香の二・最後の一輪
「だぁあぁあ出来ねぇえぇっっ!!」
破れかぶれな大声が店の空気を震わせる。
勢いこんで翌朝やって来た青年は、ひとしきりの『修業』の後に絵に描いたように肩を落とした。あいまいにくちびるを噛んだ『マスター』が、心の中でため息をつく。
(どっちかっていうと、私が落ちこみたいんだけれど……)
はっきり言えばカシュアには、香茶師としての才は乏しい。
オレンジ、シナモン、ラベンダー……ハニアが課したお題のいずれも、香らせることは出来なかった。
けれど、幻術師としての才能は素晴らしい。オレンジの皮を伝う水滴、シナモンの木肌のなめらかさ、ラベンダーのぽつぽつとした紫色の花……そのすべてのイメージを、カシュアはありありと具現化してみせた。
「……幻術、お上手なんですね」
思わずつぶやいてしまうハニアに、カシュアが「とんでもない」とお褒めの言葉にぶんぶん両手を振りたてる。
「やだなもう、よしてくださいよ! 香りが重要なモチーフで、香りをイメージ出来ないなんて、幻術としては最低だ!!」
目の前の『弟子』は当然のように言いきるが、なかなかどうして……。総合的なイメージに香りまで付加するという技は、相当な腕を持った幻術師でも難しい。
(この人は、求めるレベルが違うんだ……)
何だか自分が情けなくなり、ハニアはこっそり吐息をついた。
気を取り直して微笑んで、カシュアへ右手をさし伸べる。と言っても、身長差がえぐいので『さし上げる』? といった格好なのだが……。
「少し骨休めをしたら、やり方を変えてみましょうか。はなから香りを作るんじゃなく、素材から香りを取り出す方法に。とにかく少し休みましょう? 今お茶を淹れてきますから」
はた目には『美青年と可愛らしい幼女』……。しかし、その実態は『師匠』と『愛弟子』。優しいマスターにさとされて、カシュアがしょんぼりうなずいた。
* * *
目の前に供された一杯のお茶に、カシュアが鼻をうごめかせた。
「あ。この香り……」
「どうぞ、召し上がってくださいな」
思い出深い香りのお茶を、ハニアが微笑って弟子へすすめる。
春の終わりの今時分には、少し季節外れの香り。
それでもハニアはこの香茶を、目の前の人に飲ませたかった。カシュアは静かに香茶をすすり、目を閉じてしみじみとつぶやいた。
「……うまい」
その口ぶりが、その吐息が、あこがれのあの人にそっくりで、ハニアはゆっくりはちみつの目を見開いた。ほんのりほおを染めたカシュアが、たたえるそぶりでカップをかかげる。
「これ、木苺の香りですよね。俺、木苺好きなんです」
女店主がひとたび、ふたたびまたたいて、こそばゆそうにほおを緩めた。その目が少し潤んでいるのに気がついて、青年が気づかわしげな顔をする。
「あの、」
問いかけようとした刹那、からからとドアベルが歌うように音を立てた。
店の中に入ってきたのは、上品な老婦人だった。その白い手に、一輪の咲ききった薔薇を持っている。ハニアが微笑って立ち上がり、手慣れた様子で訊ねかけた。
「いらっしゃいませ。本日ご入用なのは、オーダーメイドのお茶ですか?」
老婦人は黙って微笑ってうなずいて、撫でる手つきでバラを示した。
「ええ。このバラの香りをね、お茶に移していただきたいの。ここはそういうことも出来ると、お店のうわさを以前どこかで耳にして……」
ハニアがにっこり笑ってうなずくと、老婦人はほっと胸を撫でおろした。何か言いたげに口を開いて、そのまま静かに口をつぐんだ。しわの寄った目をまたたき、ゆっくりとうつむいてしまう。
少女店主はもう一度小さくうなずいた。それから婦人へ向かって、可愛い右手を『さし上げた』。
「初めてのお客様には、試飲をおすすめしております。木苺のフレーバーはお嫌いですか?」
「え? ……いいえ?」
「それでは、すぐにカップをお持ちします。どうぞこちらへ……おかけになってお待ちください」
流れるような客あしらいは、見た目には少し違和感がある。それでもその店主っぷりに、素直なカシュアは思わず感嘆のため息をつく。
キッチンへ姿を消した女店主は、ほどなくして白いカップと水をそそいだ小瓶を手にして戻ってきた。
「失礼します」
幼い手をさし伸ばして小瓶へ婦人のバラを活け、代わりのようにお茶をそそいだカップを渡す。香茶へ口をつけた婦人は、ほっとしたような笑顔を見せた。
「……美味しい。このお茶、とても美味しいわ」
「ありがとうございます!」
老婦人の少しくすんだ青い瞳に、微笑むハニアとカシュアが映る。女店主の実年齢と見た目のすさまじいギャップにも、歳を重ねた老婦人はちゃんと気づいているらしい。
何か考えこむようにひどくゆっくりとまたたいて、老婦人はしわの寄った口を開いた。
「……このバラ、最後の一輪なの」
唐突にこぼれた言の葉に、カシュアが盛大に首をかしげる。淡く微笑んだ老婦人が、自分の言葉をおぎなった。
「小さなちいさなバラ園の、ひとり息子にもらったバラなの。恋人同士だったのよ。……彼は五十年以上昔に、病で死んでしまったけれど」
婦人はそこで口をつぐんで、聞き手の反応をそっとうかがう。
女店主は幼い顔に穏やかに笑みをたたえながら、老婦人の言葉の続きを待っている。対して青年のほうは『どんな顔をしたらいいのか分からない』という表情だ。
対照的な二人の様子を目に染ませ、婦人は再び口を開いた。
「その人とは幼い頃からの友だちで、お互いに想い合っていた。けどわたしたち、結ばれることはなかったの。わたしには、親の定めた相手がいたから……。とても遠くに住んでいた、顔も知らない許婚……」
カシュアが居心地悪そうに身じろぎした。目の前で当事者が語る、こんな話には慣れていない。カシュアの様子に気づいていながら、婦人は淡々と話し続けた。
「わたしは親にしたがった。明日の朝に嫁ぐわたしに、幼なじみの彼は小さなバラの苗をくれたの。『結婚祝いだよ』って微笑って。『この株はとても丈夫だから、君の引っ越し先の土地でも、きっとうまいこと根付くはずだよ』って」
カシュアがせわしくまたたいた。萌黄色の目が泳いでいる。ハニアは小さくうなずいて、老婦人へ話の先をうながした。
「わたしは苗を嫁ぎ先の庭へと植えた。夫は何も言わなかった……けれど、きっと全てに気づいていた」
青年が急に咳ばらいする。落ち着きのないカシュアのしぐさに、ハニアは少し不思議そうに首をかしげた。婦人はバラを見つめながら、なおも言葉を重ねてゆく。
「それから半年もしないうち、幼なじみは亡くなった。病気のことを知らされたのは、彼が亡くなってからだった。わたしは彼がいなくなってから、初めて病の名を知ったの」
「お相手が臥せったご病気は……?」
女店主の問いかけに、老婦人は泣き出しそうに微笑した。柔い笑みをほおに浮かべて、懺悔の口ぶりでささやいた。
「――恋わずらいよ」
ぐっとのどを鳴らしたカシュアが、きつくくちびるを噛みしめた。またたく萌黄の瞳から、ひと粒涙がこぼれて落ちる。
(……ああ。この人、あんがい泣き虫なんだ)
ハニアが内心でつぶやきながら、気づかないふりをしてあげる。ぽちゃっとした桃色のほおには、穏やかな微笑さえ浮かんでいる。老婦人がカシュアを見つめてなだめるように微笑んで、終幕へ向けて言葉を継いだ。
「それからもう半世紀。ついこの間、夫も病で亡くなった。バラ園の彼にもらったバラも、もう寿命が来て枯れかけている。今目の前にあるこの一本が、本当に最後の一輪なの」
告白を終えた老婦人が、口もとに淋しい笑みを浮かべた。
「だから香りをつけてください。このバラの香りを、紅茶葉に。ほんの少しでも長い時間、あの人のなごりと過ごせるように」
カシュアが口もとへ手をあてた。もうさっきから、形の良い鼻をぐずぐず言わせている。(可愛い)と内心でつぶやいて、ハニアがそっと微笑んだ。
「ご注文、うけたまわりました」
女店主が緩く胸もとへ手をあてて、おっとりした子ヒツジのように立ち上がる。
いったんキッチンへ引っこんで、お茶缶を手に戻ってきた。ぱこんとお茶のふたを開け、ささげるそぶりでバラをつまんで、茶葉の頭上で軽く振る。
バラの花びらが淡く柔い光を帯びて、桃色の滝さながらにぱっと一気に散り落ちる。散りたての花びらが、見る間に茶葉を彩った。
「どうぞ、かいでみてくださいな」
自信ありげな微笑とともに、ハニアが缶をさし出した。老婦人がおそるおそる鼻を寄せてにおいをかぐ。婦人は「まあ」と思わず声を上げ、とろけるような笑顔を見せた。
「……良い香り。咲いていた頃より濃厚な、でもちゃんとあのバラの匂いだわ」
(うわさで聞いていたとおりの、本当に見事な仕事ぶり)
しみじみとした小さな声で褒めたたえ、老婦人が少女のように、枯れた胸もとへ手をあてる。
「――ありがとう」
そう心から礼の言葉を口にして、老婦人はお代を置いて去っていった。やせた胸にお茶の缶ひとつ、大切そうに抱きながら。
ようやく涙の引いたカシュアが、鼻を鳴らして女店主に問いかけた。
「……あの人、あのお茶飲むんですかね?」
「分かりません。口にするのをもったいながって、ポプリみたいに匂いをかぐだけかもしれません。けれど、それはそれで良いんです。お客様に香りでご満足いただくことが、私の仕事で、喜びだから」
満足そうに答えるハニアに、カシュアが黙ってうなずいた。女店主をじっと見つめて、「それなんだよなあ」と言葉をこぼす。
「はい? 今何かおっしゃいました?」
小さく首をかしげる『見た目幼女』に、カシュアは『にっ』と笑ってみせた。
「いいえ、何でも。ていうかマスター、弟子の俺に敬語使わんでいいですよ」
「そ、そうですか? 分かりました」
「ちょ、分かりましたって、マスター……!!」
まるで分かっていない返事に、ハニアとカシュアが顔を見合わせ、こそばゆそうに吹き出した。