現の終・木苺のお茶
――想い出に浸り終わったところで、ハニアが菓子を手に戻ってきた。
あれほど店主を惑わせたのは、紅茶葉を砕いて生地にミックスした、クッキーの詰め合わせの缶だった。
ハニアは小さく舌を出して、苦笑しながら椅子にすわる。
「お待たせしました、すみません。どこへ置いたか忘れちゃってて、探すのに時間かかっちゃって……」
ふっと何かに気づいたふうに、ハニアがカシュアを上目づかいに見つめてきた。
「……カシュア、もしかして泣いてました?」
「いいえ。泣いてやしませんよ」
泣いていたように見えたとすれば、それは嬉し泣きだろう。
心のうちでささやいて、カシュアはほおに笑みを浮かべた。紅茶のお代わりをそそいでもらい、白いカップを口へと運ぶ。
木苺の甘酸っぱい香りが口中に満ちあふれ、青年はしみじみとつぶやいた。
「……うまい」
その言葉に、ハニアがくすっと小さく微笑う。
「お父様そっくり、その口調」
甘く緩んだ声音で告げて、女店主は嬉しげに小首をかしげてカシュアを見つめた。
「初めて木苺のお茶を飲んでもらった時も、あなたはそうして『うまい』って言ってくださいましたよね」
「あ、じゃあもしか、それがきっかけですか? 俺のこと好きになってくれたの」
思ってもみなかった切り返しに、ハニアがほおを真っ赤に染める。
女店主の胸を彩るペンダントのロケットには、カシュアの写真が入っている。
その小さな金の器に、以前は父、カークゥの写真が入っていたことを、カシュアはちゃんと知っていた。
切なげに瞳を細めるハニアのひたいに、カシュアがテーブルの向こうから伸び上がって口づける。無理な体勢にえぐい身長差、腰にけっこうな負担がかかるが、こういうキスも悪くない。
萌黄の瞳に『師匠』を映して、愛弟子がふっとつぶやいた。
「……ねえ、ハニア。もし俺が、この先老いにおぼれてさ、君のこと忘れてしまっても、この香りで思い出すから……この木苺の匂いをかぐたび、きっと、全部を思い出すから」
あまりにも唐突な告白に、ハニアがきょとんとはちみつ色の目を見はる。
それからふわっと、綿菓子の手ざわりを思わす微笑をほおに浮かべて、ひとつ大きくうなずいた。
「……うん。私もきっと、何を忘れても思い出してみせるから。あなたのこと。あなたとのこと」
カシュアは甘く涙するように微笑んで、もう一度恋人のひたいへキスをした。
たとえこの先何があろうと、何度だって思い出す。
この木苺の、甘く切なく柔い香りが、この世に存在する限り。
この想いは、この毎日は、まぼろしなんかじゃないのだから……。
恋人たちがテーブルのこちらと向こうで見つめ合い、もう一度くちびるを近づける。互いの息が触れ合わんばかり、互いが近づいたその刹那、からんからんとドアベルが鳴った。
『っいっ……いらっしゃいませぇ!!』
「おやおや、相変わらずにぎやかだねえ。二人して何をしてたんだい?」
「っか、カークゥ先生!!」
「親父ぃいいい!!?」
またかよおぉ!! と言いたげなカシュア、嬉しげにおじぎをするハニア。傘を閉じ、や、と手をあげる父に向かって、カシュアがぶうっとほおをふくらませる。
「……何しに来たのさ、親父」
「ん? 先生が可愛い生徒のやってるお店に、香茶買いに来ちゃいけないかい?」
「…………いや、別にいけなくはないけどさ」
「しかしカシュア、何だかお前は来るたびにこうしてお茶を飲んでるねえ。ちゃんと修業はしてるのかい?」
「あのなっ! だいたい親父がこーゆー時に限ってだなっ!!」
「『こういう時』? こういう時ってどういう時だい??」
にこにこ笑いながら息子を追い詰める父親に、カシュアはがばっと頭を抱える。あーもー、とか悶えている恋人に笑いかけ、キッチンから戻ってきたハニアがもうひとつカップをテーブルに置く。
「さ、先生も一服いかがです?」
「ええ、ありがたくいただきます……おや、どうやらお天気雨もやんだみたいだ。きっとこれからは良い天気になりますよ!」
窓をかえり見たカークゥの言葉に、二人もつられて外を見る。なるほど、雨は降るのをやめて、よりいっそう明るく日がさしてきた。
丸窓の表を伝い、日を浴びて水滴がきらきら光る。その輝きは、透き通る柔らかな宝石のようだった。
お茶が美味しくて、目の前にマスターがいて、ついでに親父も目の前にいて。
――ま、いっか。これもなかなか幸せだ――。
なんてことを考えながら、カシュアは木苺のお茶に口をつける。
甘酸っぱい、どこかきゅんと胸の鳴るような味わいが、のどを伝って過ぎていく。紅茶の茶葉のクッキーも、何だかしみじみ美味しく感じて……。
ああ、あの時けんかした先生に、今度の休みに逢いに行こうか……。
先生、今の俺の幻術は、そこそこいけると思うんですよ。お元気ですか? 見てくれますか?
内心でつぶやきながら飲むお茶は、甘酸っぱさがほんのちょっぴり増した気がした。




