丸まれ!
気が付くと、明るくて広い場所に居た。地面も空も白く境目が非常に曖昧だ。
遠くに、複数の子供たちが、一人の子供を囲んでいる様子が見える。詳しくまでは分からないが、良くある弱いものいじめのようだ。見ていて不愉快なので、止めようと一団に向かって手を伸ばした。途端に、取り囲んでいた子供たちが次々と倒れ、喚きながら脚や腕や頭をおさえてその場に転げ回った。
いい気味だ。
そう思った途端に視界が切り替わり、足元で騒がしく転がりまわっている子供達を見下ろしていた。
そう言えば、そんなこともあったかもしれない。きっかけは忘れてしまったが、袖口から百足を出したところを見られたとか、掌に土斑猫を載せていたところを見られたとかそんな些細なことだろう。
しかし、喚き声が煩わしい。
呼吸が苦しくなる位の膝蹴りに比べれば、虫刺されなど可愛らしいものだろうに。
足元の光景にも見飽きたので、ぼんやりと空を見上げると、白一色だった空に、滲んだ様な形の黒いシミが小さく浮かんでいた。
「正義さん、朝になりましたよ」
穏やかな声に、ゆっくりと目を覚ました。目の前には、女性の顔が至近距離で浮かんでいる……
「うわぁ!?」
「きゃっ!?」
驚いて目の前の顔を払い除けた。払い除けた方向を見ると、着物姿の女性が、膝を抱えてうずくまっている。
その姿を見て、昨夜から急に同居人が増えたことを思い出した。
「たまよか。すまなかった。ひとまず危害を加えるつもりは無いから、身を起こしたらいい」
そう命じると、たまよはゆっくりと起き上がり微笑みながら、びっくりしました、と相変わらずの鷹揚な口調で言った。
「酷くうなされていたみたいですが、大丈夫ですか?」
そして、のそのそとこちらに近づき、手にしていたタオルで、額の汗を拭いてきた。
「気にするな。よくあることだから」
眠りにつく時はほとんど夢を見ないが、夢を見る時はたいていが悪夢だ。
「そうですか……ところで、朝になりましたので、朝ごはんを」
「ああ、昨夜の食事を見たところ、そこまで大食らいというわけでは無いようだから、冷蔵庫の野菜を好きに食べるといい」
「いえ、私はまだそれほどお腹が空いていなかったので、正義さんの分を作りました」
その言葉に、耳を疑った。
「……ダンゴムシが、か?」
「はい、ダンゴムシですが、この姿になったためなのか、なんとなく作り方が分かったので」
そう言うたまよの手には、切傷も火傷も無い。不安要素の方が大きいが、思いの外成功している可能性もあるか。ダンゴムシではあるけれども。
「すみません。いりませんでしたか?」
不安げに尋ねるたまよに、頂こう、とだけ告げてダイニングキッチンに向かった。
食卓に着くと、白飯、玉子焼き、豆腐の味噌汁、小さなサラダが用意されていた。品数は少なめだが、朝食としては悪く無い取り合わせだ。警戒しながら卵焼きに口をつけたが、異臭や異物感などもなく、ごく当たり前な甘めの卵焼きだった。
「お口に合いましたでしょうか?」
テーブルの向かいに立ったままで、たまよが心配そうにこちらを見つめている。
「ああ、悪くないよ。それよりも、立ったままでいないで、座ったら?」
「かしこまりました」
そして、たまよはそのままその場にうずくまる、というようなことはせずに、キチンと椅子に座った。
その様子をしばらく見つめていると、たまよは不思議そうな表情をした。
「どうかなさいましたか?」
「ああ、昨夜マンションの植込みにうずくまりに行こうとした時はどうなるかと思ったが、どうやらヒトとしての基本的な生活は出来るようだと思ってね」
その言葉に、たまよは頬を紅潮させて慌てふためいた。
「申し訳ございません。昨日はまだ混乱していて……眠って目が覚めたら、日常のことは自然に分かるようになりました。でも、朝に活動すると言うのは、まだ少し不思議な感じです」
あまり気にしたことはなかったが、ダンゴムシは夜行性だったようだ。味噌汁に口をつけながら、普段使役するような虫以外の虫につては、あまり生態を知らないものだと感慨にふけっていると、今度はたまよの方から、一つよろしいですか、と質問があった。構わないと答えると、たまよは言葉を続けた。
「ヒトの大人は、朝起きると会社に行くと以前聞いたのですが、お時間は大丈夫ですか?」
恐らく悪意などではなく、単純に出社時間を心配したのだろうが、あまり聞かれたくない質問ではあった。
壁掛のデジタル時計の時刻は、午前7時半。職場に近い住まいとは言え、通常ならば身仕度を終えて家を出る時間だ。
味噌汁の椀を手にしたまま、どう答えたものかと考えていると、たまよがまた心配そうな表情になっていく。
変に取り繕うことも無いか、ダンゴムシ相手なのだし。
「……少しゴタゴタしたことがあって、今は休職中だ」
こちらの回答にたまよは途端に気まずそうな表情になったが、すぐに何かを思いついたようで、柔和な表情で口を開いた。
「無職になったていいじゃないですか。人間なのですもの」
「どこかで聞いたことがありすぎる言葉で、慰めないでもらいたい。それに無職ではなく、休職だ」
平坦な口調でそう言って、味噌汁を飲むと、たまよはオロオロしてから、また何かを思いついたような顔をした。また、ロクなことでは無いのだろうが、一応付き合うことにしようか。
「正義さん。私の額のあたりを突いてみてください」
味噌汁の椀をテーブルに置き、箸を箸置きに置いてから、腕を伸ばして指で額に触れると、たまよは膝を抱えて、椅子の上にうずくまった。しばらくその様子を見ていたが、そこから何かが起こるという訳でも無さそうだったため、食事を続けた。
しかし、食事を全て済ませても、たまよは動きを見せる気配もない。
「……それで?」
「……え?」
しびれを切らして尋ねると、たまよは身を起こして、意外そうな表情を見せる。
「そこから、何かが始まるのか?」
「いえ、これでおしまいですが……楽しくありませんでしたか?」
「いや、全く」
「そうですか……以前いっしょに暮らしていたヒトのお子さんは、こうするととても喜んでいたのですが……」
ああ、子供はダンゴムシを丸めるのが好きだからな……とは言え。
「ヒトの姿で丸まられても、面白みは無いと思うんだけど?」
「あ……そう言えばそうでした……」
「それに、仮に本来の姿だったとしても、ダンゴムシが丸まる姿に関心を持つ成人男性は、残念ながら少数派だ」
「そうですか……そう言えば、正義さんは成人男性なんでしたね……」
人のことを何だと思っているんだ、このダンゴムシは……若干の憤りを覚えたが、深く気にするだけ時間の無駄か。
こちらの憤りに気づいたのか気づいてないのかは分からないが、たまよは頭を抱えて、成人男性が喜ぶこと、と繰り返し自問している。そして、また何かを思いついたような表情をして、頭から手を放すとこちらの目を見つめた。
「……繁殖、いたします?」
「だからしないと言ったろ!」
またもや、あまりにも下らない提案だったため、思わず声を荒げると、たまよは苦笑しながら、そうでしたね、と言う。
「変に気を使わなくてもいい。食事を用意するだけで、充分助かる」
これ以上ロクでもない提案を続けられても疲れるのでそう告げると、そうですか、とたまよは答え嬉しそうに微笑んだ。
そう言えば、外食以外で誰かが作った食事を食べるのは、何年ぶりだったろうか。
「ところで正義さん、これで冷蔵庫の中身がレタスだけになってしまったのですが、夕ごはんはサラダだけで大丈夫ですか?」
物思いに耽っている所に、たまよが声を掛けてきた。
「大丈夫ではあるけど、明日以降のことを考えると、買い足しに行った方がいいか」
「でも、休職中でしたら、あまりご無理をなさらない方が……私の分でしたら、落ち葉を拾って来れば、どうにかなりますし……」
まさか、ダンゴムシに生活費の心配をされる身になるとは、休職前には考えてもみなかったな。
まあ、たまよの表情を見るに、見下している訳でも、蔑んでいる訳でもなく、本心で心配をしているようだから、悪態をつくのはやめておくか。
「休職中とはいえ、日々の食事に困らない程度には補償が出るから問題はない。それに、副業がない訳では無いから」
こちらの言葉に、たまよは心底安心した様な表情を見せた。
「それならば、良かったです。それでは、私も一緒にお買い物に出かけてよろしいですか?」
「構わない。むしろ、昨夜に言った通り、一人にしておく方が不安だ」
その言葉に、たまよは嬉しそうに、ありがとうございます、と言ってから続けた。
「この姿なら、白菜を手にしていても駆除されることはないですよね!?」
心なしか、先ほどまでよりも早口になっている気がする。
白菜か……季節外れでまだ高値ではあるけれども、ここまで期待に満ち溢れた目をされると、断った方が面倒な事になりそうだ。
「常識的な量であるなら問題はないが、くれぐれも買いすぎるなよ?」
念のため釘を刺すと、たまよは頭を下げて礼を述べてから胸を張って答えた。
「大丈夫です!一人で一枚食べたいなんて贅沢は申し上げません!」
……まだ、本来の姿の時の感覚が抜けていないだけだとは思うが、なんとなく不憫に思えてきた。
「この季節だと、状態は良くないかもしれないが、1束買うから好きにすれば良い」
「良いんですか!?」
「まあ、二人暮らしでも傷む前には使いきれるだろう」
そう言うと、たまよは手を合わせて、ありがたやありがたや、と繰り返しこちらを拝んできた。こういう言動と行動も、以前の飼い主から覚えたのだろうか……
「正義さんは、凄く優しいヒトですね」
一体どんな子供と一緒に暮らしていたのかと疑問に思っていたところに、胸を抉ぐるような言葉が届いた。その言葉が、嫌味や皮肉では無いことは、彼女の穏やかな表情から理解できる。しかし、嫌味や皮肉である方が、まだマシだ。
実際のところは、彼女が考えているような人間とは、似ても似つかない。
「朝食を用意したことに対して、礼をするというだけだ。一々大騒ぎすることでも無いだろう」
苦々しい表情をしながら吐き捨てるようにそう言った。それでも、たまよの表情は穏やかなままだ。
「それでも、私はとても嬉しかったですよ」
……こう言うまっすぐなタイプは、正直なところ凄く苦手だ。側にいると、酷く惨めな気分になる。
しかし、朝食のことを考えると、少しは身の回りのことの役に立つようだ。そう思えば、側に置いておく価値はあるだろう。
「ところで正義さん。お買い物に出るついでに、オヤツ用の草を探しに行っても良いですか?」
……諸々、前途は多難なのだろうけれども。
「冷蔵庫に入っているレタスで、妥協してもらえないだろうか?」
「え……オヤツにそんな贅沢をしたら、バチが当たってしまわないでしょうか?」
「当たるわけないだろ。気になるなら、洗い物の礼ということにするから、一先ず食器を下げて洗ってくれ」
そう命じるとたまよは、かしこまりました、と頭を下げてから、そそくさと食器をまとめて、流し台に向かった。流し台からは、洗い物をする音と、機嫌の良さそうなのんびりとした曲調の鼻歌が聞こえてくる。
多少不安ではあるが、洗い物をしているうちに、外出の身支度をしてしまおう。