黄の二・海の苺とマッコウクジラ
黙りこくった兄妹が、あてずっぽうにクジラを探して歩いてゆく。
砂浜をのぞむ海岸通りは、海からの風でわずかに肌寒い。
二人でしばらく歩いた後に、ふっとカロンが足を止めた。
自分の足もとに目を落とし、ほんのわずかに小首をかしげる。つられてカリアも立ち止まり、兄の目線を追いかけた。
二人の細い足もとから、いろいろな色のパネルをはめこんだ、モザイクパネルが広がっていた。ピンク色のイルカが泳ぐ、波打ちぎわの光景だ。
「……なあ、カリア。前に家族で来た時は、ここってこんなじゃなかったよな?」
「うん。たしか一年前は……」
答えかけた妹が、ふっと目線をよそに移した。
よそゆきの服装の男女二人が、何ごとかしきりに言い合っている。女性のほうは涙声だ。何だかもめているらしい。
「なぁ、もう良いじゃないか。このパネルだって綺麗だし」
「嫌よ、嫌だわ! わたしはこんなものが見たくて、ここに戻った訳じゃない!」
(ははぁ……元地元民のお嬢さんと、そうじゃない彼のカップルかな)
カロンは内心でつぶやいて、妹の手をひき去りかけた。
去りかけておいて、ふと思い直して足を止める。カリアもつられて足を止めて、きょとんと兄の顔を見上げた。
二人がそうこうしている内に、揉めごとはピークに達してきた。
女の人はだだっ子のように肩を揺らし、イルカのパネルをにらみつけながら、荒く言葉をまき散らす。
「わたしがもっと子どもの頃は、ここは野生の海苺のベリー畑だったのよ。それなのに、久しぶりに戻ってきたら、こんなおかしなパネルになって……っ!」
「ったって、もうしょうがないだろう? 俺は良いから、見られなくても」
「良くないわ! わたしはあなたに、ベリー畑を見てほしくて……っ!!」
女性が涙もこぼれんばかり、大きな瞳を潤ませ出す。
あわててなだめようとする男性と、女性の間に割って入り、カロンがさあっと白い右手を躍らせた。
瞬間、二人の眼前に花畑が現われた。
芯のあたりがほんのり赤く、酔った風情の白い花々。花と花との間には、ところどころに青い丸い実がなっている。『これから赤くなりますよ……』とでも言いたげに、つやつやとお日様を浴びて輝いていた。
それは、イルカのパネルなど比べ物にならないくらい、生のままの美しいイメージだった。
「……これが、君の言ってた風景かい……?」
呆気にとられた男性に、女性が桃色の目を見はってうなずいた。
それがおしまいの合図みたいに、昔の景色は弾けて消えた。してやったりと微笑むカロンの手を握り、女性がほおを薔薇色に染めて問いかける。
「……今のは、あなたのしわざなの? あなたはすごい幻術師なのっ?」
「え、ええまぁ、今のはぼくの幻術です。まだ十三歳ですから、幻術師養成学校にすら、通っちゃいないですけれど」
予想外に熱い反応に、カロンはちょっと気圧されながら言葉を返す。ひかえめに答える少年のほおにキスをして、女性が花火を思わせるほどの笑みを浮かべる。
「――ありがとう、本当にありがとうっ!!」
嬉しそうな女性の横から、男性もカロンの肩に手をかけて、さらに重ねて礼を言う。
「ありがとう、本当にすごいよ君! パネルなんてまるでお話にならないくらい、本当に綺麗な光景だった!!」
「ねぇ、あなたお名前は? いったいどこに住んでるのっ?」
少年はほおに血をのぼせ、はにかみながらこう答える。
「……カロンです。マルティス村の、カロン=カーリス=カリービア……!」
言いざま妹の手をとって、少年が逃げるように駆け出した。その華奢な背中にぶつかるように『ありがとう!!』という声が、二つ綺麗に重なった。
「ね、ねぇお兄ちゃん、何でいきなりこんな走るの!」
「いやぁもう、何かくすぐったい! あそこにいるの照れくさい!!」
返事の声があんまりにも晴れやかで、カリアは思わず兄を見上げた。
その顔はついさっきまでの表情が嘘みたいに、嬉しげで楽しそうだった。ころっと変わった無邪気な笑顔に、カリアもつられて笑ってしまう。
「あ、ねぇねえ、あそこに人だかりがあるよ! あそこにクジラがいるんじゃないっ?」
走りながらカロンが指さした先に、たしかに人が群れていた。あふれ返る人の波からはみ出すように、黒い巨体がのぞいていた。
* * *
……はっきり言って、クジラというより、人を見に来たようなものだ。
内心でそうつぶやいて、カロンは小さく肩を落とす。
「なぁ、見えるか? カリア」
「ぜぇんぜん」
「……だろうな。ぼくもほとんど見えないよ」
人の固まりの最後列で、幼い兄妹が息をつく。ふと思いついた少年が、自分のそばに妹を呼びつけた。
「カリア、ちょっとこっち来い。肩車してやるからさ」
「かたぐるま? ……お兄ちゃん、大丈夫?」
「馬鹿にすんな、これでも男だ。ほら来いよ……うわっとと、お前けっこう重いなぁ……!」
「あー、お兄ちゃんひどーい! レディーに『重い』は禁句だよー?」
「誰がレディーだ……それより、どうだ? 今度は見える?」
ひとしきり何やかんやと騒いだ後に、カロンが妹に問いかける。カリアはぐっと伸び上がり、幼くはしゃいだ声を上げた。
「……うん、うん! 背中がちょっとだけ見える! すごいよ、すっごく大っきいよ!!」
興奮ぎみのカリアの声に、カロンが淡く苦笑した。
「そっか、良かった……だけどなぁ、こんな人波ん中じゃ、龍涎香なんて採れっこないな」
「ううん、あたし分かったよ! 本物のクジラ見てイメージできた! 龍涎香はねぇ、きっとこういう香りだよ……」
言いざま香りをイメージし出す妹に、兄があわててセーブをかける。
「わー待ったまったっ! この人波ん中で、今そんな香りをイメージしたら『何が起こったっ!?』って大騒ぎになっちゃうよ! それは家に帰ってやろう!」
「……うん!!」
小さな妹を肩からおろすと、カリアはふあっとたんぽぽの綿毛みたいな笑顔を見せた。カリアの幼い手をひいて、カロンは再び歩き出す。
とちゅう、雑貨屋で小ぶりなテディベアを買って、帰りの汽車に乗りこんだ。旅の疲れと汽車の揺れとに誘われて、うとうとしかけるカリアに向かい、カロンがつっと指を出す。
「……? お兄ちゃん、なに?」
「カリア、約束な。さっきの『海苺』のこと、父さんと母さんには秘密って」
「……ひみつ? なんで?」
「いやあ、気恥ずかしいからさ……」
「……分かった、約束……」
二人で指切りげんまんしながら、『いつまで保つか』と内心でカロンがつぶやいた。きっとそのうち、我慢できなくてカリアが言っちゃうんだろうけど……でも、ま、それでも良いか。
一人で納得する兄のとなりで、カリアがすうすう眠りだす。……気だるげにひじをつきながら、カロンがふっと遠い目をしてもの思う。
(あの二人、あんな喜んでくれたけど……やっぱり忘れちゃうんだろうな。まぼろしの海苺のことなんて)
少年は心中でつぶやきながら、静かにはちみつの目を閉じる。
そういうもんだ。そういうもんだ……。
だけど、いったい何でだろう。すうすうと肌寒いはずの胸のうちが、熱いお茶でも飲んだみたいに、ぽうっとたしかにあたたかいのは……。
内心でそうささやくと、口もとにふわっと笑みが浮かぶ。心地良い微笑と、眠る妹と一緒になって、カロンはずっと汽車に揺られゆられていた。
……やがて海辺が遠ざかり、二人の村が近づいてくる。
故郷の匂いに感づいたのか、カリアがふっと目を覚ました。萌黄の瞳をまたたきながら、眠気にぽうっと緩んだ声でつぶやいた。
「夢を見たの」
「ふぅん? どういう夢だった?」
何とはなしにカロンが訊くと、カリアは柔くはにかんで、まんまるい声で打ち明けた。
「あのね、大人になったあたしと、カロンお兄ちゃんが、一緒にお仕事してる夢」
カリアはまだ半分夢見るようなまなざしで、ささやく口調でこう告げた。
「……お兄ちゃんが普通の幻術で、お客さんを『冒険劇の主人公』に仕立てるの。それで……『冒険のはてに見つかった、とっても素敵な宝物』って感じで、あたしが香りで作った商品を、お客さんに渡してた……」
普通の幻術も得意なパパと、香りの術が得意なママが、たまにそうやってるみたく。
カリアは小さな声で幸福そうに付け足して、そっとカロンの手に触れた。
「……ねぇ、カロンお兄ちゃん。あたしが今見た夢みたいに、いつか二人で、本当に……」
言葉にしかけた妹が、ふと口ごもってうつむいた。
カロンはそっとくちびるを噛んで微笑んで、妹の髪を撫ぜてやる。
――カリアの肌の、桜の香り。
いつかこの鼻で匂いをかいで、『綺麗な香り』と褒めてやりたい。
カロンの脳裏にふと浮かんだ、叶うはずのないお願いは、誰にもささげられずに消えた。
まるで、かげない香りみたいに。




