香の一・お天気雨とお客様
『今朝の空は、透き通る海の青に真珠のレースがかかったようだ。』
お天気雨をそう例えたのは、いつの時代の作家だったか。
「えぇーっと、どの本の、何ていうタイトルの話だったっけ……? うぅん、思い出せないなあ……」
香茶店『ファカルナ』の店内で、『幼げな少女』が小首をかしげて考える。この女の子、ハニアがここの店主だと言っても、10人中9人が「ウッソだあ!」と笑うだろう。
ぽやっとしたはちみつ色の瞳、ふわふわした栗色のボブヘアー。小さな背たけ、幼い手足、地味ながら可愛らしい黒のローブドレス……。
どっから見ても幼女な彼女、その実は『ものすごい童顔、その他もろもろ』なのである。成人になりたてほやほやの、立派にここの店主である。
ともかくも『今日の空は、透き通る海の青に』……そのフレーズがふとよみがえる、今朝は久々のお天気雨。ハニアは丸い窓の内側から、ガラスに伝うしずくを幼い指先でつうっとなぞる。
「お天気雨でも、けっこう元気の良い雨ね……! 今日はお客様、いらっしゃるかな……?」
うう、自分で言っててちょっと悲しい。悲しいけれど、つい口にしたくなるくらいに事実。こんな天気ではよけい客足は遠のくばかり、そして口にするとなお悲しい。
「……やだわ、これじゃ負のループだわ! 悲しすぎるメビウスだわ! ……そうよ! こんな時はお茶だわ! お茶を飲みましょうっ!!」
自分でじぶんを追いこんだあげく、お茶で気分直しをはかる。何しろここは『香茶店』、お茶だけなら腐るほどある。いや、腐ったら大変だけど!
ハニアはあわててくるりとターンし、奥のキッチンに向かおうとする。栗色の髪がふわふわ軽く肩に踊る。ローブドレスのスカートのすそが、ひらりと風を含んで揺れる。
ふっとふり返り、がらがらの店内を改めて見回し……十八歳の女店主ハニアは、思わずため息してしまう。
この店を始めて、二年目になる。
幻術の力をベースにいろいろなものの香りを移した、甘い紅茶を扱う店。ハニアは『香るお茶』ということで、それを『香茶』と呼んでいる。
けれど、お客はなかなかつかない。さっき嘆いてしまったように、こんな雨の降る日には、客が来るほうが珍しい。『普通のフレーバーティーと、いったい何が違うんだ?』と、そう思われているのだろう。
「いったい、何が違うのかしら……?」
自分でもよく分からなくなり、少女店主が眉をひそめて首をかしげた。今さらのような考えに、何だかきゅーんとおなかが空いたみたいな、足もとが頼りない気持ちになる。こういう思考はハマると落ちこむ。落ちこむのが分かっているから、ハニアは急にテンション高く声を上げた。
「……良いわ、お茶だわっ! とにかくまずはお茶にしましょうっ!!」
無理やり思考のルートを戻して、大きく両手を打ち合わせる。と、首から下げた金のロケットのペンダントが小さく跳ねた。
「…………あ、」
ハニアの目線が己の胸もとにふと落ちる。……気持ちがふわっと柔らかくなり、少女店主は思わずはにかみ、ロケットのふたをぱちんと開けた。
チョコレート色の髪に、緩く弧を描く細い眉……。
ハニアの恩師のカークゥの写真が、ロケットの中で微笑っている。ハニアは写真を両手で包みこみ、ぽつりと一人つぶやいた。
「カークゥ先生、お元気かしら……?」
写真の姿に『今朝の夢の記憶』を重ね、少女はうっとりと声にする。
カークゥ=カーリス=カリービア。
おっとりとして目立たない、けれど本当は底知れぬ幻術の力を秘めた人だった。
落ちこぼれのハニアを優しく見守り、ここまで導いてくれた。今住んでいるこの店舗も、彼のつてでただ同然で使わせてもらっているものだ。
(……また、会いたいなあ……)
そう思っても、落ちこぼれだったハニアにとって、学校へ訪ねていくのはハードルが高い。どうしても気後れしてしまう。
かといって、カークゥの家に直接行くのも気がひける。恩師の家を訪れたのは、店舗の件でお世話になった一度きり。カークゥ以外は用事で出かけていたらしく、ハニアはいまだに彼の家族とも顔を合わせたことはない。
「先生に、会いたいんだけど、なぁ……」
ハニアはしみじみとささやいて、ぱちんとロケットのふたを閉めた。そのまま軽く握りしめ、はちみつ色の目を閉じて甘酸っぱい想いにひたる。
『からんからん、から……っ』
店内にドアベルの音が響く。少女店主は『自分以外の鳴らしたベル』にちょっとはっとして目を開ける。見たことのない青年が、店の中へと飛びこんできた。
黄金色の髪に、萌黄の瞳。ぱっと見女性かと思えるほどに整った顔の青年は、ぶるぶると犬の仔のように濡れた頭を震わせた。
「いやぁ、降られた! びしゃびしゃだあ!!」
あどけなさの残る声音でそうこぼし、青年はハニアに向かって苦笑する。ハニアは何だかおかしくなって、思わずくすっと笑みをこぼした。それからくせで小首をかしげてにっこり笑い、白い手を優雅に揺らして椅子をすすめる。
『さっきまでの言動と別人みたい!』と言うなかれ。店を開いて早二年目、『営業用のエレガンスさ』は、もうすでに嫌というほど身に着けている。
……悲しいかな、幼女みたいな見た目では優雅さより可愛さの方が勝ってしまうが、そこは気にしてもしょうがない!
「雨宿りの方ですか? でしたらどうぞ、こちらへいらしておかけになって。今すぐタオルをお持ちしますわ!」
「や、どうもすいません!」
ちゃっかり腰を下ろした男に、ハニアが柔いタオルを渡す。
人心地ついた青年へ、少女は香茶を淹れて差し出した。口もとへカップを運んだ青年が、ふいに何かに気づいたように、くん、と鼻をうごめかせた。
「何だろう、何か甘くて良い匂い……?」
「ここの売り物の香茶です。桜の匂いをつけたんですよ」
「ああ、なるほど。そうなんだ!」
青年はそれこそ『はしゃいだ仔犬』を思わせるような笑みを浮かべて、そっとカップへ口をつける。そのまま萌黄の瞳を閉じて、ほうとしみじみ吐息をついた。
「……これ、うまい……なんか、『花の蜜吸う小鳥』になったみたいな気分!」
少し詩的なおほめの言葉に、耳のあたりがくすぐったい。男の大きな瞳の色が、柔い記憶を呼び覚ます。
(この人、カークゥ先生に似ている――)
髪の色も、顔立ちもまるで違うけど。春の若葉をゼリー寄せにしたような、萌黄の目の色がとても似ている。ハニアはいつになく甘い心もちになり、つくづくと男の瞳を見つめてしまう。
(カークゥ先生、今ごろはいったい、どうなさっているかしら……?)
「……あの、あのう、店長さん? どうしました? ぽーっとしちゃって!」
ハニアが、はっと我に返る。
気づけば自分の店の中、雨やみを待つ青年と二人でお茶を飲んでいた。カークゥそっくりの萌黄の瞳が、気づかわしげに少女店主を映している。ハニアは軽く首を振り、ふわとあいまいに微笑んだ。
「いいえ、何だかちょっと昔を……昔に出逢った、素敵な方を思い出して……」
「ふぅん? でも昔を懐かしむ年でもないでしょう。ハニアさん、俺と同い年くらいだもん!」
ふいに自分の名を呼ばれ、ハニアがはちみつ色の目をぱっちり大きく見開いた。
どうしてこの人、私の名前を知ってるの? それに『同い年くらい』って、何でそんなこと分かるのかしら? 私はいつも、歳より幼く見られるのに!
――そう! こないだなんて、通りすがりのおじさんに『お嬢ちゃん、甘いアメをあげようか、でへへへ……』って! あれは相当やばかったわ!!
何だか考えがとっちらかってきたハニアの前で、青年はぐうっと大きくのびをした。
「はぁあ、ようやく落ちついた! そんじゃあ本題に入ろうか……!」
「……ほ、本題?」
と、いきなり真面目な顔になった青年が、一つ大きく頭を下げた。
「香茶師ハニア・ハニウ・ハニュウさん! 俺を弟子にしてください!!」
「で、弟子ぃいっ!!?」
思ってもみなかった申し出に、思考が軽く爆発する。あわあわとあわてて両手を振りながら、ハニアはテープの高速回転みたいにしゃべり出す。
「ととと、とんでもない、私があなたの師匠だなんて! 私幻術師の養成学校で、どうしようもない落ちこぼれで、結局とちゅうで退学して勢いだけでこの道に……っ!!」
「ああ、知ってますよ! 父からさんざ聞かされました!!」
「……お、お父様から?」
ますますパニくる女店主に、青年がにっこり笑って言葉を継いだ。
「申し遅れました。俺、カシュア=カーリス=カリービア。幻術教師、カークゥ=カーリス=カリービアの息子です!!」
「…………え? え? えぇええぇえっ!!?」
思考、完全爆発。白いほおに血をのぼせるハニアの手をとり、カシュアがすさまじい勢いでがぶり寄る。
「で、弟子の件OKですか? OKですね? よし決まり! ハニアさん、じゃなくてマスター、これからよろしくお願いしますっ!!」
めまいのするような急展開に、ハニアが呆然と目を見張る。
初めての『弟子』の萌黄の瞳に映る自分は、何だかめちゃめちゃ情けなかった。例えれば、そう……『ポップコーンを口いっぱいに突っ込まれた小リス』のさまを思わせて、それはそれはおまぬけだった。
ぱたぱたとしていた雨音が、少女の『ぽかん』につられたように、ぱつ、ぱつ、となごりの音をさせ、いつの間にか消えていた。……