間なのだが……外がにわかに騒がしくなり、時折、怒号のような声まで届いてくる始末だ。
「奥様、何かあったのでしょうか……?」
来海の言葉に愛美は着用していたエプロンを外すと、それを作業台の上に置いた。
何かあったことは間違いない。名杙を預かる者の1人として、現状を知っておく必要があるだろう。
「来海さんは用意を進めてください。私はちょっと外を見てきます」
「分かりました」
そう言って再び手を動かす来海に背を向けると、愛美は急いで外へと――声が聞こえた方へと向かった。
そして……。
「――これはこれは『お姉さん』、ご足労をおかけしました」
本家の母屋を飛び出したところで、名杙慶次と鉢合わせになる。彼の後ろには、無表情の青年――慶次の付き人によって後ろ手を拘束された、名波蓮の姿があった。
「名波、蓮君……!? 慶次さん、一体何が――」
「――いやぁ、彼がうっかり俺を殺そうとしましてね、流石に怖くなったので拘束させてもらったんですよ」
「え……!?」
慶次の言葉に、愛美は思わず目を見開いた。そして、蓮の隣に立っている伊達聖人を見つめる。
珍しく無表情の彼が、無言で一度首肯したことを確認した愛美は……俯いている蓮に視線を向けた後、改めて慶次を見つめた。
「慶次さん、領司さんへの連絡は済ませていますか?」
「兄貴へはこれからですよ。なんせ、たった今起こったことですからね」
「分かりました」
愛美は現状を把握した後、気持ちを切り替えた。
今の彼女は、『当主の妻』としての立ち居振る舞いが求められる。いくら加害者が少年とはいえ、彼は初犯ではないのだ。
数ヶ月前、自分の息子を監禁し、娘を誘拐した少年の1人であることを、忘れることは出来ない。
……最近は、前向きな報告を聞いていたのに。
愛美は無言で蓮を見つめたが、彼は深く俯いており、その評定をうかがい知ることは出来なかった。
「連絡は私からしておきますので、慶次さんは『査問会』の調整をお願いします。あと、名波君と伊達先生は、離れで待機していただくように。鍵の場所は分かりますね?」
「えぇ、勿論です。じゃあ……お願いします」
慶次はどこか軽薄な笑みを浮かべた後、愛美の横を過ぎて……名杙の離れがある方へと歩いていく。
通り過ぎる足音を聞きながら、愛美は厳しい表情で、スマートフォンを取り出した。
「そこから緊急の協議が始まって、今のところは、1週間の自宅謹慎で落ち着いたのよ。伊達先生は仕事があるから、届けを出して、監視付きで仕事をしてもらうことになると思うけれど……名波君、最近は前向きな報告をたくさん聞いていたから、ちょっと悲しいわね」
愛美はそう言って、ユカの口にスプーン一口分を優しく食べさせた後……じっと話を聞いていた統治を見やる。
「政宗くんには、お父さんから改めて連絡が入っていると思うわ。名波君、仙台でアルバイトしていたのよね? 彼が完全に抜けたときのことも、考えておきなさいね」
「……ああ、分かってる。ありがとう、母さん」
統治は冷静に頷いた後、スプーン一口分を口に運んで、静かに咀嚼した。
愛美はそんな統治の隣で食事を進める心愛を見やり、続けて口を開く。
「心愛も、念のために防犯ブザーの確認をしておきなさいね。最近は、物騒な話も多いんだから」
「物騒な話って……心愛、変な人について行ったりしないもん」
子供扱いするな、と、ジト目で訴える心愛に、愛美は笑っていない目で言葉を続けた。
「最近は仙台の方で、塾や部活帰りの小中学生が一時的にいなくなる事件が何件か起こっているって、防犯メールでお知らせが届いたのよ。心愛、学校で何か聞いてない?」
「……知らない」
心愛は愛美から視線をそらし、副菜のサラダに手を付ける。
一連の話を聞いた心愛の胸中は……当然だが、本人にしか分からない。
統治や心愛の母親である愛美は、名杙の中でもまだ、話が通じる女性です。
で、そんな彼女が目立って孤立せずにここまで来ることが出来たのは、愛美を支える女性がいたからだ……と、思って、来海さんが生まれました。ちなみに彼の夫は、現当主の側近の男性です。




