クロードとエミリア 1
夜露が落ちた滴りに、頬を濡らして髪を湿らす。
頬に張り付いた金砂の一房は、冷たい感触に彼女の目蓋揺り動かした。
目覚めの気配に身体を動かそうとしたエミリアは、鈍い痛みが走った足首に悲痛を喘ぐ。
「っ!?な、なに・・・?ここは、どこ?私は・・・」
奔った激痛に足首を押さえても、その痛みが和らぐわけではない。
それでも痛みを感じにくい角度は確かにあるようで、それが落ち着くまでの時間は長くは掛からなかった。
見れば彼女のすぐ後方には切り立った崖がそびえ立っている、混乱している頭にも其処から落ちてきた事は容易に想像できた。
「そっか私・・・獲物を追うのに夢中で、足を滑らせたのか。ははっ、なにやってんだか・・・」
崖を見上げるエミリアは、それまでの記憶を探って自嘲の笑みを漏らす。
街へと出てから長いとはいえ、彼女の半生は森と共にあった。
その彼女が分かり辛い地形とはいえ、こんな簡単に足を滑らせるとは思えない。
それでも事実として彼女の身体は崖下にある、その理由悟ったエミリアは自らの身体を小さくして、抱きしめるように蹲っていた。
「焦ってたのかな、私。あーぁ、あんな獲物無理して追うことなかったのになぁ・・・ほんと、なにやってんだろ」
昼間は暖かい季節にも、暮れた日差しに夜が下りれば肌寒さに震えることもある。
弱気に吐き出した息も白く霞んで、エミリアの頬には水気が触れていた。
それは彼女の瞳から溢れ出した涙だったが、次第に別の水滴も混じり始める。
「雨、か・・・寒いなぁ」
夜の空気に、冷やされた雨が彼女の肌に染みていく。
急速に体温を奪われていく身体は即座の避難を求めていたが、足首の痛みに彼女は億劫そうに息を吐くだけだった。
「そうだ・・・弓は?お母さん、お母さんの弓はどこ!?」
奪われていく体温を守るように俯いていたエミリアは、あるべき筈のものが手元にないことに気がついて顔を上げる。
彼女の瞳には自らの不甲斐なさを嘆いた時以上の涙が溢れ始め、必死に巡らせる視線に動揺の名残を散らしていた。
「あんな所にっ!っく、この・・・こんな痛みでっ!!」
崖の近くは日差しの関係か森に覆われていない、エミリアは開けた視界の先に広がる森の中で、形見の弓を見つけていた。
発見に慌てて立ち上がって駆け寄ろうとした彼女は、痛みにうまく動かない足首に地面へと身体を叩きつける。
それでも彼女は地面に爪跡を残すと、這いずるような姿勢でそこへと向かっていた。
「エミリア!?エミリアか!!?おーい、そこにいるのかー!!」
這いずる痛みに吐いた悪態は強く響く、その音量は彼女を探しに来ていた者にも届いていた。
崖の上の木に掴まりながら辺りを見回していたクロードは、どこかから聞こえてきた声に応答を求める大声を上げる。
「クロード?クロードなの!?ここよ、私はここよクロード!!!」
彼の声に崖へと身体を向けたエミリアは、ありったけの大声で自らの存在をアピールする。
夜の闇は彼女の見通しを暗くしたが、それでも崖の上で動く人影はどうにか見つけることが出来た。
「この崖下か?ちょっと待ってろよ、今ロープを作って・・・よし!」
エミリアが崖下にいることを知ったクロードは、急いでその能力を使いロープを作り出す。
彼はそれを掴まっていた木に括り付けると、慎重に崖を下り始めた。
「え!?ごめん、よく聞こえない!とにかく、早く助けを呼んできて!!」
クロードの独り言のような声が良く聞こえなかったエミリアは、その内容よりもとにかく救助を求めて人手を欲しがった。
彼女の願いは崖を伝いだしたクロードの姿に叶うことはないだろう、そのロープの繊維が弾ける音を聞けばなおさら。
「あ・・・これやばい奴だろ。マジかよ!おいおいおい!!」
破滅の音はエミリアよりも近くにいるクロードに、はっきりと聞こえている。
それはぶちぶちと段階を持って彼の身体を沈めていく、慌ててその前に下りきろうと急いでも、未熟な登攀技能にスピードは対して上がらなかった。
「うぉぉぉぉぉ、マジかよぉぉぉぉ!!ん?なんか、治まったな?大丈夫か・・・?なんだよ、慌てさせやがって!」
叫び声を上げながら必死にロープを下っていたクロードは、いつしか聞こえなくなった繊維が千切れる音に、その手を緩めていく。
下り方が下手な彼が一気に体重を掛けた事で痛んで弾けたロープも、急激な負荷が掛からなくなれば安定もする、その様子にクロードはほっと一息を吐いていた。
その溜息は上がった呼吸に熱を持って霞む、それは急激に上へと流れていく。
「やれやれ、ゆっくり下りるとするか。おーい、エミリア待ってろよー!すぐに・・・あれ、こんなに近かったっけ?」
問題なさそうなロープに安堵したクロードは、ゆっくりと崖下りを再開した。
振り返った彼はエミリアへと声を掛けるが、そのあまりの近さに違和感を覚える。
疑問に固まった視線の先を解けたロープが通り過ぎる、彼の乏しい知識で括りつけた結び目は、度重なる負荷にあっさりと解けてしまっていた。
「えっ、嘘だろおい!?嘘だろぉぉぉぉぉぉ!!!?」
予想だにしない事態に現実を否定する絶叫を上げたクロードも、すぐに崖の斜面へと身体をぶつけていた。
慌てて下りた結果か、崖の半分程度の所まで下りてきていた彼の身体は、斜めとなった崖に弾かれて転がっていく。
それはエミリアの横を通り過ぎて、森へと向かっていった。
「ちょっと!?なにやってんのよ、あんた!!はぁ・・・せっかく助けがきたと思ったのに」
助けに来たと思った男が、今は目の前で木にぶつかって伸びている。
その現実の落差に戸惑いと怒りの声を上げたエミリアは、顔を覆うと長々と溜息を吐いた。
しかし彼女は忘れていた、何故自分がそちらに向かって進んでいたかを。
クロードが伸びている木の下には、彼女の弓が転がっていた。
「ははっ・・・私の弓、壊れちゃってる。やっちゃったなぁ・・・クロードォォォ!!!」
破損した弓の姿に、エミリアは現実が受け入れきれずに乾いた笑みを漏らした。
それもしばらくすると怒りへと変わる、絶叫を上げながら駆け出した彼女は、その足首の痛みをも忘れてしまっていた。