幻の四・嘘といつわり
二つの『失恋』をきっかけにして、カシュアは内から崩れていった。
幻術に身が入らない。
といっても表向きには、さしたる変化は見られない。学校のカリキュラムも課題も全て今までどおり、小憎らしいほどそつなくこなす。……ただ、今まで感じていたような充実感は、かけらも感じられなかった。
(こんなことして、何になる……?)
その言葉が頭に、胸に、心いっぱいに、病のように巣食っている。
そんな自分を見破られたのは、卒業試験を一月後にひかえていた、冬の終わりのことだった。
「いい加減にしろ、カシュア」
「……はい?」
授業中に教室の中で咎められ、カシュアが男性教師をにらむように見つめ返す。壮年から老年にさしかかる年代の先生は、厳しそうな、淋しそうな、何ともいえない目をしていた。
「カシュア。このごろのお前の幻術には、まるで心がこもっていない」
「……それは、どういうことですか?」
「わざわざ私に訊くまでもない、自分でも分かっているだろう。お前には素晴らしい幻術の才能があるのに、まるきり心ここにあらずだ。だからお前のまぼろしは、痛いくらいリアルなくせに、全てがひどく空虚なんだ」
他の生徒のただなかで痛いところを奥まで突かれ、カシュアがくちびるを噛みしめる。ひとつ大きく息を吐いて、絞り出すように問いかけた。
「心なんてこめたところで、何になるっていうんです?」
「…………どういうことだ?」
「今口にした通りです。幻術はしょせんまぼろしだ。どれだけ心をこめようとも、どれだけ鮮やかにイメージを具現化しようとも、しょせんはせいぜい半年で、術をかけた相手に忘れられてしまう……」
振りかざした言葉のナイフが、自分の心に突き刺さる。
カシュアは敬語を使うのも忘れ、最後の言葉を内臓を吐くようにぶちまけた。
「……ただの嘘いつわりじゃあないか!!!」
心の奥底に澱のように溜まっていた、触れてはいけない本当の思い。それを口にしてしまってから、カシュアはぐっとのどを鳴らして夢中で教室を飛び出した。
――嘘。
いつわり――。
自分の言葉で体じゅうがいっぱいになる。もう一歩も走れなくて、目が灼けるほど熱くなって……カシュアは校庭の片すみで、しゃくり上げて泣き出した。
ああ、分かっている、分かってるんだ。
幻術師の仕事なんて、誰に覚えていてもらえるものじゃない。
ただひととき、お客様に心から楽しんでもらうこと。
やがて静かに時が経ち、どんなイメージを楽しんだのかも忘れてしまったお客様に、それでもかすかに残った記憶で『楽しかったよ』と笑って言ってもらうこと。それ自体に、喜びを覚えるべき職業なんだ。
――分かっている、分かっているんだ。
この世界にごまんといる幻術師は、きっとそれだけで満足している。
(……でも、俺は……)
くちびるだけでつぶやくと、脳裏にリリカのまあるい笑顔が大きく咲いた。その笑顔が懐かしくて、あったかくて、やりきれなくて淋しくて……。
その気持ちを口からまるごと吐き出すと、こんな嗚咽になって響いた。
「俺は……俺は、ちゃんと相手に覚えていてもらいたい……忘れてなんて、ほしくない……っっ!!」
言葉が自分の心に刺さり、痛みとなって目からあふれて止まらない。
……子どもみたいにずるずる鼻をすすり上げると、ふと良い匂いが鼻に届いた。思わずあたりを見回すと、溶け残った雪の間に、黄色い水仙が咲いていた。
「……いい、においだ……」
すうっと胸の奥まで沁み渡るような、甘いあまい花の匂い。
その香りがきっかけとなり、青年はいつかの父の言葉を思い出す。
『あの子の香りは、普通の幻術と違うんだ』
『幻術はすぐにかすれて消えてしまうが、けれどハニアの香りは違う。イメージがぐっと限定されている分、普通のまぼろしよりもっとずっと密度が高くて、ちゃんと心に残り続ける』
神託のような父の言葉に、カシュアが萌黄の目を見開く。心のうちで、父、カークゥの言の葉は、揺れる思いをなだめていった。
『生半可な幻術よりも、本当は、あの子の香りの力の方が……』
「ずっと、本物なのかもしれない……」
頭の中の父の台詞を引き継いで、カシュアがぽつりとつぶやいた。みっともないほど泣きすぎて両目が痛いくらいだが、もう新しい涙は出ない。
ああ、なんだ。
答えはこんなに簡単で、もう、すぐそこにあったんだ。
青年は眉をひそめて苦笑して、ぎゅっとこぶしを握りしめた。
「……学校、やめよう」
学校をやめて、香茶師ハニアに弟子入りしよう。
唐突な決意は、いざそうやって胸のうちで固めてみると、百年前から決めていたことのようだった。
* * *
「春の終わりまで待ちなさい」
そう父親は、息子に言った。
「まず最初は、卒業試験の前日まで考えてどうしたいか決めなさい。それでも決意が変わらなければ、今度は春の終わり頃まで、もっとじっくり考えなさい」
湯気の立つ紅茶を前にして、母は黙って微笑んでいる。
こういう時は夫の言うとおりにしていれば、何ごともすべて間違いはない。そう信じているからこその、ほわり柔らかい笑みだった。
カークゥは薄く萌黄の瞳を開けて、お告げのようにそっと言葉を重ねていく。
「もし考えが変わっていたなら、僕が幻術を教えてあげる。学校を卒業しようがしまいが、本当に実力があったなら、幻術師にはなれるからね。もし考えが変わらなければ……」
ふっとカークゥは言葉をくぎり、一口熱い紅茶をすする。白いカップを口から離し、穏やかな顔でささやいた。
「……その時は、ハニアの店がどこにあるのか教えてあげる。カシュア、お前の思う道を、思うように生きなさい」
父の言葉に、カシュアは萌黄の瞳を見開いた。
それからくしゃくしゃと泣き出しそうに微笑んで、黙って大きく頭を下げた。




