伽の二・香りたくない少女の話
「……ひまですねえ」
「……ひまですね……」
ぼんやりとお茶を飲んでいるハニアとカシュアが、ぽつりぽつりとつぶやいた。秋口の午後、ゆうべから降り出した雨がしとしとと降り続いている。
「お客が来ない……!」
おぼろな既視感を覚えつつ、カシュアがテーブルに顔を埋める。そのふるまい、このあいだの『くちなしのお客』でしょい込んだメランコリーも、ようやく薄れてきたようだ。
内心で安心のため息をつき、ハニアがカシュアの頭に触れる。さらさらの金色の髪をふわっと撫でて、女店主は小花のように微笑んだ。
「……カシュア、ひまつぶしにおひとつ、お話をしてさしあげましょうか?」
「お話?」
顔を上げたカシュアに、ハニアが小首をかしげて微笑う。
「ええ、私がこないだ、眠れない夜に考えたお話です」
「おお、いいなそれ! ぜひに聞きたいですマスターっ!」
思った以上の食いつきに、照れ笑いながらハニアが口を開いた。
「昔むかしのそのまた昔の話です。あるところに、『フィニア』という名の少女がいました」
「フィニア? ここいらあたりの方言で、『良い香り』って意味ですね!」
「ええ、そうです」
ふわりとはにかんだ女店主が、くるくる言葉を紡いでゆく。
「フィニアは、自分の匂いが嫌いです。匂いというより、香りというべきなのでしょうか。生まれた時から、フィニアの体からは花の香りがしていました」
ふんふんとうなずく愛弟子に、ハニアは言葉を重ねてゆく。
「妙なる香りを、両親や親戚は不思議がり、それ以上にめいっぱいに喜びました。『ねえパパ、この子、フィニアって名前にしましょうよ』……! ママの提案を、みんなは喜んで受け入れました」
興味深げにうなずくカシュアに、ハニアは嬉しげに語り続ける。
「そういう訳で、生まれたばかりの女の子は『フィニア』という名をつけられました。けれどもフィニアは、そんな自分の名前も好きではありませんでした」
「えぇえ? どうして?」
「フィニアはね、こう思っていたんです。(わたしには、香りしか良いところがないみたい)って」
ほおをふくらした愛弟子が、心外そうな声を上げる。
「ええ? だって良い香りなんでしょう? 悪い臭いならともかく、『良い香り』っていう自分の名前が嫌いって……」
お子様思考の青年に、ハニアはちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「だからですよ」
「……えぇーえ?」
「体の匂いを褒められ続けて、フィニアはほかのことに自信が持てなくなったんです。実際、彼女は香りに勝るような美点をひとつも持っていなかったから」
納得のいかなさそうにうなずくカシュアに、ハニアはなおもこう続ける。
「丸っこい顔は可愛らしくとも、決して美人とはいえません。髪はくしゃくしゃのくせっ毛で、学校の成績もあんまり良くないし、運動神経もありません」
カシュアが聞きながら、つんとくちびるを尖らせる。だだっ子のような表情に、ハニアが苦笑して先を続けた。
「それでも彼女の周りには、絶えず人が集まりました。体から発する香りのせいです。皆の言うことは、いつもおんなじ。『良い香りだね』『本当、良い香り!』」
「……香りのこと、だけですか……」
カシュアが何か考えこみながらつぶやいた。ようやく分かりかけてきたらしい。かすかに笑みを含んだハニアが、また言の葉を紡いでいった。
「皆みんな、わたしじゃなくて『わたしの香り』が好きなんだ……そう思いつめた少女はやがて『香り』という音を耳にするのも、嫌になっていきました」
カシュアがすんと鼻を鳴らした。心細そうに眉をひそめて、ハニアのことを見つめてくる。幼い表情をなぐさめるように微笑んで、ハニアが再び言を連ねた。
「そうしてある時、フィニアに『セダム』という名の恋人が出来ました。『君が好きだ』。そんなストレートな一言で、セダムの方から告白をしてきたのです」
緩やかな話の転換に、カシュアが思わず身を乗り出す。そんなしぐさをなだめるように、ハニアが微笑に微笑を重ねた。
「セダムはいつも優しくて、フィニアを大切にしてくれました。けれどフィニアの心には、いつも疑いが宿っていました。(この人もきっと、わたしの香りだけが好きなんだ)」
泣き出す準備をするように、カシュアがきゅっと眉をひそめる。繊細な愛弟子の心を思い、ハニアは緩やかに微笑んだ。
「少女はある時、セダムに向かって聞きました。『ねえ、あなたはわたしのどこが好き?』 香り、と答えられたなら、別れるつもりで聞いたのです」
「……それで、セダムはなんて答えたんです?」
「『香り』」
ああ。ああ。
やっぱり、そうか。
ひどい心的ダメージを受け、カシュアがフィニア本人のようにうなだれる。そんな青年の耳もとに、信じられない言葉が届いた。
「『……以外の、全部』」
「…………え?」
「『全部好きだよ、ぶさいくな仔猫みたいな顔も、ぽちゃっとした体つきも、ちょっとひねくれた性格も。香りも嫌いじゃないけどさ、香り以外のいいところを見る邪魔になる』。そう言いきってはにかむセダムに、フィニアは思いきり抱きつきました」
ほうっと肩の力を抜いて、カシュアがほっとした笑顔を見せた。物語の終わりを聞いたつもりの耳に、また言の葉が流れてくる。
「それから十年経ったある朝、フィニアはセダム似の、双子の娘に訊きました。
『ねえ、二人はママのどこが好き?』『香りーっ、以外の、全部ーっ!』
声をそろえて答える双子に、フィニアはとろりとろけるような、はちみつの笑顔を見せました」
「おぉお、すげぇ! 大団円じゃないですか!」
カシュアが思わず立ち上がり、心から感嘆の言葉を吐いた。ハニアはちょっと照れくさそうに、自分のほおに指をあててはにかんだ。
「……この間いっぱしの口をきいといてなんですけど、やっぱり私、ハッピーエンドが好きみたいです!」
ハニアがさらっと告白し、いたずらっぽい笑顔を見せる。
……そう。『ほんとの人生にほろ苦い結末が多いなら、お話の中くらいハッピーエンドが多くても』……。
このあいだのカシュアの言を思い出し、ハニアは宝物みたいに、自分の胸へ手をあてる。カシュアはちょっと不思議そうな顔をして、それからふっと窓の外へと目をやった。
「あれ……いつの間にか雨、やんだみたいだ!」
軽くはずんだカシュアの言葉に、ハニアもつられて窓を見る。
しっとり濡れた窓ガラスの向こうから、はちみつ色の秋の日光がとろり、柔らかくさしてきた。