鼻休めの二・写真
カシュアがハニアに弟子入りして三月めの、夏の初めのことだった。
「おはようございまー……っと……」
からんからん、と勢いよくドアベルを歌わせた青年が、きゅっと言葉をちぢこめる。意外そうに見つめた先に、女店主がすわっていた。椅子の背もたれに緩く柔く体をあずけ、すやすやと眠りこんでいる。
「……珍しいな、マスターが居眠りなんて。ゆうべ夜ふかししたのかな……?」
起こさぬように小さくつぶやき、カシュアがそっと萌黄の瞳をまたたいた。
(眠った顔って、初めて見る)
青年は足音を忍ばせて近づいて、女店主へ骨ばった手をさし伸ばした。おそるおそる伸ばした指が、胸もとのロケットへと触れる。
いけないことだと、分かっている。
分かっていながらそれでもなお、知りたくて知りたくてしょうがない。ハニアがその小さな金の器の中に、誰の面影を秘めているのか。
(……実家で飼ってる猫とかだったら、良いんだけどなあ……)
毒にも薬にもならぬ結果を期待しつつ、カシュアが指先に力をこめる。
ぱちん。
軽い音を立てのぞいたのは、カシュアにとって一番近しい人だった。チョコレート色の髪に、緩く弧を描く細い眉――。
「……親父……っ」
なぜか一瞬泣きそうになり、カシュアはくちびるを噛みしめた。
(ふうん、そうか。そうなんだ)
マスターがロケットに忍ばせてまでいつも一緒にいたいのは、俺の親父の写真なんだ。
たまらなく胸がもやもやして、カシュアが深く吐息をつく。こっそりロケットのふたを閉めると、ぱちんと軽く音がした。その音が合図だったように、ハニアがふっと目を開ける。
「あれ……カシュアさん?」
「う、うわぁっ!! すすすすいませんっマスターっ!!」
「? ……何がですか?」
「えぇ、あぁ、いや……っ!」
吹き出た汗を拭いながら、カシュアが大きく息をつく。どうやらバレてはいないらしい。ハニアはいっそ艶っぽいほどあどけないしぐさで目をこすり、言い訳のようにつぶやいた。
「すみません、私寝ちゃってたんですね……? ゆうべは生のままのお茶の葉に、いろいろ香りを仕込んでたから……」
「あ、あぁなるほどぉ! それでゆうべは遅くまで、ずっと寝られなかったんですね!」
おかしいくらいに息を弾ませる青年に、少女店主は不思議そうに、ほんのり首をかしげてみせた。
かさっ……!
繕うような笑いを見せるカシュアの手から、乾いた音を立て封筒が落ちる。封筒の開いた口から、写真が数枚ちらりと顔をのぞかせた。
「あ、あぁ! すいません!」
「……写真ですか?」
「ええまぁ、こないだ親戚中で集まった時の写真ですよ。今日の朝方出来るってんで、写真屋に寄ってから来たんです」
かがみこんで拾いあげるカシュアの手もとを、女店主が興味深げにのぞきこむ。目線に気づいて、カシュアはさらっとマスターに写真の束を手渡した。
手渡された一番上の写真には、見慣れた顔も映っていた。カシュアとカークゥがどこかしら似た雰囲気で、二人並んで笑っている。その横に、カシュアそっくりな女の人が、柔い笑顔で映っていた。
「この方はお母様ですか? あなたによく似ていらっしゃる」
「ええまぁ、しょっちゅう言われます!」
じっと写真に見入ったハニアが、ほんのりわずかにほおを染める。照れくさそうな上目づかいで、めずらしく弟子におねだりした。
「……カシュアさん。この写真、一枚いただけないでしょうか?」
「え? ええはい、いいっすよ。じゃあ焼き増ししてきますね!」
とっさに軽くうけおった後、カシュアはふっと気がついて、何ともいえない気持ちになった。
あ。
ああ、そうか。
ロケットの中の親父の写真、新しいのと取りかえるのか。
カシュアは萌黄の瞳を細め、目の前の少女店主を見つめた。
香茶師ハニア・ハニウ・ハニュウ。幻術の力で茶葉に香りを移す人。店主自身が思いついた珍しい、もしかしたら世界でここにしかない仕事。
そのきっかけを与えてくれた恩師に対して、女店主は甘い想いを抱いている。
たとえばそれは、恋にも似た。
いや、そうじゃない。もしかしたら、
(……恋、そのもの)
心のうちでつぶやいて、カシュアが一瞬泣き出しそうな顔をする。くちびるを噛みしめた愛弟子を、ハニアが小さく首をかしげて見つめている。
――と、二人してふっと窓の外に目をやって、まるで一時に口にした。
『……あ、蝉!』
みわみわと鳴き出したセミの声に、二人で一緒に微笑い合う。
「この声は『ノノハラゼミ』ですね。文字通り『野原に住んでいる』セミで……この地域にしか生息してないそうですよ」
「へえ、なんか毎年、当たり前みたく声聴いてたなぁ……マスター、お詳しいんですね」
「いえいえ! 祖父の方がずっと……!」
「おじいちゃんが?」
首をかしげるカシュアに向かい、ハニアが懐かしそうな笑みを浮かべる。
「ふふ……実は祖父は、昆虫学者をしてるんです。私、小さい頃は虫が苦手だったんですけど、何だかだんだん慣らされちゃって……。今は毛虫も大丈夫です、むしろ可愛く思えますよ!」
「へえ、意外! 虫見たら『きゃー』っていうタイプかと思ってました!」
「とんでもない」とくすぐったそうにはにかんで、ハニアはしみじみと窓の外を見る。
「……セミの声、今年初ですね」
「そうですね……」
言いながら、カシュアはこっそり、またくちびるを噛みしめる。
みわみわと心に沁み入る、セミの声。
カシュアにとって、今年の夏の始まりは、ちょっとほろ苦いほの甘い、カラメルみたいな味わいがした。




