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欠片《かけら》の一・この世で一番好きなもの

 店を開いて数年経った。


 こうちゃてん『ファカルナ』の経営も、ようやく軌道に乗ってきた。じわじわとフレーバーティーと香茶の違いが知られてきて、おなじみのお客さんも増えてきた。


 そんなある日の、カシュアがになったばかりの初夏のこと。


「マスター! 俺、マスターの好きな匂いを当ててみせます!」


 くんぷう香る気持ちの良い昼下がりに、彼は唐突に宣言した。

 きょとんとした表情で、ハニアがカシュアの顔を見つめる。この少女店主、相変わらず幼い見た目ながらも、どことなしつやっぽくなってきた。


 その艶っぽいはちみつ色の目に『?』マークを浮かばせて、小首をかしげてハニアが訊ねる。


「……はい? どういうことですか……?」

「だから、マスターの一番好きな匂いを俺がズバリ当ててみせます! ……あ! 匂いってーか、香りかな?」


 ひょいと首をひねるまなに、ハニアも首をかしげてみせた。


「どうして、いきなりそんなこと……?」

「いやいや、今は言えません! マスターの一等好きな匂いを当てたなら、俺、マスターに言いたいことがあるんです!!」

「??」


 女店主が小鳥のように、また()()っと小首をかしげる。ハニアの前でカシュアは大きく息を吸い、やけにきっぱりと宣言した。


「マスターの好きなのは、桜の香り! ……あれ? 違います?」


 きっぱり宣言した後に、カシュアが急に声をひそめて問いかける。ハニアはちょっと困ったように微笑して、可愛らしくかぶりを振った。


「違いますよ?」

「えー、じゃあうーん、えーっと……俺とおんなじ、いちごの香り?」

「いいえ。木苺の香りも、とっても好きなんですけれど」

「えー、じゃあ桃の香りかな?」

「いいえ?」

「うーん……あぁあ分かった! はちみつの香りだっ!!」

「ブー、ですわ!」


 迷宮入りの問答に、ハニアがくすくすいだす。むきになったカシュアがどれだけ香りを連ねてみても、甘い声音の『ご名答!』は得られない。


「うぅう、じゃあゆっくりじっくり考えます!!」


 頭の上にぐるぐると渦を巻きそうに悩む相手に、ハニアはくすりと笑みをもらした。


(何がなんだか分からないけど、今日のカシュアは妙に必死で可愛いわ……)


 心のうちでこっそりつぶやき、ハニアは弟子にエールを送る。


「頑張ってくださいね」


 ふんわり笑う女店主に、カシュアが海より深く考えこみつつ、うなずいた。


* * *


 それからまるまる三日が経った。


 燃えつくようなオレンジ色の日暮れ時、カシュアは今にも泣き出しそうに、ハニアの前でうなだれた。


「……分かりません」


 行き詰まった青年が、しょんぼり敗北宣言をする。青年をなだめるように、ハニアがその肩へ手を置き、たかったのだが悲しきかな、相変わらずの身長差。ハニアは相手の腰に手を触れて、顔を見上げて小首をかしげた。


「ねぇカシュア。あなたはいったい何をそんなに、むきになっているんです?」

「…………プロポーズ、」

「……はい?」


 きょとんとした目で訊き返され、カシュアがぐっとかがんでハニアの瞳をのぞきこむ。いっそ噛みつくような口ぶりで、今までの思いの丈を吐き出した。


「だから! 俺、マスターの一番好きな香りを当てられたら、マスターに……! いや! ハニアにプロポーズしようと思ってたんですっ!!」


 思ってもみない返答に、ハニアがふっと黙りこむ。実年齢としよりずっと幼く見える桃色のほおに、じわじわと朱が昇ってゆく。

 青年の方はもうそのことに気づく余裕もない。やけくそになった愛弟子が、止まらぬ言葉を芋づる式に連ねてゆく。


「だって、相手の好きな香りも分かんないようじゃ、きっとちゃんと良い夫婦にはなれないから! でも、……でも俺……おれ……っ!!」

「カシュア」


 かがんだ相手のほおへひたりと手をあて、ハニアがゆっくりと花開くように微笑んだ。


「目の前に、いるんですよ。私の一番好きな香りは」

「…………え?」


 息を荒げた愛弟子が、ふうっと深く息をした。

 黙ってハニアの顔を見つめて、たっぷり三拍間を置いてから問いかける。


「……俺、ですか?」

「そう。私の一番好きなのは、あなた自身の香りなんです。お日様にほしたふとんの匂い。あったかくって、優しくて……ほっとして眠くなる匂い」


 ハニアがふんわり微笑んで、カシュアの首もとに顔を近づけて息を吸う。今度はカシュアの赤くなってゆく番だった。


 かぁかぁと火をともすように赤くなるカシュアの首すじに、ハニアがそっと、触れるだけのキスをした。


 それから優しくはにかんで、鈴振る声でささやくように問いかけた。


「プロポーズ、してくださいますか?」


 言葉にした瞬間に、カシュアがハニアを思いっきり抱きしめた。赤くなる耳もとへ口を寄せ、カシュアが甘く潤んだ声でささやいた。


「……俺と、結婚、してください」

「……はい……っ」


 ハニアは自分の一番好きな、『お日様にほしたふとんのにおい』に抱かれながらうなずいた。ふっと疑問に思ったことを、今度はこちらが訊いてみる。


「カシュアの、一等好きな香りは?」

「マスターの……うぅん、ハニアの香りだよ」

「香り……しますか? 自分じゃ何も分かりませんけど。なんの匂いもしないんじゃ……」

「うぅん、する。するよ」


 きっぱり言いきった愛弟子が……いや、フィアンセが、大きく息を吸いこんだ。


「すみれの花みたいな……『すみれの花の砂糖づけ』みたいな、甘くて優しい香りがするよ」


 カシュアの返事に、またじわじわと店主のほおに血が昇る。


「おかしなものだわ。こんなに鼻がきくくせに、自分の匂いは分からないなんて」

「そういうもんだよ、世の中は」

「ふふ」


 ハニアがくすくす笑い出す。

 カシュアが不思議そうな顔をして、吐く息のかかる距離から問いかけた。


「……俺今、何かおかしいこと言った?」

「いいえ、でも……何だかおじいちゃんみたい」


 涙混じりに笑い続けるハニアのほおへ、カシュアが甘くついばむようなキスをした。


「ねえ、ハニア。……俺がよぼよぼのおじいちゃんになっても、愛し続けてくれますか?」


 大きくうなずいてみせたハニアが、上目づかいで訊き返す。


「……私が、よぼよぼのおばあちゃんになっても。愛し続けてくれますか?」


 今度はカシュアが、深く大きくうなずいた。もう一度、今度は『ねつっぽいキス』を挑もうとして、急にきょろきょろあたりをうかがう。


(……親父、いないか!? こういうタイミングで、いつもだと決まって親父が『お茶買いに来たよー☆』とか言ってドアベルがからんからんと……っ!!)


 どうやら気にしすぎだったらしい。店には来客の気配もない。カシュアは()()()と大きく息をつき、ひょいとハニアの小さな体を抱き上げた。


「はわわ! ……か、カシュア……っ?」

「はい、本日の『マスターと弟子』タイムは終わり。こっからはもう『フィアンセ同士』の時間でーす」


 歌うようにこう告げて、カシュアはハニアを抱き上げたまま、店の奥の居住ブースへと引っ込んだ。


 ――ちょうどその時、店の玄関では気配を殺したカークゥが、一人腕組みでたたずんでいた。


「……やれやれ、どうも僕は何だかいちいち、こんなシーンにそうぐうするなあ。……まあ、香茶の茶葉を買い求めるのは、またの機会にしておくか!」


 ふっと大人びて苦笑して、カークゥは手ぶらのままで香茶店『ファカルナ』を後にした。


 朱色の夕日が、結ばれたばかりの恋人たちを祝うかのよう、明るく光って山の向こうへ戻っていった。

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