題名
僕は仁をあしらおうとして苦戦した。
「こらっ! 財布を取るんじゃない!」
「これは僕の物だもん、渡すもんか!」
僕よりも半分も背が低いってのに、こんな負けん気に満ちていて、素直じゃないなんて。
いや、背が低いからこんなにすばしっこいんだ。そして人一倍わんぱくな性格なんだ。
仁は、まわりの家具とかを倒しても意に介さないくらいの勢いで、家中を走り回る。その身軽さといったら、兄はまるで及ばない。
「お兄ちゃんの言うことを聴くんだ、止まれ!」
「はあ? お兄ちゃんの言葉なんて聴くかよ!」
ああ、全く世話の焼ける奴。
それは財布だぞ。お兄ちゃん相手ならいいが、人様相手だったら犯罪だぞ。
僕がいよいよ本気を出して弟を追い詰めようとした、その時――
「あいたっ!」
段差だ。台所にさしかかった所で、仁は段差にこけて倒れ伏してしまう。
そのまま、じっとうつぶせになる。僕はようやく仁の元に近寄って、台所の中央、机の下に投げ出された財布を手に。
「い、痛いよう……」 仁の苦しげな様子に一瞬笑みそうになったものの、その直後僕はすっかり不憫な気持ち。
「ったく、家の中で騷ぐから、こんな目に遇うんだよ」 やれやれ、こんな弟を相手にしなきゃならないなんて。
「ああ、痛くて……起きあがれない」
仁はうめきながら。
勝手にうずくまってろ、とひそかに罵ったが、やはり気遣う方に心が向かってしまう。
「仕方がねえなあ」
「ねえ兄ちゃん、立てないから両手の方握ってくれない?」
仁は頼みこむような口調で願った。
「はいはい、分かったよ」
僕は仁の手を取って床に立たせようとしたものの、またもや予期せぬ打撃。いきなり脚を上げて、股間にぶつけようとしてきた。
「うはっ! こ、この……」
どうしてくれようか、といよいよ僕の感情が高ぶっていく。
しかし行動には移さない。
「こら、二人とも何やってるの!」
母の叱る声が後ろから。
「お兄ちゃんが勝手に僕につかみかかったんだ! つかみかかって、僕を――」
全くこの弟には世話が焼ける。
「さきにやったのはお前の方だったろうが!」
「ねえ駿、食器お洗ってって言ったわよね? いつまでも仁とけんかしてるんじゃない」
ああもう、反論したい気持ちだ。しかし結局、こういう時は弟の言い分が聴かれるのだろう。僕は怠けている、と思われるばかり。
母は胸に末娘の悠――まだ赤子と呼んだ方が良い年頃だ――を抱きながら、仁の手をつかみ、「怪我はしてない? 何してた?」と問うた。僕は腑に落ちない気持ちを何とか抑制し、家族から目を背けて皿を洗う。
「仁にいつもちょっかいかけてるんだから、少しは落ち着きなさいよね」
どうして母は仁の味方をするのだろう。時にはこっちの肩を持ってくれたっていいのに。
だが、次の言葉で一時動転。
「あと今日は蓮ちゃんが来る日だから、お菓子とかの用意、しておいて」
はっとした。すっかりそのことを忘れていた。蓮ちゃんだ。またあの子が家に来てくれる。
何を、僕は期待しているんだ? どうせこんな気持ちを抱いたところで、蓮ちゃんは結局僕に何の特別な感情を持っていない。
そもそも、そんな関係になれる間でさえ。
僕は振り向いた。ふと、仁の瞳が僕の顔に照準を合わせている。
「あれ兄ちゃん、まさかどきどきしてる?」
一体、いかなる意味でそうほざいたのだ。これが『素人特有の鋭い干渉』なるものか?
「ええい、あけすけなことを言うでないぞ」
いつもの僕なら言わないような口調で、そんなことを。
「あはは、また渋い表情になってる」
表情には見せなかったが、ぎょっと。なぜもう一人の僕がこんな時に顔を出すのだろう。意識しない間に、急に現れてくるのだ。
いきなり蓮ちゃんのことに関わることをつっこまれたからだ、と思う。
蓮ちゃん、すなわち土田蓮は、僕の従姉だ。つまり母方の伯父の、娘なのである。
彼女に僕は、ずっと昔からある種の感情を抱いており、それを久しく隠している。その感情が何であるか、言うとなるとなかなか気恥ずかしい。
だが、人生で一番初めに『友人』的な認識以上に関心を持った異性というのは彼女だった気がする。
僕よりも年上で、かつ近い。容姿端麗で、いかにもお姉さんという感じ。気立ては優しく、顔もふっくらとしていて肌もあざやかな桃色だった。
いつも顔を合わせる機会があったわけではない。
一年に数日、電車で家にやってくる程度。いや、だからこそあの人に魅了された。
ごく限られた日しか会えないような環境だったからこそ、僕は何度でも、会って話がしたいと思った。何度も顔を合わせないことで、僕の心の中には、彼女がなんだか、宝石みたいに特別な価値のある、優れた人なんじゃないかという予感がうまれた。
実際がどうであれ、僕は蓮ちゃんにあこがれをよせていたのだ。それが、あこがれ以上の感情になりかけていることに気づいたのは、そう最近のことではない。
僕は蓮ちゃんを迎えるために菓子とか茶の用意を始める。
「蓮ちゃん、玄春おじさんの土産で喜ばせてあげようよ」と仁。
「ええと……何があったっけ?」
「ほら、ハワイのピーナッツとかあったでしょ、おじさんが送ってくれた。あれ皿に盛ろうよ」
「消化に悪いと思うけどな」 先ほどの腹いせもかねて、言ってやった。
「えー。だって栄養たっぷりじゃーん」
「たくさん食べるには向いてないのさ」
話を交わしつつ、茶をくんで皿に載せ、机に運ぶ。
「あまり冷めないくらいの温度だよね、その茶」
「ああ、もちろんだよ」
いや。そこまでの感情なのか? ひょっとしたらこれは、自分の人生を飾りたてようとするための、無意味な心の運動?
母の実家、土田家はここから遠く離れたところにある。幼い頃、僕ら家族は色々な場所に繰り返し引っ越していた。そのため、気づくと簡単には行き来できない距離にこの二つの家は。
僕の父親は福建出身で、料理店の店長として働いている。母の言う所によれば、会社に勤めていたころ、昼休みのころいつも父のいた店に行くのがならいだった。何回も通うにつれ顔なじみになっていき、だんだん惹かれあって……ということらしい。
ようやくこの町に居を落ち着けたのが中学になってから。人間関係があまり長続きしなかったこともあって、なかなかうちとけて語り合える友達がいないことが悩み事だ。
だが、学校で会う人たちにはそのことをごまかしている。本当は誰にも本音を見せて語っているつもりはないのに、そうとられるように振る舞っている。
だが、本当の心はいつも見せずじまい。決して胸襟を開いて語る、なんてことはなくて。
もしかしたら、蓮ちゃんであればそれ抜きで話せるかもしれない。単なる希望だけれど。
「……なんかしゃべってよ」
仁が横からだしぬけに。
「はあ? 何がしゃべれだよ」
「いや、兄ちゃんが黙ってるとこっちもどうすりゃいいのか分からなくてさ」
「李家のみなさん、こんにちは」
その時、蓮さんの声がした。
僕の体がほとんど反射的に動きだして、台所のとなりにある通路から玄関へと至る。もう、ほとんど自動的に。
青色のワンピースを着て、頭には麦わら帽子、華奢だがどこか風流な従姉の姿。
「ほら駿、どうしたの? すぐあいさつして」
後ろから母がせかす。
何だろう、結局これも美化された感覚なのだろうか。ただ、そう思いこもうとしているだけであって。
「蓮さん」 と僕は言った。そして、驚き半分に気づいた。
もう、年齢の上下を気にするくらいになったんだ。
中学の頃は、まだ普通に『ちゃん』で呼んでたはずなのにな。去年は?
「あっ、駿、見ないうちにかなり大きくなったじゃない!」 僕がまごついているのにも関わらず、屈託ない笑顔を浮かべる。
「よう、蓮の姉ちゃん」 仁はやはりそのままの呼び方だ。
「蓮、こんにちは。悠がこんなに大きくなったのよ」
母の胸の中で悠が声にならない鳴き声をあげる。
「あっ、かわいい」 蓮さんは悠を母から、自分の子のように抱き寄せる。
それは、またかけがえのない光景。
「悠はもうまる一歳になんだけど、まだ大人びないらしくてね」
母は蓮さんと親しげに会話する。
「いや、十分大きくなりましたよ。こんなに元気なんですから」
と言いながら悠の頭をなでつける。仁はほれぼれと凝視。
ふと、不思議な願望が僕の心に湧いた。この悠になりたい。蓮さんに抱かれている姿もかわいいけれど、僕自身がこの悠だったらどんなに気持ちよかっただろうと。蓮さんの体にまとわりついて、その感触を独り占めしたいな、と。
「ねえ、駿、あなたも随分成長したね」 予期せぬ展開。
「えっ? う、うん……そうだね」 今の考えを神通力かなんかで見すかされてはいないだろうな、と一瞬不安になる。まずい、さっきまでどんな顔をしていたんだ。
「恥ずかしがらないで。とても立派になったよ」
母が取りつくろってくれる。
「とりあえず、茶と菓子を用意しておいたから、たっぷりめしあがって」
そのまま蓮ちゃんを台所にまで案内する。
「最近、そっちはどう?」
母が訊いた。
「実は妹の美奈がかねてから志望していた高校に受かったんです」
「まあ、それは良かった」 母は大きくため息をつく。以前から気にしていたのだ。
「それで私も、大学院に進もうかと」
「大学院! とても大変そうね」
「最近ひまがないんですよ。スケジュールも色々なことで詰まってるし、ここに来るのも時間を何とかきりつめて、ようやく」
「あの……」 僕も何かを話さなければ。
「ん、どうしたの?」
蓮ちゃんはやはり以前通りにしゃべってくれた。
「いや、蓮さん、とても綺麗だなって……」
蓮ちゃんはすると、顔が少し赤くなる。
「まさか、私……」
「あっ、まさか惚れてる?」 仁がまたもや不可測の言葉。
「そ、そんなわけないだろ!」
この時感じたのは、ほとんど怒りの感情に近い。
「だって蓮ちゃん、俺らのアイドルみたいなもんだし?」
ああ、と頭が痛くなる。仁はこういう性格なんだから、本当に。
「ちょっと仁、蓮ちゃんをそんなにからかうんじゃないわ」
「別にいいんです。李家の人たちってみんなそういう風に話してくれるなら、十分です」
みんな、前と同じように振る舞っている。ひょっとしたら、僕だけなのだろうか。
こんなに、そわそわした気持ちなのは。
「そういえば、玄裕さんは?」
玄裕――僕の父の名前だ。李玄裕。
「玄裕? ごめんね、まだ店の方での仕事が終わらないの」
父は、実際忙しいのだ。家でもあまり顔を合わせることがない。
「そうですか……じゃあ、後であの人に伝えてくださいね、私たちが話し合ったこと」
「ええ」
「玄春さんから新しい連絡とかありませんか?」
「ああ、最近ハワイの方にいるんだって。もう写真も送ってくれてて」
叔父のことに話が移っていく。
「ハワイ? じゃあ海の情景とか?」
「色々あって、それだけじゃないのよね」
母はそう言ってスマホを部屋の隅っこから取り出し、電源を入れる。僕はその間に考えを挟む。叔父さんが訪ねてきたのは一か月くらい前だったっけ。いまやもうそんな所にいるのか。
「わあ、すごい。これ、全部玄裕さんの?」
蓮さんが興味深そうにスマホの画面をのぞき込む。
「あの人ね、インターネット上で行く先々の記録をブログにしてるのよね。観てみたら?」
「お、じゃあ確かめてみようかな」
世界中をくまなく回っていると暇もなさそうなものだが、叔父さんにはやけに律儀な所があり、年に一回は必ず福建にある実家や僕の家に行く習慣になっている。
その時ごとに叔父さんは自分の旅の上での出来事を、なまりの強い、しかし情熱のこもった日本語で語ってくれるのだ。
「……いつもあの人、若々しくて、何年経っても年の衰えなんて感じさせないのね」
するとそこで、母の顔にちょっと陰りが見える。
「玄裕が言ってたんだけど、あまり家の人にはいい顔されなかったみたい。何しろ最初は無鉄砲に家を飛び出したっていうんだから。お金のことでも色々争っていたらしいし……」
あまり叔父さんと向こうの一家でどんないさかいがあったのか、詳しいことは知らない。聞いたことがないのだ。父自身も似たような身の上なのだから、あまり大きな口を叩くわけにはいかないのだろう。
「ねえ駿、玄春さんってどんな感じなの?」
蓮さんにとっては、ごく自然の行動だったのだろう。叔母とばかり話してるのも、味気ないから。
ただ、僕としては一瞬面食らってしまった。どう話せばいいか、まるで方法が見つからなかったから。
「まあ、陽気な人って感じ。サングラスとかかけててさ」
実際、叔父さんの格好とか所作は父とはかなり大違いだった。もちろん二人とも、誠実で素直な所がある、といえばそうだが、その現れ方が違う。
「英語がすごくうまくて、他にも色々な言語を話せるらしい……です」
そこに『です』をつけるべきだったのだろうか?
続いて仁。
「すごいのは、そういうのを現地にいる人と話しながら勉強してるんだってさ。そういうのってなかなか難しいと思うよ。コミュニケーションも鍛えなきゃならないし」
蓮さんはうらやましそうに、
「学校とかじゃなくて、語学留学みたいな? 私もそう言うの憧れてるんだけど」
「ああそうそう、このピーナッツ、おじさんが旅中で買ってきたみやげものなんだぜ」
と言って皿に盛られたのを指さす。
「え、そうなの? わあ、すごいー」
母は悠にミルクを与えている。胸に、まだ言葉にならない鳴き声を上げる子をかかえて。
やはり、どう見てもいつも通りの会話だ。違和感を感じるのは僕だけだ。
一抹の不安という奴がどうにものぞけそうにないのである。ひょっとしたら、誰もが違和感を僕に抱いているのかも。ただ、それを口に出さないだけで。
考え過ぎだろうか。だとしても、無理なからぬはず。いつの間にか、黙りこんでいる僕。
「でもおじさんも、ちょっと大変そうだったね」
豆をかじりながら蓮さんが言う。
「なんで?」 仁はやはりいつも通りの調子。
「だって二人とも国を出て、遠く離れた場所に暮らしてるんだもん。すごく苦労していると思うよ。言葉も文化も全然違うんだし。とっても努力してるんだろうなって」
その言葉に、やや不意打ちにような物を覚える。
「こんな場所で長く暮らせるなんてすごいと思う」 悪気のない口調で、仁に向かって話しかけていた。
どんな気持ちになればいいかすこし手間取った。一体、何を言いたいんだ。父ならどう思うのだろう。
「そうかもしれないわね」
母が応えた。
「あまりそういう話はしてくれないだけどね。きっと無駄ないさかいなんて起こしたくないんだと思う。何しろ、私自身も最初は色々あったから……」
少し耳を塞ぎたい衝動に駆られ、そうするわけにもいかず、僕はきょろきょろあたりを眺めまわす。
「最初結婚は色々と反対されたこともある。外国人と暮らすなんて、たくさん問題がつきまとうし、その間に生まれた子はどうなるんだ、とか。今でもたまに言われるの」
仁はきょとんとしているし、悠は何のことか分からずに口をミルク瓶に加えている。仁はまだ、あまり問題にしていないのだろう。こいつの頭は単純だから。
「でも後悔はしてない。だって誰もが受け入れることのできる人間にはなれないんだから。私は自分が行くべき道を進むしかなかった」
僕にとって、少し触れたくない話題だった。なんだか、自分が生まれた理由に何か特別な事情があるんだ――と言われていそうで、あまりいい気分ではない。
僕自身は日本に暮らしているし、日本人だと思って生きているというのに、ただ親が外国生まれだというそれだけの理由で、何か特別な人間であるように思われなきゃならんのかね。
母は、淡々とした口調を保つ。
「あの人なら信頼が置けると思ったの。だって、そんな苦労に物怖じしないで、たくましく生きているし、不満も漏らさないで働き続けてるのよ。それに、正直な性格なんだから。同じ日本人でさえだましあったりよくないこと企んだりするもの。外国人ということは何の問題でもない」
他の人と見えている世界が違うのかもしれない。
当然だ。母さんが父と結婚した理由が何であろうと、それは、僕の考えている問題とは違うんだ。
「ひょっとしたら、悪いこと言っちゃったかな」
蓮ちゃんは決まりの悪そうな顔を。
「ええと、確か私が初めてあなたたちと会ったのって、私が中学生の時のことだったっけ」
「あ……そうですね」 一体、何の感情を蓮さんに示せばいいというのだろう。
「私も、最初は不安でならなかったの。だって中国人の人がいるって聴いたんだもん、どう向きあえばいいんだろうって戸惑ったりも。でも、実際会って話してみると、結構いい人で、安心した」
僕の憂鬱気味な感情も知らず。自慢げに話す仁。
「そりゃ父さんはがっちりしてるし、料理だってうまいし、気配りだってとれてる。他の人にはできないことだよ。僕らの父さんはあの人以外になんかありえない」
偽らざる心情なんだろう。普通なら父親をそうやって誇る物なんだ。
「そうだろ兄ちゃん?」
「ああ……そうだね」
自分が一体どういう表情なのか分からない。母の顔から察すると、どうやら浮かない気分のものらしい。
母は、僕が自分の出自に対して悩んでいるのかと考えたらしく、
「はっきり認めなさいよ。仁がそう言ってるんだから」
おかしいぞ。僕がこれしきのことで感傷に浸るわけがない。先ほどまで僕は何を考えていたんだ、そっちの方にまず思いをめぐらせるべきだろ――
「元気ないね、駿ちゃん」
蓮さんはいたわる感じに言った。詮索してくる様子ではなく。
「別に、元気がないわけじゃないんです」 これを言った瞬間、後悔しないまでも、迷った。もはやこれは、愛情ではなく敬意なのだろうか。
さっき、目の前にいる従姉に対し、もう昔みたいに対等な口を利けなくなったことに悩んでいたんだった。
だんだん、僕はガキでなくなりつつある。あの時みたいに、無邪気に何かを考えこめるガキじゃない。
「なんか兄ちゃん、隠してる?」
びびった。それは、鈍感な人間がたまに見せる鋭い直感とやらだ。
「違うんです、隠してるとかじゃなくて」
僕は蓮さんに必死に弁解。
「僕は最近、高校の生活にようやくなじめるようになって来たんです」
意を徹して、しゃべり始める。
蓮さんの気に入ってもらわなきゃ。口数が少なくて、顔もくらい、そんな李駿でいいのかよ。
「人間関係には色々と悩んだんだけれど、だんだんこつがつかめてきて、どうにかみんなの気分をあまり変にさせないように。ああ、この頃は勉強もみんなと一緒に協力してて……」
「へえ? うんうん」
蓮さんは真意のよく分からない様子で相づちを打った。
空気を取り持たねばならない。あんな変な態度をとってしまった罪の埋め合わせをしなくてはならない。
「どれくらいの人数でとりかかってるの?」
「二人親友がいて、そいつらと勉強だけじゃなくて、よく店に食いに行ったりもしてるんです。クラスの生徒たちとはまあうまくやってますよ。でも不思議だな、中にはどうしても僕のがんばりを評価してくれない人もいて」
今の僕は言うべきことを言ったのだろうか?
認めてくれるか?
「駿ちゃんってこんなに口がうまかったっけ?」
蓮さんは、ちょっと不思議そうに。
「蓮ちゃんと会えてうれしいから気持ちが高ぶってるんでしょ」
「うーん、そうかな」
仁は疑りぶかい、と感じでもなく、その声を、気のせいかなと自分に言いきかせる位にとどめた。それこそが、僕の心を寒からしめるのだ。ただ悠が何も知らない、のんきな顔を浮かべながら母に抱かれている。
父が帰ってきたころ、日はだんだん落ちかかり、空はちりちりと赤色を増していた。
父は、一見肉が多くも少なくないし、顔もさほど覇気があるわけでもない。しかし、やはり厨房の熱気を常に浴びているせいだろう、やや日焼けしていて、またその体の所々がごつごつしている、という点で力の強そうな印象がある。
「あっ、おかえり!」
真先に母と仁が駆け寄る。
「今日、蓮ちゃんがたずねてきたの」
母がそれを伝えると、父はなまりの強い日本語で、
「蓮ちゃん。何、言ってたか?」
すると、母は蓮さんとの色々な話をしたと聴かせた後で、僕が少し落ち込んだ態度になっていたことを話す。
僕は、三人からは見えない、少し離れた場所に立ち、まごつきながらそれを。
「何でしょうね。前はあんなことなかったと思うんだけど。どう?」
「駿? 駿、どこにいる?」
すると、それに感想を言うことはせず、妙にかんだかい、調子の鋭い声で。
僕は、こういう時に父と接するのがかなり面倒くさいと思っていたので、動こうとする気持ちが起こらなかった。
「怒らないから。こっちに来て」
それで僕は恐る恐る玄関に歩いて、父の前に来た。
「何か、嫌な気分でもあった?」 疑いとまでは行かなくとも、その顔はどうしても訊きたいという雰囲気。
「いや、別にそんなことはないよ」
母と悠と仁が、真意をさぐろうとでもするかのように見つめてくる。
なんだろうな、どうして隠し事なんてする必要があるんだろう。それくらいのこと、珍しいことでもないのに。わざと性格を謎めいたものにして、かっこつけてるわけでもない。
「最初従姉と目を合わせた時から、ふと思ったんだ……もう、昔みたいに振る舞うべきじゃないんじゃないかって。よく分かんないけど、自分のあるべき姿は、何も知らないガキみたいに笑ってさわぐんじゃなくて、もっと静かにして、礼儀正しくして、変な口たたかないことにつとめるべきなんじゃないかって」
「よくいう『物心ついた』という奴?」 仁がそばから。
「昔から物心くらいついておるわ……」
仁は納得できなさそうに腕を組んだ。
「なら、どういうことだよ。蓮ちゃんにどう自分を見せればいいか分からないから、勝手にそれをでっちあげてるだけなんじゃ?」
僕の心の中にいる別の誰かが、声にならない叫びをあげた。やめろ、ともう一人の僕がつっこむ。全く、何回繰り広げられたけんかなのだろう。
「難しい子」 母は、非難するわけでもなく、ただ腑に落ちないのをぼやく時の声で、そうつぶやく。
しかし、父は、僕が悩んでいる姿を視て、なじるみたいなことはしなかった。
「……人間の心は、よくわからないもの。誰がどういっても、変えることはできなく、理解することができないことがある」
父が、僕の心を分かってくれたかどうかは、何の確証もない。いや、そんなことを想像すべきじゃない。
いちいち、人の理解なんてことを考えてたら、誰も信用できなくなってしまうじゃないか。それに、僕の家族なんだから。
「もし、急に人の心が変わってしまっても、気がおかしくなったなどと考えるのは違う。多分、それなりに理由、あるかもしれないだろうから。でも、それを詮索しちゃだめだな。それが礼儀」
「じゃあ、その理由を知らないままでいいっていうの?」 仁が不満気な上目遣いで父を見上げる。
「知らないままでいいとは言わない、しかし完全に知ることも難しい」
はっとする。もしかしたら父は、おじさんの自分のことを、実家のことに重ね合わせているのだろうと思った。父にしても、なぜ国を出たのか、身の回りから同じように受け取られたに違いない。
父も同じような悩みを抱いているんだ。
ふと心が軽くなった気がした。僕だけじゃない、と。でも、それは単なる推測に過ぎないって?
「僕はとがめはしない。なぜなら、人の心を絶対に理解したなんて言えないんだから」
父はそう言ったきり、ふとそっぽを向いた。仁はどうにもならない、という顔で母の方に向け直す。母は口にわずかに笑いを。恐らくは、言語化する以前にその意を汲み取ったのだろう。
「それより、実はいい情報あるから、聴いてくれ」 思い出したかのように告げる、その顔は明るい。
「玄裕から電話が来た。近日また地元に帰るらしい」
「あら、本当?」 母が問う。
「ちょうど、もうすぐ来る連休で到着するだろうと。一緒に行かないか?」
仁はすでに同様。
「ええと、つまり父さんの実家にまたみんなで集まるってこと?」
父は莞爾とした。
「ああ、数年ぶりのことな。二人、行きたいか?」
「行きたい行きたい!」
仁は大声で叫んだ。僕はああもう、とあきれてしまう。そうやってすぐ気が他の物にひきつけられるんだから。
「あら、もう決めちゃったの?」 母も突然のことでまごついている。
「何しろこれまでは玄春がいなかったから。玄春が含めて集まるのができるのは初めてだ。今しかないだろ」
「まあ、急なことだし……」
仁には、しかし別の世界が見えていた。
「えー、何でだよー、またあっちに行けるんだぜ?」
「分かるか仁? 母さんはいきなりそういうことを伝えられたから、戸惑ってるんだよ」
僕は兄としての職務を示そうとして、たしなめる。
「いや、違うのよ」
「え?」
「あのね、二人とも。あなたたちは、成長したことに気づくべきよ。気づいて、それを深く理解しなくちゃだめ。それをまず考えなさいな」
少し厳しめな様子でさとす。
「前に会った時とはずいぶん経ったんだから。成長した自分の姿を、よく観察して、どれくらい変わったか把握しなくちゃ」
成長、か。もしかしたら、成長ということを理解するにはあまりに頭が痛くなりそうな気がした。
「成長っつったって、俺はまだ成長するくらいの年齢じゃねえぞ」
「いつだって人間は成長するものなの」
父は不思議そうに首をかしげている。
「どういうことだ? 人間は前に成長することがある、そして、逆に成長することがあるぞ」