香の三・臭い消し
みわみわみわと、蝉が鳴く。
店の周りをぐるりと夏が取り巻いているようだ。一歩店内から外に出れば、そこはセミたちのパラダイス。つまりは『人間にとって灼熱地獄』ということだ。
氷水晶という、魔力を帯びた鉱物をでんと接客スペースの真ん中に据え、涼をとれるのがありがたい。
「……ああ、この水晶から離れたくない……」
「ふふ、でもお客様がいらしたら、一緒に接客お願いしますね」
「そりゃあ、もちろん! うーん、でもこの手ひどい暑さに、このだだっ広い野原を突っ切って、この店までお客さん来ますかね……?」
「うー、耳が痛いです……」
「あ、あ! ごめんなさいマスター!」
ふざけて耳をおさえるハニアに、カシュアがあわててあやまっている。「冗談ですよ」とおどけて舌を出す女店主に、愛弟子は思い立ったようにばっと窓を指さした。
「――そうですよ、大体! この窓がそもそも問題なんです!!」
「……まど?」
「だってこの窓! 店内からも店外からも、誰か人が近づいたって姿がまるっきり見えないんですもん!」
そう、この窓にはおかしな魔法がかかっているのだ。なんでもこの建物の前の前の持ち主が、へんくつな魔法使いだったらしい……。
「きっと前にお住まいの方が、人間嫌いだったんですね。……自分の姿も外の人に見せたくない、たまに来る客人の姿も見ずに、居留守を使って追い返したい……」
「つっても、それは前の住人の勝手じゃないですか! 水晶の冷気が逃げるから、もちろん窓も開けらんないし、来るか来ないか分からん客を待つっつーのは、めっちゃストレス……」
「――その客が今、来たところだが?」
落ち着いたバリトンがふと響く。一人の男が、いきなり店内に姿を見せた。
「うぅお! いらっしゃいま……」
――う。臭い――。
思わず口に出そうになり、カシュアは鼻を覆うのを危うくこらえて頭を下げた。
玄関のベルも鳴らさずに、いきなりやって来た長身の客。彼は煮しめたようなモスグリーンの、厚いローブをかぶっている。このうだるような暑さの中を、この格好でひたすら野原を突っ切って、はるばるやって来たのだろうか。
……切れ長の目が、フードのすきまからちらりとのぞく。鮮血さながらの赤い瞳が、射抜くように店の二人を見すえている。その声と背の高さからして、客は若い男性らしい。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね?」
臭いをまるで気にせぬそぶりの女店主に、カシュアはひそかに感嘆する。
(マスター、すごい! 俺よりもずっと鼻がきくから、気づいてないはずないのにな……!)
そんなカシュアの表情にすら気づかぬふりで、ハニアは客へ向かってにっこり笑う。客はローブのすきまから、一輪のくちなしの花をのぞかせた。魔法でもかかっているのだろうか、八重咲きの白い花はふっくらと、枯れもしおれもしていない。
ハニアはそのくちなしの花に目をとめて、にこやかに首をかしげて問いかける。
「本日ご入用なのは、オーダーメイドのお茶ですか?」
「ああ。このくちなしの香を、紅茶葉へと移してほしい……それで、」
若い男が、ばっとローブを脱ぎ捨てた。死臭にも似たきつい臭いが、香る店内へ充満する。
カシュアは鼻を覆うのも忘れ、男の肌をまじまじ見つめた。
ゆでた卵の白身のような、つるりつややかな男の肌。その白い肌のあちこちに、床に落とした果物の傷さながらの、大きなあざが浮いている。
いや、よく見るとあざではない――黒く歪んだその部分から、体が腐っているのだった。
男はやるせなさそうに鮮血色の目を細め、小さな声で問いかけた。
「それでその茶を飲んでいたら、この臭いも少しは緩和されるだろうか?」
ハニアがはっきりとうなずいた。ほっと息をつく男をうながし、ティーテーブルへ導いてゆく。
「さあさ、まずはこちらへおかけになって。今お茶をお淹れしますわね。十時のお茶をいただきながら、詳しいお話をうかがいましょう」
見た目にひどく幼いながら、その口ぶりはまぎれもない『女店主』だ。
正直初めは少しだけ、男はとまどっていたらしい。けれどそのしぐさ、口ぶりに安心したのだろう、綺麗な瞳をふっと緩めて、くちなしを手に初めてかすかに微笑んだ。
* * *
ハニアはくちなしの香りのアイスティーを淹れた。
以前から商品として店にあった、作り置きの茶葉から抽出したものだ。濃いめに淹れたくちなしの茶を、氷のたっぷり入ったグラスにそそぐ。
嬉しげに茶を飲んだ男の腐臭は、それだけで少し和らいだようだった。
「……この黒ずみは、病気なんだ。それも死病だ。むろん伝染りはしないがな」
つぶやくように語り出した若い男が、ふとはかなげな笑顔を見せた。
「私には、愛する妻がいる。結婚して半年になる」
甘いのろけが、耳に痛い。
カシュアが男から、死病の証の浮いた肌から、目をそらす。一杯めの茶を飲みほした若い男は、お代わりをついでもらいながら、ふわりと柔くはにかんだ。
「妻は気にしないふりをしているが、この臭いと共に暮らすのは苦痛だろう。かといって、香水は刺激が強すぎて、傷んだ肌が受けつけない。少しでも臭いの和らぐ方法はないかと探していたら、この店に行きついたという訳だ」
この口ぶりで、分かる気がする。
きっとこの人は、『人の上に立つのに慣れているひと』だ。代々どこかの貴族の血なのか、若くして才能で勝ち上がり、会社のトップにでも立ったのか……。
……けれど今、彼の肌にぼつりぼつりと浮き上がるのは、死病の証の黒いあざ。こうして病に侵されて、この人は毎晩何を思って、眠りについているのだろう。
――そもそも、眠れているのだろうか。いろいろな考えに押し潰されて、時計の針の音をかちりかちりと聞きながら、夜に目を開いているのだろうか。
ああ、何だかこっちの胸まで苦しくなる……。
カシュアは萌黄の瞳を歪めて、一人黙ってうつむいた。
「……八重のくちなしは、妻の好きな香りでな。初めてあいつにあげたのも、このくちなしの花束だった」
ハニアがつつましやかに微笑い、男の手から一輪の花を受け取った。用意していた基本の紅茶『ファカルナ』に、ひらひらとくちなしの花をすりつける。花びらが淡く光り出し、ぱっと一気にほぐれて散り落ちる。お茶缶の中はまたたく間に白い花びらで彩られた。
手渡された香茶に鼻を近づけて、男はふわりと満足そうにはにかんだ。
「……うん、良い香りだ。ありがとう」
男は香茶を手にして帰っていった。
「お帰りは大丈夫ですか」と気づかうカシュアに、男はふっとありがたそうに微笑んだ。
「何、なにもこの暑さの中をセミの声を聞き、歩きで帰る訳ではない。俺は風に巻かれて帰る」
言った瞬間、男は文字通り湧き上がった『風に巻かれて』、あっという間に姿を消した。
「……魔法使いか……」
ぽつりつぶやいたカシュアは、何ともやるせない気持ちになった。
魔法使いは、『幻術師』より格が上。だって幻術はやっぱりまぼろし、ひきかえ魔法は現実になる……。そんな世界の『暗黙のルール』は、必然魔法使いの階級の優位にもつながっている。
――けれど、それでも、魔法で死病は治せない。香りの紅茶を買い求めたくなるほどに、自分の腐臭もままならない……。
カシュアはくちなしのお茶の入ったカップを手に、冷めかげんのお茶を一気に飲みほした。せり上がってくるため息も、くうっと一緒にのみ込んだ。
……ハニアのついだ香茶のおかげで、店にこもった腐臭はだいぶ凪いでいる。けれど胸に芽生えた痛みは、なかなか消えてはくれなかった。
* * *
店の真ん中から、氷水晶が姿を消した。
暖房はまだいらないが、二人の着るものも半袖から長袖になって、セミの声は今はほとんど聞こえない。店の周りの野原では、鳴き出した秋の虫の音に消え入りそうなかすかな声で、みわ、みわ、と生き残りが鳴いている。
カシュアは丸い窓を透かして、空に連なるいわし雲を眺めている。萌黄の瞳が雲の向こうの遠くを見ている。半分ひとりごとのように、ハニアに向けて口を開く。
「……あのくちなしのお客さん、あれきり店に来ませんね」
どうしてんだろ。
ぽつりとつぶやくカシュアの腰のあたりへ、ハニアが優しく手を触れた。
「そろそろ、お茶にしましょうか」
「……そうっすね、お茶にしましょう! 何はなくともお茶ですよ!」
気持ちを切り替えようとして、カシュアが明るく返事をする。その言葉に、ハニアがくすくす笑い出す。
「いやだわ、そんな言い方されると、ここにはお茶しかないみたい」
「いやいや、そんなことないっすよ。お茶とたしなむ茶菓子があります!」
おどけた弟子の言の葉に、女店主が笑いながら可愛くほおをふくらませた。カシュアの気持ちをほぐすため、さりげなくおとっときの香茶を淹れる。
オールドローズのお茶をカップにそそいだ刹那、ドアベルの音が鳴り響いた。
からんからん、からん……。
綺麗な音に招かれて、一人の女性が入ってくる。淡紫色のショールをひいて、しとやかな微笑を浮かべるのは、二十歳そこそこのご婦人だった。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね?」
ハニアの問いかけに、女性が頭を振りかけて、あいまいなしぐさでうなずいた。かげりを帯びたすみれ色の目をそっと細めて、淋しそうに微笑した。
「……以前、夫がこちらへうかがいまして」
小首をかしげる女店主へ、女性は穏やかな声で説明する。
「八重のくちなしを持ってきて、オーダーメイドでお茶を作っていただいた……」
カシュアがはっと息を呑む。思わず間に割りこんで、女性に向かい問いかけた。
「あの方、今はどうしてますか?」
「……ひと月ほど前、亡くなりました」
「…………っ!」
女性の答えに、カシュアがぎゅっと顔を歪める。繊細な青年の腰になだめるそぶりで手を触れて、ハニアが女性をうながした。
「どうぞ、こちらへいらしておかけになってくださいな。ただ今カップをお持ちしますね」
ハニアがそそいだ薔薇の香茶を飲んだ女性は、やっと柔らかく微笑んだ。
「……美味しい。くちなしのお茶も美味しかったけど、これも本当に美味しいわ」
ほっと息を吐いた女性が、ぽつりと小さくつぶやいた。
「ショックでした」
ころんとこぼれた言の葉に、カシュアがわずかに首をかしげた。女性が亜麻色の巻き毛を揺らし、静かに言葉を重ねてゆく。
「あんな状態になってまで、気を使わせてしまっているんだと、そのことが本当にショックでした。自分の体の臭いなんか、気にしてる場合じゃないのになって」
ああ、あのお客さんの気づかいのことを言っているんだ。
カシュアは内心でつぶやいて、今はもう目にすることの出来ない、いつかの男性の笑顔を思う。妻のことを話す時、その険のある血のように赤い瞳は、意外なほどに可愛く見えた。
女性はもう一度カップに口をつけ、ほころぶように微笑ってみせた。
「……けど、その気づかいが嬉しかったのも事実なの。本当に私のことを想ってくれているんだな、って」
穏やかな口調。綺麗な表情。
けれど目の前のこの女性は、心のうちできっと静かに泣いている。そのことが分かってしまうから、カシュアはそっとうつむいた。
「だからまた、くちなしのお茶がほしいんです。もう時季は終わってしまったけれど、あの人が最期にまとっていた香りを、いつも感じていたいから」
カシュアがくちびるを噛みしめて、ひざの上でこぶしを作る。女性は優しく自分のおなかへ手をあてて、ひどく柔らかくささやいた。
「それに、この子にもかがせてやりたいんです。顔も見られずに亡くなった、お父さんの香りを」
ああ、そうか。
この女性は、おなかの中に……。
抑えていた感情が、両の目からあふれ出す。カシュアはがっと立ち上がり、全力でキッチンへ逃げてゆく。それを見送った女店主が、ふわりと小さく微笑んだ。
「すみません、とんだ無作法を。あの子、とても涙もろくて」
「いいえ。……いいえ」
静かにささやいた『お母さん』の瞳から、ひとしずくの涙が伝う。涙の落ちた手のひらで、優しく柔く、ふくらみかけたおなかをさする。
「もう名前も決めてるんです。男の子でも女の子でも、『ルレィラ』という名にしようと」
ルレィラ。
ここいら辺の方言で、『八重のくちなし』という意味だ。ハニアはかすかに目を見はり、やるせなさそうに微笑んだ。
「良いお名前」
二三度せわしくまたたいて、ハニアが小さくつぶやいた。
「……本当に、良いお名前だと思います」
微笑ってうなずく女性の目から、静かな涙がひとひら落ちた。
* * *
女性はやがてくちなしの香茶の缶を手に、ハニアの店を去っていった。
目と鼻を真っ赤にした愛弟子が、キッチンからやっとのことで顔を出す。
「……ごめんなさい、マスター」
黙って微笑を浮かべたハニアが、新しく香茶を淹れなおす。季節外れのくちなしのお茶は、何とも華やかで、何とも甘く……お茶を黙って口に含んで、カシュアがぽつりと問いかける。
「旦那さんが、いなくなって……どうやって暮らしていくんでしょう……」
魔法使いの愛する夫を失って。きっと母一人子一人で、これからいったいどうやって……。
ハニアは静かに微笑んで、お茶菓子のクッキーののったお皿をすっとカシュアの方へすすめた。
立ち入っては、いけないこと。
きっとそういう何もかもを大事に抱えて、あの人は生きてゆくのだから……。
言葉にしない言葉が胸の中まで沁みとおり、カシュアは何とも言えない想いで、クッキーをぽりりとほおばった。
美味しいはずのクッキーは、何だかのどにつかえるようで、くちなしの香茶はしみじみ切ない香りがした。
窓の外のいわし雲が、ゆっくり、ゆっくり、水色の空を流れていった。……