欠片の二・初子《ういご》
――汗がしたたる。
白すぎるほど清潔に白い病院の中で、カシュアは水に浸かったようにびっしょりと汗をかいていた。
骨ばった手と手をがっちり組み合わせて、きつくくちびるを噛みしめる。『情けない』と自分でじぶんをいさめても、ひざが勝手に笑ってしまう。
――恐い。恐いのだ、何か良くないことが起きるのが。人生の中で最上級の良いことが、何かの拍子に『最悪の悲劇』に変わってしまうのが……!
ハニアと結婚して一年、もうじき父になるはずのカシュアは、恐くてこわくてたまらない。となりにすわるカークゥが、ぽんとなだめるようにカシュアの肩へと手を触れる。
「大丈夫だよ、きっと元気に生まれてくる」
「そうよ、あんたとハニアちゃんとの子どもだもん! 元気いっぱいで生まれてくるわよ!」
にっこりと笑う母親の言葉にいっぺん顔を上げ、カシュアはまたぐっとうつむいた。
「……腫瘍が……」
「あれはちゃんと手術で摘出したでしょう? 大丈夫よぉ! ていうかカシュア、あんたの時もあたし破水してたのよ?」
妻のマリアの発言に、カークゥが淡く苦笑う。
「はは、だから君がお産をした時は、本当に気が気じゃなかったよ」
「あら? あの時あなた、だいぶ余裕にふるまってたように思えたわ」
「見た目だけだよ、見た目だけ。僕は意外にノミの心臓だからねえ!」
父と母が言の葉でじゃれ合って笑い合う。自分の気持ちを和ませようとしてくれている。それは分かっているのだけれど、そんな会話で和めるほどに生半可な不安ではない。
不安の種は、数か月前の手術のことだ。
その時分、ハニアが「何だかおなかが痛い」と言い出した。病院へ行って調べてみると、子宮の外側に異物があるのが判明した。
手術で取り出してみると、トマト大にふくれ上がった腫瘍だった。「ずっとこのままにしておいたら、お子さんの命は危なかった」と医者は告げた。
そのことが、恐くて恐くてたまらない。
(もしかしたら、あの時気づいてないだけで、あれのほかにも腫瘍があって……)
(あの手術で本当は母体も子どもも弱ってて、出産の負担に耐えきれなくて……)
今両親に話したら一笑にふされるような考えが、後からあとから湧いてくる。
そもそもハニアのあの小さな体から、新しい命が生まれてくること自体が母体にダメージを与えるのでは?
ふいにぐうっと顔を上げ、カシュアは白い壁をにらむように見すえてから、再び目を閉じてうつむいた。
「……恐い……こわいよ……ハニアは無事かな、赤ちゃんは元気かな……っ!?」
吐いた言の葉に応えるように、大きな泣き声が響き渡る。
「生まれました! とっても元気な男の子です!」
カシュアががばりと立ち上がり、分娩室へ駆けこんだ。
目に映るのは、夢にまで見た光景だった。
汗ばむハニアと、金の糸のような柔い髪をした赤子。お人形みたいに小さくて、一生けんめい泣き続ける赤ちゃんが、息苦しいほど愛おしい。
「……っ……ありが……ハニア……っ!!」
言の葉は口に出すたびに、もつれてほつれて涙に混じる。心からお礼を言いたいのに、まともに声にも乗せられない。それでも妻には通じたらしく、ハニアは涙を流して微笑んだ。
「……うん、こっちこそありがとう……ありがとう、あなた……」
感涙に泣きむせぶ夫の手を握り、ハニアがふわっと、絹の手ざわりの笑みを浮かべる。
「ねぇ、気づいた? この子、仔犬の匂いがするわ」
「こいぬ?」
「ええ、『日なたで寝てる、むっくむくの仔犬』の匂い。あったかくって、可愛い匂い……」
子どもに顔を近づけたパパが、涙まみれの顔で笑った。
「……ほんとだぁ……っ!」
「ねえ、あなた。この子の名前『カロン』にするのはどうかしら? パパそっくりの、綺麗な金色の髪だもの」
『カロン』。
ここいらあたりの方言で『金の御子』という意味だ。一も二もなくうなずくカシュアの様子に笑い、カークゥとマリアがにっこり目線を交わして語り合う。
「いいね、その名。君はどう思う?」
「ちょっと雅で良いわよね! ハニアちゃん、センスあるぅっ!」
義理の母に軽いタッチで褒められて、ハニアがくすぐったそうに照れ笑う。
「ね、カロン! あなたも気に入ったでしょう? この名前」
おばあちゃんに言の葉でちょっとからまれて、赤子はなおも泣き続ける。
その声は、自分の誕生を祝っているかのようだった。
* * *
そして、そのさらに数年後。
「――ねえカロン~、そろそろパパにママを譲ってくれないかなあ~?」
「や! パパ、ないない! カロン、ママにちゅーするのー!!」
『犬も食わない』のは夫婦げんかの例えだが、こういうのは何と例えたら良いのだろう。年若いパパと幼い息子にはさまれて、ハニアが困ったような微笑を浮かべてお茶を飲む。
「ねえハニア~、俺淋しいよ~!!」
「我慢、がまん。そのうちに弟か妹が出来たら、この子も少し変わるわよ」
「おとうと!? いもうと!? 出来たのハニア!? ばんざ~、」
「違うわ、ちがう! 今のは例えよ!」
「なんだ、そっか……。ま、でも、そのうち?」
視線で甘く絡む夫に、ハニアがぽうっとほおを染める。その雰囲気に気づいたのか、幼いカロンがぶーっとほおをふくらませる。小柄なママに抱きついて、ぺっぺっとパパにちいちゃな手を振った。
「や! ママはカロンの! パパ、ないな~い!!」
「――いーや! ママはパパのだ! ハニア、今夜は二人で寝よう!!」
「……はああ、もう……あなたって本当、大人げないわ!」
柔く口もとを緩めつつ、ハニアがふうとため息をつく。
そのため息はおなじみの木苺の香茶の、甘酸っぱい香りがした。




