黄の終・香りと言《こと》の葉《は》
桜の花咲く季節になった。
カリアは『龍涎香』の香りがとても気に入ってしまったらしい。何かというと香りをイメージして遊んでいる。
今日もまた、本を読んでいるカロンの背中に抱きついて、兄の鼻先で『龍涎香』を香らせていた。
「お兄ちゃん、これすごく良い匂いでしょ? ……良い匂いだよね?」
初めははしゃいだ口ぶりで、その後からすがるようにカリアが訊ねかけてきた。
カロンは少し黙りこみ、何のはずみか、つい正直に答えてしまう。
「ごめん。ぼくには、分からない」
「……え?」
向き直って幼い妹と目線を合わせ、カロンは静かに口を開く。
「ぼくには、匂いが分からないんだ。匂いがあってもかげないんだよ」
こんなにあっさり打ち明ける気になったのは、海苺の件があったからなのか。
読みかけの本に押し花のしおりをはさみ、カロンは妹を抱き上げて、ひざの上へとすわらせた。
カリアは、萌黄色の瞳をこれ以上ないくらい見開いて、呆然と目の前の兄を眺めている。
「……香りを、かいだことないの? 今まで生きてて、いっぺんも?」
「うん。今までただのいっぺんも。どうやら生まれつきらしいんだ」
つぶやく口調で言葉を紡ぎ、カロンはじっと妹の目を見つめた。
カリア、お前はどう思う?
香りをかげない『お兄ちゃん』を、お前はいったいどう思う?
「そんなお兄ちゃん、嫌い」って思うのか? 「そんなお兄ちゃん、いらない」って……、
想像だけで胃が痛くなり、思わずきつく目をつぶる。そんなカロンの両耳に、妹のまあるい声音が飛び込んできた。
「――お兄ちゃん! あたしね、今日、図書館行きたい!」
「…………は?」
いったい何をどうやったら、そんな言葉が出てくるんだ?
――まさか、ぼくは鼻だけじゃなくて、耳まで壊れちゃったんだろうか……?
頭があんまりぐるぐるする。そんな兄に向かい、ひざの上の妹は一生けんめい言葉を紡ぐ。
「あたしね、図書館に行って、『香りについて書かれた本』を、めーいっぱい借りてくるの!」
「……それで、いったいどうするんだ?」
かげないぼくへの、あてつけか……。
そう思ってしまった兄の手を、カリアがぎゅうっと握りしめる。ひとつの嘘もない声音で、はっきりとこう宣言した。
「あたし、言葉の力がないから、いっぱいいっぱいお勉強する! そんで、お兄ちゃんに言葉で『香り』を伝えるの!」
耳から花が咲くみたいだった。聞いた耳からあったかいものが一気に全身を駆けまわる。体じゅうが熱くなり、熱の塊が両目にぐーっと上がってきて、今にもあふれ出しそうで……、
そんな姿を見られたくない。それ以上にもうあんまりに体が火照ってぽかぽかして、兄は幼い妹を、しがみつくように抱きしめた。
「……おにい、ちゃん……?」
「……ごめん、カリア。ありがとう……ありがとう……っ!!」
抱かれた肩口が何だかほのかに湿ってきた。
(あ、お兄ちゃん……)
何だろう、なんだか訳が分からない。分からないまま、カリアもつられて萌黄の瞳を潤ませる。カロンはにじみににじんだ声で、何度もお礼を言いながら、カリアの首すじに鼻をうずめた。
――『香り』も『匂い』も『臭い』さえ、一生かげやしないけれど。
生まれて初めて、かげた気がした。
妹の肌の桜の香りが、その一瞬だけ、きかない鼻に届いた気がした。




