鼻休めの一・事のおこり
その日の深夜、ハニアはベッドの上で一人きり目を開いていた。
あの後は結局相手の押しに流され、本当に弟子にとることになってしまった。
「お、もう雨あがったかな? そんじゃっ、マスター! また明日っから、改めておうかがいします!!」
そう言い残し、あっさり帰った『弟子』の笑顔が灼きついている。まぶたの裏に灼きついて、目を閉じるたびに熱っぽいため息が出てしまう。
「……ほんとに困るわ、『マスター』なんて! 私いったい、明日からどうすればいいのかしら?」
ため息はきっともうじき3ケタになる……なんて大げさに考えながら、ベッドサイドテーブルの小物かけへ手を伸ばす。ロケットをぱちんと音立てて開き、憧れの恩師の写真へ語りかける。
「先生、どうしたらいいんでしょう……?」
と言っても、カシュアにこの店を教えたのは先生本人らしいから、『弟子入りの件』は彼も納得しているらしい。それでは、いくら写真にすがっても意味はない。
(いったい全体先生は、何をお考えなんだろう?)
心のうちでそうこぼし、ハニアがそっとはちみつ色の目を閉じる。まぶたの裏の『弟子の笑顔』はうっすらと、ようやくかすんできてくれている。遅ればせながら浮かんできた眠気に混じり、昔の記憶がよみがえった。
* * *
これはすごい。
なかなかに……こう言ってはなんだけど……。
「ボロいでしょう?」
「……けっこう『時代がついて』ますね……」
ストレートなカークゥの言葉に、ハニアはやむを得ずうなずいた。フォローするような口ぶりで、祖父母から教わった綺麗な言い回しを使う。
『時代がつく』……言やあ『古い』ということだ。
恩師が紹介してくれた、『お茶のお店』の店舗候補。
そこはハニアの実家から徒歩二時間ほど……すさまじく年季の入った家だった。大きな金木犀の樹が家のとなりに一本きり、あとはひたすら野っ原の海……さびれている。ここは文句なくさびれている。
「僕が前教えた生徒の、おばあさんの家だったんです。おじいさんに先立たれて、一人暮らしで……今は生徒の家族と同居を始めて、この家は出来れば誰かに使ってほしいと……『あんまり古くて汚いので、なんなら無料でも良い』そうです」
ハニアはしばし考えこみ、おずおずと右手をあげて提案した。
「こ、香茶ひと缶でよろしいでしょうか……?」
「はい?」
「毎月、『旬の香りをつけたおとっときのお茶』を、ひと缶さし上げるということで……」
「……香茶を?」
物問いたげな顔をされ、ハニアのほおがぼっと一気に熱くなる。言い訳のように口を開いて、熱いほおをもてあましつつ、めっちゃ早口で説明する。
「いえあのなんか! なんか『メインの商品についてくる、いらないおまけ』みたいですけど! お店を始めて当分は、まとまった売り上げは見こめないだろうし、かといっていくら建物に『めっちゃ時代がついて』いても、借り賃がまるまるゼロでは申し訳ないと思いまして……っっ!!」
言い終わったハニアの耳は、紅葉したみたいに芯から真っ赤になっている。カークゥがふっと萌黄の目を開き、嬉しそうに微笑した。
「じゃあ、良いんですか? ここでも」
「……は、はいっ! 私、ぜひここをお借りしたいです! いっぱい掃除して綺麗にして、ここでお店を始めたいですっ!!」
「そうですか。じゃあ先方にはそのように……じゃあハニアさん、後ろを向いて少し目をつむっていてください」
予想もしなかった言の葉に、ハニアが少しきょとんとする。それから素直に後ろを向いて目をつむると、急に心拍が上がってきた。
(ももも、もしかして……キス? ううん、そんなのありっこないわ!! 大体、それじゃあ何で後ろを向くのか分からないし……っ!!)
そんなことを考えると、またぽっぽっと顔が火照ってくる。暗い視界にカークゥが近づき、両手を動かす気配がする。ちゃりっとかすかな音がして、ひやい感触が首に回った。
(…………っ?)
ハニアが思わず目を開くと、己の首すじに金の装飾がかかっていた。
「……ペンダント?」
「そう、君の決意へのプレゼントです。良かったらどうぞ、使ってください。ロケットペンダントなので、好きな写真を入れられますよ」
「……ありがとう、ございます……!」
ハニアはロケットを両手で包み、かすれた声でお礼を言った。そのまま何か考えていたが、やがてまっすぐ顔を上げ、『真剣さのカタマリ』みたいな声音でお願いする。
「……あのっ! もしよろしければ、先生のお写真くださいませんか?」
「……僕の、ですか?」
「はいっ! 少しロングの……! お顔を切り抜いて、このロケットに入れるのにちょうど良いくらいの、先生のお写真くださいませんか……っ?」
もう告白に近かった。
そうして、その言葉でもう手いっぱいだった。
(分かっているんだ、痛いほど。先生にはご家庭がある。そうして、私はまるきり『そんな目』で認識されてない)
当たり前のこと。だってハニアは、そういう先生が好きなのだ。家庭を大事に、良いパパで良いだんなさんで、幸せで……そんなカークゥが好きなのだから。
カークゥはすっと萌黄の瞳を開き、それからゆっくり目をつむって微笑んだ。穏やかな表情でうなずいて、ハニアの頭を子どもにするように撫でてやる。
その顔が――ふいに昼間目にした、カシュアの笑顔になり変わった。
* * *
「っ!!」
意外な思考の変化に驚き、ハニアがあわててベッドの上に身を起こす。自分でじぶんをなだめるそぶりで、すべらかな胸もとへ手をあてた。
「……似てるからだわ、瞳の色が!」
言い訳のようにつぶやいて、再びベッドへ横になる。
(明日っから、改めておうかがいしますっ!!)
少し舌っ足らずな声音が、脳裏に甘くよみがえる。またしてもまぶたの裏側に、『弟子の笑顔』がありありと浮き出してきてしまう。
(……でも、ちょっとだけ楽しみになってきたかも、明日の来るのが……)
心のうちでつぶやいて、ハニアは一人毛布を握ってはにかんだ。それにしたって、せっかくの眠気の逃げて行っちゃったのは問題だけど……。
ハニアはふうと甘いため息をまたついた。
(あ、きっと今ので3ケタ超え……)
またも大げさに考えて、おまけにも一度ため息をつく。そんな少女を、お茶と素材の混じり合った優しい香りが包んでいた。