ちょっと長めのプロローグ・香茶《こうちゃ》のお店が出来るまで
まぶたが重い。重すぎる。
もうちょっとでも気を抜くと、夢の世界にダイブしそう。授業中にこれだけ激しい眠気って、どう考えてもただごとではない。
(うう、おかしいわ、絶対おかしいわよ……! ゆうべもちゃんと寝たっていうのに……!)
『幻術師養成学校』の一年生、香りのハニアは『お休みしまーす!』と言いたげなまぶたに必死に抵抗する。
授業中なのよ、授業中! 『育ちざかりは眠たいさかり!』とか言ってられない状況よ? いくら見た目が幼く見えても、十五歳の生徒なの! 眠っちゃ駄目よ、眠っちゃあ……!
香りのハニアは、年のわりに『ぷっくりと幼い』感じの両手でごしごしと目をこすり上げる。しかしあまり効果はない……やはりまぶたは『お休みしまーす!』としつこく閉じよう閉じようとする。
……ちなみに『香りのハニア』とは、この学校の生徒や教師が彼女に与えたあだ名である。ハニア本人にとっては、あんまりありがたくない呼び名である。なぜなら彼女は……、
「おいハニア! ハニア! こら起きないか、ハニア・ハニウ・ハニュウ!」
「……っはっ、はいぃっ!!」
ばねじかけのオモチャのように、びいんと肩がはね上がる。年若い男性教師はきついつり目をさらにつり上げ、ハニアの鼻先にびしっと指を突きつける。
「ほらハニア、次の課題は『クジラ』だぞ。他のみんなはもう、それぞれのクジラのイメージを具現化しているぞ。見てみろ、周りを!」
ハニアはあわてて栗色の髪を踊らせて、きょろきょろ周りを見渡した。
なるほど、クラスメートたちは、頭の上にそれぞれのクジラを文字通り『思い描いて』いる。『幻術師』とはよく言ったもので、みんなの頭上にまぼろしの映像が浮かぶのだ。
潮を噴くクジラのイメージ。背びれで海面を切るクジラのイメージ……中には女の子の思い描いた、可愛らしいピンクのクジラまで交じっている。教師はその光景に満足そうに笑い、弾ける声音で手を叩いた。
「良しよし、みんな良い感じだ。これなら未来のお客様にも、きっとご満足いただけるぞ! ――で、おいハニア! お前はまだ出来ないのか?」
「え」
「いやいやおいおい、『え』じゃないだろ! お前もとっととクジラのイメージを具現化しないか! お前の中の『クジラ』に対するイメージを、一心に念じて花火みたいに頭の上へ打ち上げるんだ! ――やってみろ、ハニア!」
「…………っ!!」
ハニアがぎゅうっと目をつぶり、言われたとおりに念じ出す。形の良い可愛い鼻に、じわりと見る間に汗が噴き出る。白いほおを真っ赤にして、うーうーと小さくうなり声を上げ……、
ぽんっと音立てて現れたのは、透明なしゃぼん玉のようなハニアの『香り』のイメージだった。しゃぼん玉がぱちりと弾け、何とも言えぬ良い香りがあたりへふわふわあふれ出す。
教師がオーバーに頭を抱え、つんつんと突き刺すように問いかける。
「はぁあぁ……ハニア、お前はまた香りか! お前はいったい、将来何になりたいんだ? 多彩なイメージをもって、お客様を非日常にいざなってご満足いただくエンターテイナー、一人前の『幻術師』だろう? どうやったらお前の中で、クジラが香りに変わるんだ?」
「す、すみませんっ! 前にクジラの頭かどこかから、良い香りの固まりが採れるって話を聞いて、ついそのことを考えたら、こんな香りのイメージに……っ!!」
つり目を歪めた青年教師が、ふいにくんくん、と鼻をうごめかせた。
「……ははあ! なるほど、確かに良い香りだ……! っていやいや、そうじゃなく! 全般的なイメージで、お客様を『まぼろしの芝居の主人公』にして、楽しませてさし上げるのが幻術師のなりわいなのにっ! お前はどうして香りにばっかりこだわるんだっ!!」
「わ、分かりません……あんまり『鼻が良い』せいでしょうか?」
「…………はぁあぁーーっ」
男性教師がため息を吐く。小さめの風船なら、一発でふくらみそうなほど大げさに……。ほかの生徒たちが居心地悪そうに身じろぎする。中にはくすくす笑っている者もいる。
『キーンコーン・カーンコーン……』
救いのように授業終了のチャイムが鳴って、つり目の教師は突き放す勢いで顔を上げる。
「ああ、もういい。ハニア、俺の次の授業までには、『クジラのイメージ』を作れるようになっておけ。ほかの者には自由課題を出しておく。自分の一等好きなイメージで構あないから、なるべく詳しく具現化できるようになっておけ!」
言い終えた青年教師が、かつかつと靴音を立てて教室を去ってゆく。ほかの生徒も何やかんやとおしゃべりしながら散っていく。
妙なる香りの真ん中で、取り残された『見た目幼女』が、はああ、と大きく吐息をついた。
* * *
放課後の校庭のベンチにすわり、ハニアは背中を丸めていた。火の精がねぐらにしている水筒を小さくかたむけて、香りをつけたお茶をすする。
『眠りねずみ』とあだ名のついたとてもものぐさな精のおかげで、お茶の保温効果はばつぐんだ。ただこの火の精、たまに気が向くとひょいとどこかへ出かけてしまうのが厄介だ。真冬にそれをやられると、凍てつくような寒さの中を、氷みたいに冷やっこいお茶をすする羽目になる。
「……いっつもいっつも香りばっかりイメージしちゃって。私、やっぱり幻術師向いてないのかな……?」
この学校に入学して半年あまり、何回こうこぼしたろう。
入学試験の実技は何とか、気絶寸前の集中でぎりぎりクリアした。……けれど、どうやらそこで気力がとぎれてしまったらしい。今のハニアが鮮明にイメージ出来るのは、とろけるような香りだけだ。
幻術師は、一時のまぼろしといえど、お客様に夢を与える大事な仕事だ。術で相手の笑顔が見たくて、相手に喜んでもらいたくて、この学校に入ったのに……。
お茶は温かい、心は寒い。
どうやったってひやひやとしたこの気持ち、家に帰って改めてお茶とお茶菓子を口に運べば、少しは上向いてくれるだろうか? あるいは……、
そう考えて、それだけで少し気持ちがあったかくなる。ぺちゃんこに焼けてしまったパンケーキみたいな微笑が、ハニアのほおにへちゃりと浮かぶ。そんな少女の小さな頭を、ぽんと大きな手が撫ぜる。
ちょっとあわてて顔を上げると、さっきの教師とは対照的な、もの優しげな男が柔らかい笑みで立っていた。チョコレート色の髪に、緩く弧を描く細い眉……。
ハニアがほんのりほおを染めて、照れくさそうに微笑いかける。
「あ……カークゥ先生!」
「どうしたんです、ハニア? 何だか元気がありませんね。誰かにいじめられました?」
「いじめられてや、しませんけれど。自分の駄目さに、自分でじぶんが嫌になってしまいまして……」
口に出して説明すると、またも気持ちが重くなる。微笑がすうっと薄れていき、頭も自然とうつむいていく。そんな『香りのハニア』の頭を、カークゥは優しいそぶりでぽんぽん、と軽くはたいてやった。
「君の香りは、君の欠点ではありません。それも一つの持ち味ですよ」
でも、先生……、
応えようとして顔を上げて、続く言葉につまってしまう。目が熱くなるような笑顔が、自然とほおに浮かんでしまう。
いつもは絵に描いたような『糸目』の先生が、薄っすらと目を開けている。それは彼が本心からものを言っている時だと、私はちゃんと知っているから。
「夢まぼろしの幻術師の能力より、相手の心にしっかり残る君の香りの力の方が、本当は、ずっと本物なのかもしれません……」
一つも嘘のない言葉。その言葉が、柔らかい声音も一緒に、耳の中にまで沁みてくる。先生のレアな『萌黄の瞳』が、しびれるくらい綺麗に見えた。
* * *
――やがてゆるゆる時は過ぎ、ハニアは二年生になった。
それでも香りしかイメージ出来ない、自分の駄目さは変わらない。いつの間にか『学年一の落ちこぼれ』の称号までもらい、季節は移ろい秋桜の花の咲く時分になった。
「はぁあぁあぁあぁ……っっ」
つきたくもないのに、どうしてもため息が出てしまう。今日も一人で、放課後の校庭のベンチにすわる。『眠りねずみ』の宿っている水筒に手をかけて、木苺のお茶を一口すする。
「……ふーっ」
やっと人心地がついて、ハニアがほうっと息をつく。息が木苺のにおいがする。
ふっと頭上に影がさし、見上げるといつものように、カークゥが穏やかに微笑んでいた。
「美味しそうですね、それ」
「あ、はい……『木苺の香りのお茶』なんです。私が幻術で香りをつけて……」
「幻術で?」
「はい。今年の夏に、実家の裏山で木苺がたくさん採れまして。その香りを幻術でまるごと取り出して、お茶の葉っぱに染ませたんです。元の木苺の香りも全然飛んだりはしませんから、本体はジャムにしたんですよ!」
「へえ、君はそんなことが出来るのですか? 興味深いな……一口飲ませていただけますか?」
(か、間接キス……?)
思わず心でつぶやくと、ほおが一気に熱くなる。
(先生、気づいてませんように……)
内心でそう願いつつ、水筒のふたにカタい手つきでお茶を注ぎ、カークゥの前にさし出した。カークゥは鼻先を近づけて、まず深々と匂いをかぐ。
「良い香りだ……」
それからおもむろにくちびるをあて、ゆっくりと紅茶を味わった。ほっと息をつき口を離して、思わずという風にほんのり微笑う。
「……うまい」
ことん。
心の奥の欠けた部分に、何かがはまった心地がした。
先生の言葉は心からの一言で、ハニアにはそれで充分だった。
ああ。
ああ、これだ。これにしよう。
こんな簡単なことだけで人の心を満たせるのなら、無理に幻術師になろうとしなくったって良い。私には、他に出来ることがある。
ハニアは静かに胸の前で手を組んで、まっすぐ教師の顔を見上げた。
「先生。私、学校やめます」
カークゥが水筒のふたを口から離し、黙ったままで萌黄の瞳を見開いた。ハニアははちみつ色の目にあこがれの人の姿を映し、きっぱりとこう宣言した。
「お茶に幻術で香りを移して、その茶葉を売る人になります」
教師の一言がきっかけの、唐突な決意。でもそれは実際口にしてみると、百年前から決めていたことのようだった。……夢見る少女は、もうとうに行きづまっていた。
(この上いくら努力しても、幻術師になどなれっこない……!!)
ぐるぐるに煮つまっていた思考は、敬愛する教師の言葉で清水のように澄み渡った。
自分の決断で『教師』と『生徒』という繋がりが切れてしまおうとも、もう一欠けも悔いはない。
揺らがぬ目をした落ちこぼれに、カークゥは萌黄の瞳を緩めて微笑う。
愛おしむような、惜しむような……そんな手つきで、骨ばった大きなその右手で、ハニアの頭を柔く優しく撫ぜてくれた。
* * *
そうして、そこで目が覚めた。
「……私ったら、何で今さら学校の夢なんて見ちゃったの……?」
ハニアはベッドに起き上がり、はぁあと深く息をついた。……授業の夢は何べん見ても苦しいものだ。年のわりに幼い体が、冷や汗でじっとり濡れている。
(でも、カークゥ先生に夢で逢えたのは良かったかしら)
少女は内心でつぶやいて、くすりと一人はにかんだ。過去をそのままなぞったような、夢は辛いけど楽しかった。
「……それにしても、十五の私はずいぶん天然だったのねぇ……」
ほっと小さく息をつき、少女はいやいや、と考え直す。
(それとも、夢だから記憶が少しオーバーになったのかしら? うん、そうよね、きっとそう)
夢を良いように解釈し、ハニアが目覚まし時計と窓の外を交互に見やる。
「もうこんな時間……このまま起きちゃっても良いくらいね」
少女は目覚まし時計のアラームを止め、軽くシャワーを浴びて着がえをすます。黒いスカートローブをはおり、一杯の香りをつけた紅茶を飲んで、居住スペースとつながっている店に出た。
「さぁ、今日も一日がんばりましょう!」
ハニアが可愛く気合いを入れて、ほうきを手にして自分の店の掃除を始める。ふいに外からぱらぱらと音がして、青い空から細かな雨粒が落ちてきた。
「あら……お天気雨? めずらしい……」
つぶやくハニアの胸もとで、金のロケットのペンダントがかすかに揺れて輝いた。
* * *
幼姿の少女が店主の、ここは小さな香茶店。
これは香茶店『ファカルナ』をめぐる人々の、香りかゆらぐ物語。