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ぼっち旅 韓国編  作者: 紀々野緑
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出発前夜

人生で最初の海外旅行が一人でなんて、とんでもなく無謀だと感じるでしょう。

無謀でした。出発の前日から、ネットカフェの場所がわからなかったり、外国の方に道を尋ねられたり、そりゃあもう、困難な出来事の連続でした。

ジョジョの奇妙な冒険第三部では、承太郎が宿敵であるDIOを倒すために、日本からエジプトに向けて旅をしますが、それよりは緩やかで安全な旅でしたね。

つい先日、大学生活の集大成とでも言うべき卒論を書き終えた。来年の新生活の準備等で忙しいのだが、誰にも深く語っていない出来事を記録としてのこしておくために、このエッセイを書こうと思った。

 普段は、紀々野緑という名前で活動している。もともとは、木々野緑だが、木を紀に変更した。僕の本名は木村裕太というのだが、紀村という苗字が変化して木村になったという説がある。紀貫之とゆかりがあるなんて嬉しいじゃあないか。

 そもそも、なぜ本名を公開するのかと疑問に思うだろう。試しに自分の名前をインターネットで検索してほしい。すると、同姓同名の人が大勢見つかるだろう。光宙(ピカチュウ)のような特殊な名前は例外だが。つまり、自分の名前にアイデンティティを求めることは困難なのだ。名作アニメの「コードギアス反逆のルルーシュ」の登場人物である「ゼロ」のように名前は記号でしかないのだ。多分。いや、やはりそんなことはない。名前には、親の思いや願いが込められているから。

 僕は、エッセイや小説の登場人物の名前を考えるのが苦手だ。だから、知り合いの名前を勝手に使わせてもらっている。ルルーシュは「撃っていいのは、撃たれる覚悟があるやつだけだ」と言っている。ならば、「名前を晒していいのは、晒される覚悟があるやつだけだ」

 大学一年生の春休み、僕は韓国・カンボジアを旅した。一人で。怖くてたまらなかった。今回は韓国での出来事を話そう。

 当時は日記の習慣がなかったので、正確な日時は憶えていない。二月の中旬だったと思う。出発は日曜日の午前10時くらいだったかな。福岡空港から韓国の仁川空港へ、仁川空港からカンボジアのシェリムアップ空港という経路だ。

 僕は早起きが苦手だ。北九州に住んでいたので、午前10時までに福岡空港に行くのは不可能に近い。核発射コードの流出を防ぐために、ブルジュ・ハリファという世界一高い高層ビルの外壁を、命綱なしで登るくらい不可能だ。(トム・クルーズはこんなことも成し遂げている)そのため、前日に博多駅周辺のネットカフェに宿泊し、そのまま空港を目指すことにしたのだ。

 出発前日の土曜日は、18時半から22時までアルバイトがあった。普段は辛い仕事でも、翌日は生まれて初めての海外旅行なので、いつもよりやる気に満ち溢れていた。通常運転の僕は客に挨拶をしない。恥ずかしいから。でも、この日だけはぎこちない挨拶をすることができた。とてもぎこちなくて、スーパーのエプロンをしていなければ、不審者だと思われていたかもしれない。

 旅というのは、家を出た瞬間から始まる。だから、毎日は旅だといっても過言ではない。変化のない毎日でも、それをどう受け止めるのか、ということだ。僕の今回の旅も同様に、家を出た瞬間から始まった。重いスーツケースとリュックを背負い、バイトが終わると電車で博多を目指す。

 電車には22時半くらいに乗った。小倉駅から博多駅に行くには一時間程かかってしまう。遠足前日の小学生のように、明日からの海外旅行に思いを巡らせながら、柔らかい椅子に腰を掛けた。

 こんな時間なのに、スーツを着た仕事帰りのおじさんがたくさんいて、自分が思っている以上に、夜遅くまで働いている人がいることに気づいた。現代は、24時間営業という、労働者の生活リズムを犠牲にした商売スタイルが生まれた。便利とはいえ、皆が働いているときに寝て、皆が寝ているときに働くという生活が強いられている夜勤スタッフは、世間から疎外された存在のように思う。こうなったら、弥生時代にバックトゥザフーチャーして、国民全員が狩猟採取をすればいいじゃないか。こうすれば、夜に働く必要はなくなる。こんなことを考えながら、近代化の産物であるスマホで音楽を聴いていた。現代は便利でいいなあ。

 初めて天神に行って散策をしたのは大学一年生のときである。高校生の頃まではお金がなかったから、最も少子高齢化が深刻な政令市、北九州市の小倉駅周辺で満足していた。だから、今回で博多駅を訪れたのは二度目なので、目的地であるネットカフェにちゃんとたどり着けるのか不安でしかたがない。

 博多駅を出て、スマホのナビを頼りに歩いていたが、目的地になかなかたどり着けない。ナビを使っているので、さすがに建物はわかったのだが、入り口がわからず困っていた。タクシーのおっちゃんにお願いして、タクシーで建物に突撃して入り口をつくってもらおうと考えたが、間接正犯だと判断されて、逮捕されかねないので諦めた。僕が知る限り、うちの大学の法学部で逮捕された人が二人いるからな。彼らは不起訴だったと思うが、現住建造物を破壊すれば起訴不可避。

 しかたなく、場所が分かりやすい別のネカフェを調べて、そこで妥協することにした。博多駅から離れているけどしかたがない。ナビを設定して歩きだすと、聞きなれたフレーズが耳に飛び込んできた。「エクスキューズミー」

 一瞥すればわかるほど、ザ・外国人という風貌だ。どうやら道に迷っているらしく、目的地と関連がある写真を見せてくれた。なんと、僕が先ほど目指していたネカフェである。すぐに、こう返答した。「このお店は、今日は閉店してるみたいですよ」(もちろん英語で)

 旅は道連れということで、博多駅から少し距離があるネカフェに向けて、偶然出会った見ず知らずの旅行者とともに歩き始めた。この人は、もし僕ではなく、ほかの人に道を尋ねていたら、当初目指していたネカフェを利用できたのに。とある詐欺師風にいうなら、あなたがこの経験から得られる教訓は、人生はいいこともあれば悪いこともある、ということだ。

 うちの大学は話す英語にも力を入れており、思っていたより意思の疎通ができたのでなによりだ。彼女の名前は、リンドゥ・モニカというらしく、楽器にありそうだなという感想を抱いた。年齢は教えてくれなかったが、ワシントンに住んでいて、小学校の先生をしていることを話してくれた。容姿は、「天使にラブソングを」というコメディ映画の主人公と非常に似ている。恋人が殺害される現場を目撃した結果、命を狙われるようになり、身の安全を確保するため歌手からシスターに転職した主人公に、とても似ているのだ。高校時代の文化祭で、「天使にラブソングを」の劇中歌を歌っていた生物の先生にも似ていたかもしれない。

 お互いのことを話していると、あっという間に目的地に到着した。このネカフェを利用するのは初めてなので、会員登録をしなければならなかった。僕はすんなり作成し、登録が終わったが、ある問題が生じた。モニカは日本語を話せず、店員も英語の教養がなかったのだ。

 幸い、僕は特殊な訓練を受けた日本人なので、アメリカ人とも会話ができるのだ。モニカに「ユーマストレジスター(あなたは登録しなければならない)」と伝えると、納得した表情をしてくれた。その後も通訳を続けてあげたので、モニカも会員登録が無事に終わり、ネカフェを利用できるようになった。アメリカ人の対日感情は良くなったのではないか?この成果を讃えて、国から報酬が支給されても不思議じゃあないね。

 一難去って一難くるとはその通りだ。なぜなら、ペアシートしか空いていなかったのだ。横になって眠れないじゃあないか。ほかのネカフェに移動するのが面倒だった僕は、とうとう諦めてしまった。念のため、「トゥゲザー、OK?」と確認したところ、「YES」と承諾してくれた。

 バイトで疲れていたのに、ゆっくり休めないことが分かったこの時の僕の気持ちは、SHIT!である。SHITは糞尿という意味だ。しかし、日本における「やばい」と同じように、いろんな意味をもった万能語らしい。嬉しい時も、怒った時も、悲しい時も、アメリカ人はSHIT!というのだ。このことを知らない生真面目な高校生は「I was fired. SHIT!」という英文を「私は解雇されて仕事を失いました。糞尿!」とでも訳すのだろうか。

 薄暗い、迷路のような通路を進んでいると、思っていたよりもうるさいことに気がついた。四方八方からいびきによる合唱が繰り広げられている。ホテルを利用するよりは安くてお得なのだから、我慢するしかないのだ。

 指定されたペアシートは、思いのほか狭く、やはり座って寝ることになりそうだ。モニカは例の映画の主人公と酷似しているので、ソファの三分の二を占領されてしまった。日本国内でこんなトラブルに巻き込まれるとは思わなかったので、海外ではいったいどんなことが起こり、そして僕はどのように乗り越えていくのだろうか。

 明日に備え、ゆっくり眠ろうとしたところ、急に目の前が明るくなった。モニカがテレビを観ていたのだ。もう午前一時を過ぎているのに、パンダの映像を観て、目を輝かせながらキュートとつぶやいている。美的感覚も、なんでも「かわいい」と表現する稚拙さも、どうやら万国共通らしい。

 明日は何時に起きる予定か尋ねると、六時に起きないといけないらしい。それなら、今すぐにテレビを消して寝るべきじゃないのか、と思っていると、モニカはテレビを消してリュックの中を手探りで何か探している。

 モニカは、どこかで見たことがあるものを差し出してきた。トップバリューのピーナッツチョコレートだ。四時間前に、品薄になっていたので新しく補充したばかりのピーナッツチョコレート。どうして、こんなときにバイトのことを思い出さないといけないんだ。

 二人で一緒にピーナッツチョコを食べながら、今後の旅程について話し合った。モニカは、今日まで日本を観光していて、明日の早朝、船で台湾に行くそうだ。それなら、なおさら直ちに就寝して、明日に備えたほうがいいのにな。僕は、遅くても九時に起きれば間に合うので、自分のことよりもこのシスターのことが心配だ。やれやれだぜ。人に何か指示するのは嫌だけど、この際はしかたがないので、そろそろ休んだほうがいいですよ。さもないとお体にさわりますよ、というようなことを伝えてあげた。

 モニカは、現在の時刻が午前二時に近づいていることに気がつき、少し慌てはじめて、やっと就寝の準備を始めたようだ。早起きに自信があって、わざと僕の睡眠を邪魔しているものだと思っていたが、ついうっかりして現在の時刻を忘れていたらしい。荷物を整理し終えたうっかりシスターは、やっと寝るつもりになったのか、おやすみ、とつぶやいたあとは、これ以上語ることはしなかった。返事がない、ただのシスターのようだ。

 これで、やっと眠ることができる。明日はどんな冒険ができるんだろう。期待と不安に思考を巡らせながら、一定のリズムの呼吸をすることで、眠りが早く訪れることを待っていた。そういえば、歯磨きを忘れたな。たまにはサボタージュもいいだろう。

 普段は早起きなんてしないけど、慣れない環境では目覚まし時計がなくても、二度寝することなくすっきりと目覚めることができる。時計を確認すると、午前六時を少し過ぎていたが、飛行機の出発時刻には余裕がある。モニカはまだ熟睡中だ。きっと長旅で疲れていたのだろう。気持ちよさそうに寝ている人を起こすのは、心理的な抵抗があって、申し訳ないのだが、船の出航に遅れないように、心を鬼にして彼女の体を揺すって起床を促した。このとき、高校生の頃、僕は授業中に眠ることが多くて、よく先生に怒られていたことを思い出した。

 彼女は重そうなまぶたをこすり、大きなあくびをした後に、眠そうな声でおはようと挨拶をしてくれた。四時間程度しか寝ていないので、まだ寝たりないだろうが、昨日夜遅くまでパンダの映像を観ていた彼女の責任ということで。

 会計を済ませ、重い荷物を引っ張りながらこれからのことを考えると、恐怖で頭の中がいっぱいだ。でも、この瞬間は誰かが傍にいてくれて、少し恐怖感が小さくなって安心感がある。

 しかし、出会いがあれば別れもやってくるのであり、昨夜から行動をともにしたモニカと離れ離れになることは分かっていた。このとき、博多駅から離れたネカフェを選択してよかったと心から思った、少しでも長く、誰かと過ごすことができるから。

 通勤のため、社畜たちが闊歩している博多駅前の広場でモニカとさよならをした。彼女は「Have a nice trip」と声をかけながら、手を差し出してきた。握手文化が浸透していない家庭・地域に生まれ育ったので、何らかのスタンド攻撃ではないかと疑ったが、スタンドなんてものは存在するはずがない。だから、素直に手を差し出し、家事やチョークのせいで荒れた分厚い手を強く握った。

 そして、振り返ることなく、二人は別々の道を前に、足早に歩きだした。


僕はモニカと出会えて本当によかったと思っています。

実は、博多駅に向かう電車のなかでは、不安とさみしさでとても生きた心地がしませんでした。

しかし、モニカと出会い、行動をともにすることで、僕の心は安定し、無事に出国することができました。

あの時から、モニカとは一度も会っていませんが、きっと今でもワシントンでわんぱくな児童に勉強を教えているのでしょう。

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