幻の三・全てはまぼろし
リリカが外つ国に行ってから、一年が過ぎた頃のこと。
少年カシュアの胸のうちでは、顔も知らない『香りの少女』、ハニアが大輪の花を咲かせていた。
心の中で、リリカを見捨てた訳じゃない。
けれど、胸の天秤がどちらに傾いているかといえば、明らかにハニアの方に分があった。
薄情な……というより、『一生けんめい忘れようとしていたんだな』と、十九になった今は思う。けれど十七歳の当時は、そう考える余裕もなかった。
そんな十七のカシュアのもとに、リリカはもう一度現われた。
一身に夏の陽射しを浴びて、白い麦わらぼうしをかぶって、見違えるような明るさで。
家の庭先にその姿を見つけた時、カシュアは自分の目を疑った。
(嘘だろう? ……もしか誰かが、俺に幻術をかけてるんじゃないのかな?)
思わずそう考えてしまうほど、リリカの表情はまばゆく強く輝いていた。
まぼろしのように幸せそうな顔の少女は、カシュアに気がつき、ひらっと白い手を振った。
「お久しぶり、カシュア! 今ね、泊まっている宿屋から、あなたを訪ねるところだったの!」
「…………リリカ? 本当にリリカなの?」
驚きのあまり無作法に指をさしての問いかけに、リリカはおかしそうに笑う。笑いながら、当然のようにうなずいた。
『ハニアはどうした?』
もし耳もとでこう訊ねたら、十七のカシュアは『誰のこと?』と答えただろう。それほど当時のカシュアにとって、この再会は衝撃だった。
別人のように明るくなった同い年のお嬢さんは、訊かれぬうちに打ち明けた。
「里帰りなの。……あと、お母さんのお墓参り」
輝かんばかりの微笑みが、亡き母を語る時にだけ、ほんのりと湿り気を帯びた。ふっと昔の自分の家を振り返り、苦笑しながら口にする。
「おとなりの家には、もうまた人が住んでるのね。わたしたち家族が住んでた時より、庭が綺麗になってるわ」
リリカの言葉に、カシュアはなし崩しに微笑う。
「……元気、そうだね」
ぼそぼそと口の中でつぶやくと、少女はまた表情を輝かせ、こくりと首をたてに振る。
「ええ、今はとっても幸せ! 母様もとても優しいし、わたしも向こうで使う言葉を、もうほとんど覚えたの。屋敷のかたも近所のかたも、みんな気のいい、すごく素敵なひとたちよ!」
笑いながらふりまく言葉に、ひとかけらの嘘もない。
時々のぞく、しっとりと切なげな表情に、古傷の深さがにじむけど。亡き母を忘れず、胸のうちに大切に抱きしめたままで、彼女は新しい生活にもなじんでいる。
かんむりのないお姫様の運命は、王子様ならぬ『お母様』がきっかけで、くるりと好転したらしい。
(……あれ? 何で今、胸が『ちくっ』てしたんだろう?)
もしかして、目の前のリリカが不幸になっていれば良いと。
嘆いて悩んで、ここに戻ってくれたら良いと、最低のことを考えた?
その考えに、カシュアの胸がじくじく鈍く痛み出す。そんなカシュアの手を握って、リリカは満面の笑みで告げる。
「ありがとう、カシュア。これもみんなあなたのおかげ。あなたが昔に見せてくれた、あの幻術のおかげだわ!」
少女の言葉に救われたような気になって、カシュアは緩く微笑んだ。
「うん、こっちこそありがとう。……ねえ、リリカ。あの日のまぼろし、どんなだったか覚えてる?」
ふと質問してしまったのは、かすかな不安が胸に宿ったからだった。
幻術は、やはり夢まぼろし。長くても半年で、術をかけられた人の記憶から消えるもの。――それでもあれだけ気持ちをこめたものだから、あの花畑は、あの『大好き』は、リリカの中からきっと消え去ることはない。
そんな甘えた考えが、今の今まで頭にあった。小さな不安を胸に抱いた少年に、リリカはぎこちない笑顔を見せた。
「……もちろんよ。覚えているわ、はっきりと」
「どんなだった? どんなだったか、教えて、ここで」
「え、えぇと、ええと……ああそう! わたしとあなたが小さい頃の、思い出みたいなまぼろしよね?」
不安が一気に散らけたカシュアが、弾けるようにうなずいた。
「うん、そう、そうだよ!」
「そ、そうよね! わたしたちが小さい頃の、わたしとお父さんとお母さん、三人が仲良くしていたまぼろしよね!」
ぽつん……。
心の中に空想の雨が降る音が、カシュアの耳に届いた気がした。さあさあと聞こえない雨音を聞きながら、カシュアはぼんやりうなずいた。
「…………うん、そう。そうだよ」
リリカは明らかにほっとした笑顔を見せて、少年の手をさすって告げた。
「そうよ、忘れるはずもないわ。あの幻術のおかげだもの、わたしがこんなに幸せなのは。ありがとう、カシュア、本当にありがとう!」
リリカは十も二十も感謝の言葉をくり返し、やがて名残惜しそうに、カシュアの手から手を離した。
「カシュア、じゃあこれで……」
「……あ、もう行く?」
「うん、これからお父さんと一緒に、お母さんのお墓に行くから」
少女はふっとほんのり湿った笑みを浮かべて、それからまた輝かんばかりの笑顔になって、手を振りながら去っていった。
カシュアは深く大きく息をつき、家の中へと戻っていった。
「あれ? カシュア、どうしたんだい? 『ぷらっと散歩に行ってくる』って今さっき出かけていったのに、もうお散歩は終わったのかい?」
「……カシュア? ねえ、どうかした、カシュア?」
週末恒例の、デートの準備を始めていた両親の横をすり抜けて、カシュアは二階へ上がっていった。自室に戻って扉を閉めて、そこで初めて涙が流れた。
こらえにこらえていたものが、ぼろぼろぼろぼろあふれてくる。熱のかたまりがあとからあとから目から噴き出し、止められない、止めようもない。
――消えてしまった、何もかも。
クローバー畑も、一緒に遊んだ光景も、おしまいの『大好き』の言葉さえ。
彼女の中から、消えてしまった。
当然のことだ。だって、全ては、
(全ては、まぼろし、なのだから)
いっそ己を突き放して、カシュアは心のうちでつぶやいた。そうして心で言葉にすると、こらえきれない嗚咽がのどからあふれ出た。
自分の幻術で自分をごまかす余裕もなくて、十七歳の少年は、声の枯れるまで泣き続けた。……




