表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ローリン・マイハニー!  作者: 田中 義男
9/28

這い回れ!

 息を切らしながら階段を登りきると、石畳で整備された広場の中央にある池のほとりに、たまよと繭子がしゃがみ込んでいた。繭子の方は、手にカメラを構えて水面を撮影しているようだ。

「アメンボさんですね」

「いかにもアメンボですね。時にたまよ女史、アメンボは飛翔出来ることをご存知でしたか?」

「あ、はい。何度か水たまりにやって来るところを見たことがあります」

「それは羨ましい!小生も一度は見てみたいものです」

 そして、こちらに気づくことなくアメンボの話題に夢中になっている。今のうちに呼吸を整えておくか。

「あ、正義さん。お疲れ様です」

 呼吸が整うのとほぼ同時に、たまよが立ち上がり、こちらに振り返った。少し遅れて繭子も立ち上がり、振り返る。

「ああ、待たせてしまってすまない」

「いえいえ。その間に、繭子さんと一緒に、アメンボさんを観察してましたから」

「ひがみん氏!本日はありがとうございました!お陰様で、シオカラトンボの産卵の様子とアメンボを撮影することが出来ました!」

 繭子がカメラを抱えながら、勢いよく頭を下げる。ひとまず、全くの期待外れにはならなかったようで安心した。

「あとは、ドロハマキチョッキリが見られれば僥倖なのですが、やはりもう少し山間部に行かないと難しいですかね……」

 そう言って、繭子は残念そうな表情を浮かべる。

「まあ、この辺だとそこまでは難しいだろうな。ただ、さっき言ったように、近いものなら見つかるかもしれないから、少し移動しようか」

 その言葉を聞き目を輝かせる繭子の頭をたまよがそっと撫でた。

「良かったですね、繭子さん」

「はい!お二人ともありがとうございます!」

 繭子はそう言って、また勢いよく頭を下げた。口調に色々と難はあるが、基本的な礼儀は心得ているのには助かった。

 もしも人事課長をそのまま小さくしたような性格だったら……想像するだけでも厄介なので、やめておこう。

 その後、石畳の広場の東側に隣接した遊歩道に移動した。緩やかな上り坂になっている遊歩道の両脇に落葉樹が所狭しと植えられているため、今の季節は日中でも薄暗い。

「この辺りは、美味しそうな葉っぱが沢山ありますね」

 たまよが頭上を見上げて、そう言った。慌てて周囲を確認したが、声が届きそうな範囲に通行人は居なかった。

「人通りが無いから良かったが、そういうダンゴムシ的な発言は外出時はさけてくれると助かる」

「あ……すみません。つい……」

 そう言って、たまよは両手で口元を抑える。

「ひがみん氏は、少々気になさりすぎなのでは?師匠も一緒に本屋さんにお出かけした折に昆虫図鑑の表紙を指さして、あれ美味しいよ、とか大き目の声で言いだしましたが、周囲の方々はそんなに気にとめていない様子でしたよ。故に、たまよ女史の発言もギリギリセーフかと」

 こちらに顔を向けて、繭子がたまよに対してのフォローを入れた。まあ、昆虫図鑑を見て味の感想を口にする人物に比べれば大したことは無いのかもしれない。ただ、人事課長の場合は、その発言をした時の容姿によっては、あまりの不審者ぶりに周囲が無関心を決め込んだ結果そうなった、という可能性の方が高いような気もするが……

「じゃあ、あの小枝を拾ってかじってもギリギリセーフですよね?」

 失礼なことを考えていた矢先、たまよの言葉に現実に戻された。しかも、期待に満ちた表情で道に落ちた枯れ枝を指さしている。

「それはどう考えてもアウトだから止めてくれ」

「残念なことにアウトですのでどうかお止めになってくだされ」

 繭子とほぼ同時に制止すると、たまよは見るからに肩を落として、意気消沈といった表情になる。

「ちょっとした冗談のつもりでしたのに、お二人して叱らなくても良いじゃ無いですか……」

「いや、どう見ても本気の表情をしていただろ」

 それに、冗談だったと言うのなら、止められたとしてもそんなに残念な表情にならないだろうに。

 小さく嘆息を吐くと、繭子がたまよと俺の顔を交互に見てから、神妙な表情で挙手をした。何か気掛かりなことでもあるのだろうか?

 再び周囲を見渡して見たが、眼に映る範囲では特に異常は見当たらない。

「……どうかしたのか?」

 少しだけ身構えて尋ねると、繭子は神妙な表情のままで口を開いた。

「はい!小生、今のたまよ女史の発言で、大ベストセラー必至の仕掛け絵本を思いつきました!その名も『はらぺこダンゴムシ』!」

 ……実にどうでも良い発言だ。

「それもギリギリでアウトだ。それよりも、もう少しで着くぞ」

 脱力するやり取りをしているうちに、目的地の入り口にある薬医門が目に入った。門を潜り抜けると、回遊式庭園と、それを臨む古い作りの屋敷がある。しかし、繭子はそれに目もくれず、生垣の前にしゃがみ込んだ。そして、青々とした葉と青いドングリの付いた小楢の枝を拾い上げた。

「おお!これは紛れもなくハイイロチョッキリが産卵したドングリ!」

 そして一旦ポシェットにしまっていたカメラを取り出し、一心不乱にその枝の写真を撮り始める。

「親の方の姿も見られれば良かったんだろうけど、それで妥協してくれると助かる」

 そう告げると、繭子は一旦撮影の手を止めてこちらに振り返った。

「妥協だなど滅相も無い!このドングリが見られただけでも僥倖至極です!ありがとうございます!」

「良かったですね。繭子さん……きゃっ!?」

 目を輝かせて喜ぶ繭子にたまよが笑いかけいたところ、頭上にドングリ付きの枝が落ちてきた。たまよが頭に乗った枝を摘まみ取ると、枝の切り口の部分にハイイロチョッキリの姿があった。たまよはそれをじっと見つめている。

「あ、いえ、こちらこそすみません。そういうこともありますよね……え?良いんですか?」

 そして、何やら会話をして、一人で驚いている。

他に客足が無いので、あまりとやかく言う必要は無いか。

「繭子さん。こちらの方は間違って落下する方向に乗ったまま、枝を切り落としてしまったそうです。それで恥ずかしいので、撮影をしても良い代わりに、他のハイイロチョッキリさん達には、このことを内緒にしていて欲しいそうです」

「なんと!しからばお言葉に甘えさせていただきます!このことは決して他のハイイロチョッキリには他言いたしませぬ!」

 他言も何も、ハイイロチョッキリと会話が出来るのかお前は、という言葉が喉まで出かけたが飲み込んだ。流石の繭子も、呪術で虫を使役する輩にとやかく言われたくは無いだろう。

 たまよが手にした枝にとまるハイイロチョッキリをひとしきり撮影したところで、繭子はカメラを下ろした。

「ハイイロチョッキリ殿、まことにありがとうございました!」

 繭子が小枝に向かって一礼すると、ハイイロチョッキリは飛び去っていった。

「お気をつけてー」

「お達者で!」

 たまよと繭子がその姿を手を振りながら見送っている。

「これで、自由研究は片付くのかな?」

 そう尋ねると繭子は、満面の笑みを浮かべてから頭を下げた。

「ありがとうございます!これで、永きに渡る宿敵との戦いに決着をつけることができました!」

「それならば、何よりだ。ところで、たまよ、少し繭子を見ていてくれないか?」

 そう伝えると、たまよは不思議そうにこちらを見つめた。

「それは構いませんが、何かあったのですか?」

「さっきの広場で、どうやらタオルを落としてしまったようだから、取りに行ってくる」

 たまよは訝しげな表情を見せて、かしこまりました、と答えた。

「そういえば、その屋敷は中を見学出来るそうだから、待っている間に見てくると良い」

「かしこまりました……繭子さん、行ってみましょうか」

「承知!」

 二人は手を繋いで、屋敷の中に入っていった。屋敷の内からは、繭子の声と受付の職員らしき声が聞こえてくる。これならば、問題は無いだろう。

 門を潜り抜け、来た道を独り戻ると、向かいから見知った人物が現れた。

「やあ、日神。奇遇だね」

 薄い青色の半袖のワイシャツと、ビジネススーツのパンツという、いかにも外回り中に偶然出会ったというような出で立ちだ。

「お疲れ様です浦元課長。しかし、奇遇と言う言葉を尾行をなさっていた方が使われるのは、どうかと思いますよ」

 浦元の愛想笑いに、こちらも笑顔でそう返す。上手くごまかしていたつもりだったのだろうが、カフェで二人を待っている時や電車の中等で、時折視界の端に姿が写り込んでいた。

「ははは、相変わらず手厳しいな日神は。まあ、今日は仕事が夏休みだったから、少しそっちの状況を確認しておきたくてね」

 そう言い終わると、浦元は愛想笑いを止め、眉間にしわを寄せた。

「で、俺の依頼を放棄して、何をしているんだお前は?」

 迫力を出したいのだろうが、人事課長の豹変に比べたら可愛らしいものだ。

「放棄したなど、とんでもございません!私は昨夜に差し上げた連絡の通り、ターゲットに虫を向かわせましたよ。今は、自由研究の手伝いをさせています」

 愛想笑いのまま大げにお手上げといった手振りを添えてそう言うと、浦元が語気を荒げて喚き出す。

「誰が子守をさせろと指示した!?」

「危害を加えろという指示も、されておりませんけどね?」

 愛想笑いを崩さずに答えると、浦元は小さく舌打ちをしてから、やや冷静になった様子で言葉を続けた。

「あいつに復讐をしたいのは、お前も同じだろ?最近、痛い目に遭わされたと聞いたぞ?」

 そして、怨みがましい目でこちらを見つめてくる。まったく、どこから漏れたんだその話。

「こちらの事情をどこまでご存知かは分かりかねますが、浦元課長も私も自業自得だったのでは無いでしょうか?逆鱗まででは無いとはいえども、あの人の怒りに触れて命があっただけでも、有難いと思いましょうよ」

 笑顔のまま諭すようにそう言うと、浦元は鼻で笑った。

「随分と日和ったことを言うようになったな?営業成績を上げるためだけに、毒虫を使ってたような奴が」

 悪事のことを指摘して、揺さぶりをかけているつもりなのだろう。自覚して行っていたことなので弾糾されても仕方ないとは思っているが、他人から指摘されて動揺する程度の覚悟だと思われているのは少々心外だ。

「きっかけは、当時上司だったどこかの誰かに指示を受けたから、ですけどね。まあそれでも、ロクでも無い上司が思いついた割には有効な手段だったので、ソイツがクビになった後も使わせて貰いましたが。それよりも」

 笑顔のままそう言って、浦元の喉仏辺りを指差す。浦元は怪訝な顔をしてそこに手を伸ばし、違和感に気づいたようだ。

「首に青翅蟻形翅隠虫が、ついているようですよ。うっかり潰してしまうと、火傷の様な症状が出てしまうらしいです。何かの拍子で、口や鼻に入ってしまったり、目に入ってしまったらと思うと、恐ろしいですね」

 白々しくそう告げると、青翅蟻形翅隠虫が浦元の首を這い上がり、顔面に移動して目元で動きを止める。浦元は険しい目つきでこちらを睨んできた。

「そんなに怖いお顔をなさらないでくださいよ。しばらくおとなしくしていれば、その内何処かに飛び去ってしまいますよ」

 おとなしく、の意味をどう取るかは浦元次第だが、流石にこちらの意図は伝わったようで、手を握り締めて怒りに震えている。なんとも恐ろしいことだ。

「この陰険野郎……」

「よく言われます。あ、そうそう。この辺りだと、蝮も出るみたいですよ。今の時期だとかなり気性が荒くなっているので、遭遇しないと良いですね」

 浦元は小さく舌打ちをすると踵を返し、わざとらしく大きな足音を立てながら去っていった。ひとまずこれで、これ以上周囲をウロウロされることも無いだろう。

「しっかし、こんな林の中で虫使いにちょっかいをかけるなんて、浅はかな奴なりね」

「全くもってそうですね……で、いつから居たんですか……!?」

 不意に掛けられた声に、振り返ると、そこには人事課長の姿があった。それ自体は、大体予想していたので、驚くことでは無いのだが、問題はその姿だ。二つ結びの三つ編みに、黒縁眼鏡とセーラー服、足元はハイソックスと学生用のローファーという出で立ちで、肩に大きな紙袋を下げて、学生鞄を両手で持っている。人事課長の正体不明ぶりを知っている人間でも、声を聞かなければ、当人だとは分からないだろう。本人曰く特殊メイクだそうだが、そんな次元は通り越している気がする。

「ひがみんが、むしり王に就任した辺りからなりねー。マジ卍!」

 呆気にとられているこちらを気にもせずに、人事課長はそう言いながら鞄から片手を離し、指を顔の近くで影絵のキツネの形にしてウインクをした。

諸々何かが間違っているような気がする。

「……使い方が良く分かっていないなら、無理して若者の言葉を使わない方がよろしいかと思いますよ。それよりも、会社はどうしたんですか?」

「人を年寄り扱いしないで欲しいのねん!まあ、会社の方も大半の皆は夏休みで居なかったし、急ぎの用事もなかったから、外出ということにして抜けてきたなり★」

「ということは、その格好で出社したのですか……」

 半ば呆れながらそう言うと、皆慣れてるから平気、という回答が返ってきた。まあ、確かに慣れてはいるけれども……

「師匠ではありませぬか!?何故斯様な場所に!?」

 よく耳に届く声の方を振り返ると、繭子が駆け足でこちらに向かってくる。たまよも少し遅れて、その後に続いている。

「やほー、繭子にたまよちゃん★面白そうだから、来ちゃった!」

「来ちゃった、じゃありませぬ!管理監督者ともあろう者が、業務を抜け出してくるなど!」

 繭子は人事課長の元にたどり着くと、至極真っ当な憤りを見せた。人事課長は、まあまあ、と言いながら繭子の頭を撫でている。

 しかし、遠目から見ても、人事課長と気付けることに驚いたが、当の本人達はさも当然といった様子だ。

「こんにちは。ウルトラミラクルエレガントな課長さん」

 やや遅れてたまよが辿り着き、そう言って頭を下げた。たまよも人事課長の姿について、特に驚いている様子はない。

「やあ、たまよちゃん!二人とも、今日は繭子と遊んでくれてありがとね。これは、そのお礼だから、持って帰ると良いなり★」

 そう言って、人事課長は紙袋を肩から降ろすと、こちらに差し出した。受け取ってみると、予想以上に重たい。厄介な物が、入っていなければ良いんだが……

「心配しなくても、危険な物じゃないなりよ。じゃ、そういうことだから★繭子、帰るよ」

 こちらの不安を見透かしたかのようにそう言うと、人事課長は掌をヒラヒラと振りながら、去って行った。

「師匠!お待ちくだされ!」

 繭子がそう呼びかけたが人事課長は足を止めずに、おいてくなりよ、と口にしながら振り返ることなく進んでいく。

 若干呆れ気味に、まったくもって師匠は、と呟いてから繭子はこちらを向いた。

「お二人とも、本日は誠にありがとうございました!この御恩にはいつか必ず報います!では、小生はこれにて!」

 そして、そう言ってから一礼し、人事課長の後を駆け足で追いかけて行った。

「お気をつけてー」

 その後ろ姿に、たまよは手を振りながら、声をかけた。二人の姿が見えなくなったところで、不意に溜息が出た。

「……なんか、どっと疲れたな」

「お疲れ様でした。ところで、タオルは見つかりましたか?」

 たまよがそう言って首を傾げる。人事課長の登場ですっかり頭から消えてしまっていたが、そういうことにしていたんだったな。

「すまない。少し思い違いをしていたようで、ポケットに入ったままだった」

 そう答えると、たまよは真剣な表情になり、目を見つめてきた。浦元とのやり取りで虫を使役したことだし、流石に異変に気づかれてしまったか。

「正義さん。加齢による物忘れには、イチョウの葉っぱが効くそうです。先ほどのお庭に沢山繁っていたので、管理人さんにお願いして、少し分けて頂きましょう」

 ……心配した俺が馬鹿だった。

 それでも、変に不安にさせるよりはマシか。

「人を年寄り扱いするな」

 そう言ってこめかみの辺りを軽く突くと、たまよは、うう、と声を出して突いた場所を手で押さえた。

「ともかく、今日はもう帰って休むとしようか」

「かしこまりました。今日はとても楽しかったですね?」

 そうかもな、と答えてから何気なく空を見上げた。

 これだけ疲れているのだから、今日くらいは夢を見ずに眠りたいものだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ