欠片《かけら》の一・この世で一番好きなもの
店を開いて数年経った。
香茶店『ファカルナ』の経営も、ようやく軌道に乗ってきた。じわじわとフレーバーティーと香茶の違いが知られてきて、おなじみのお客さんも増えてきた。
そんなある日の、カシュアが二十歳になったばかりの初夏のこと。
「マスター! 俺、マスターの好きな匂いを当ててみせます!」
薫風香る気持ちの良い昼下がりに、彼は唐突に宣言した。
きょとんとした表情で、ハニアがカシュアの顔を見つめる。この少女店主、相変わらず幼い見た目ながらも、どことなし艶っぽくなってきた。
その艶っぽいはちみつ色の目に『?』マークを浮かばせて、小首をかしげてハニアが訊ねる。
「……はい? どういうことですか……?」
「だから、マスターの一番好きな匂いを俺がズバリ当ててみせます! ……あ! 匂いってーか、香りかな?」
ひょいと首をひねる愛弟子に、ハニアも首をかしげてみせた。
「どうして、いきなりそんなこと……?」
「いやいや、今は言えません! マスターの一等好きな匂いを当てたなら、俺、マスターに言いたいことがあるんです!!」
「??」
女店主が小鳥のように、またくいっと小首をかしげる。ハニアの前でカシュアは大きく息を吸い、やけにきっぱりと宣言した。
「マスターの好きなのは、桜の香り! ……あれ? 違います?」
きっぱり宣言した後に、カシュアが急に声をひそめて問いかける。ハニアはちょっと困ったように微笑して、可愛らしく頭を振った。
「違いますよ?」
「えー、じゃあうーん、えーっと……俺とおんなじ、木苺の香り?」
「いいえ。木苺の香りも、とっても好きなんですけれど」
「えー、じゃあ桃の香りかな?」
「いいえ?」
「うーん……あぁあ分かった! はちみつの香りだっ!!」
「ブー、ですわ!」
迷宮入りの問答に、ハニアがくすくす微笑いだす。むきになったカシュアがどれだけ香りを連ねてみても、甘い声音の『ご名答!』は得られない。
「うぅう、じゃあゆっくりじっくり考えます!!」
頭の上にぐるぐると渦を巻きそうに悩む相手に、ハニアはくすりと笑みをもらした。
(何がなんだか分からないけど、今日のカシュアは妙に必死で可愛いわ……)
心のうちでこっそりつぶやき、ハニアは弟子にエールを送る。
「頑張ってくださいね」
ふんわり笑う女店主に、カシュアが海より深く考えこみつつ、うなずいた。
* * *
それからまるまる三日が経った。
燃えつくようなオレンジ色の日暮れ時、カシュアは今にも泣き出しそうに、ハニアの前でうなだれた。
「……分かりません」
行き詰まった青年が、しょんぼり敗北宣言をする。青年をなだめるように、ハニアがその肩へ手を置き、たかったのだが悲しきかな、相変わらずの身長差。ハニアは相手の腰に手を触れて、顔を見上げて小首をかしげた。
「ねぇカシュア。あなたはいったい何をそんなに、むきになっているんです?」
「…………プロポーズ、」
「……はい?」
きょとんとした目で訊き返され、カシュアがぐっとかがんでハニアの瞳をのぞきこむ。いっそ噛みつくような口ぶりで、今までの思いの丈を吐き出した。
「だから! 俺、マスターの一番好きな香りを当てられたら、マスターに……! いや! ハニアにプロポーズしようと思ってたんですっ!!」
思ってもみない返答に、ハニアがふっと黙りこむ。実年齢よりずっと幼く見える桃色のほおに、じわじわと朱が昇ってゆく。
青年の方はもうそのことに気づく余裕もない。やけくそになった愛弟子が、止まらぬ言葉を芋づる式に連ねてゆく。
「だって、相手の好きな香りも分かんないようじゃ、きっとちゃんと良い夫婦にはなれないから! でも、……でも俺……おれ……っ!!」
「カシュア」
かがんだ相手のほおへひたりと手をあて、ハニアがゆっくりと花開くように微笑んだ。
「目の前に、いるんですよ。私の一番好きな香りは」
「…………え?」
息を荒げた愛弟子が、ふうっと深く息をした。
黙ってハニアの顔を見つめて、たっぷり三拍間を置いてから問いかける。
「……俺、ですか?」
「そう。私の一番好きなのは、あなた自身の香りなんです。お日様にほしたふとんの匂い。あったかくって、優しくて……ほっとして眠くなる匂い」
ハニアがふんわり微笑んで、カシュアの首もとに顔を近づけて息を吸う。今度はカシュアの赤くなってゆく番だった。
かぁかぁと火を灯すように赤くなるカシュアの首すじに、ハニアがそっと、触れるだけのキスをした。
それから優しくはにかんで、鈴振る声でささやくように問いかけた。
「プロポーズ、してくださいますか?」
言葉にした瞬間に、カシュアがハニアを思いっきり抱きしめた。赤くなる耳もとへ口を寄せ、カシュアが甘く潤んだ声でささやいた。
「……俺と、結婚、してください」
「……はい……っ」
ハニアは自分の一番好きな、『お日様にほしたふとんのにおい』に抱かれながらうなずいた。ふっと疑問に思ったことを、今度はこちらが訊いてみる。
「カシュアの、一等好きな香りは?」
「マスターの……うぅん、ハニアの香りだよ」
「香り……しますか? 自分じゃ何も分かりませんけど。なんの匂いもしないんじゃ……」
「うぅん、する。するよ」
きっぱり言いきった愛弟子が……いや、フィアンセが、大きく息を吸いこんだ。
「すみれの花みたいな……『すみれの花の砂糖づけ』みたいな、甘くて優しい香りがするよ」
カシュアの返事に、またじわじわと店主のほおに血が昇る。
「おかしなものだわ。こんなに鼻がきくくせに、自分の匂いは分からないなんて」
「そういうもんだよ、世の中は」
「ふふ」
ハニアがくすくす笑い出す。
カシュアが不思議そうな顔をして、吐く息のかかる距離から問いかけた。
「……俺今、何かおかしいこと言った?」
「いいえ、でも……何だかおじいちゃんみたい」
涙混じりに笑い続けるハニアのほおへ、カシュアが甘くついばむようなキスをした。
「ねえ、ハニア。……俺がよぼよぼのおじいちゃんになっても、愛し続けてくれますか?」
大きくうなずいてみせたハニアが、上目づかいで訊き返す。
「……私が、よぼよぼのおばあちゃんになっても。愛し続けてくれますか?」
今度はカシュアが、深く大きくうなずいた。もう一度、今度は『熱っぽいキス』を挑もうとして、急にきょろきょろあたりをうかがう。
(……親父、いないか!? こういうタイミングで、いつもだと決まって親父が『お茶買いに来たよー☆』とか言ってドアベルがからんからんと……っ!!)
どうやら気にしすぎだったらしい。店には来客の気配もない。カシュアはふーっと大きく息をつき、ひょいとハニアの小さな体を抱き上げた。
「はわわ! ……か、カシュア……っ?」
「はい、本日の『マスターと弟子』タイムは終わり。こっからはもう『フィアンセ同士』の時間でーす」
歌うようにこう告げて、カシュアはハニアを抱き上げたまま、店の奥の居住ブースへと引っ込んだ。
――ちょうどその時、店の玄関では気配を殺したカークゥが、一人腕組みで佇んでいた。
「……やれやれ、どうも僕は何だかいちいち、こんなシーンに遭遇するなあ。……まあ、香茶の茶葉を買い求めるのは、またの機会にしておくか!」
ふっと大人びて苦笑して、カークゥは手ぶらのままで香茶店『ファカルナ』を後にした。
朱色の夕日が、結ばれたばかりの恋人たちを祝うかのよう、明るく光って山の向こうへ戻っていった。




