幻の二・夢まぼろしと二度めの別れ
春に再会し、誕生日のある五月をはさみ、カシュアとリリカは十六になった。
青葉は陽の光に心地の良い木陰を作り、気の早いセミも鳴き出している。
もうじき夏になろうというのに、リリカはまだあの危うい微笑を浮かべていた。
(無理もないや、大事なひとが死んだんだから)
頭ではそう分かっている。いや、分かったつもりでいる。
だが幼なじみのもろもろとした微笑を見るたび、胸が痛んでしかたない。
片一方では父の口にする『ハニア』にひかれておきながら、今のカシュアの胸のうちの大部分を占めるのは、リリカの淋しい笑顔だった。
もう一度、ちゃんと笑ってもらいたい。
あの楽しそうで嬉しそうな、まあるい笑顔を見てみたい。
(何かないかな。何か俺にも出来ること……)
そのことをずっと考えていた少年は、やっと秘策を思いついた。
(そうだ、幻術だ! 俺の得意な幻術で、リリカにもっかい元気になってもらうんだ!)
カシュアは勢いこんで、萌黄の瞳をぱちぱちせわしくまたたいた。
そうと決まれば、どんなまぼろしが良いだろう。お母さんとの思い出か?
「……いや、だめだ」
少年はひとりつぶやいて、無意識に口もとへ手をあてた。
亡くなった母親の甘い面影は、一歩間違えば劇薬になる。そのまぼろしは、もろくなったリリカの心の、芯のところを突きすぎる。
「それじゃあ、やっぱりあれにしよう」
カシュアはぎゅっとこぶしを作り、早速おとなりを訪ねていった。茫洋と妖精の絵を描いていたリリカを連れ出し、庭の真ん中へそっと立たせる。
「……何なの、カシュア? いったい何が始まるの?」
「いいから、黙って目をつむって。頭の中で十数えたら目を開けて」
軽く弾んだカシュアの声に、リリカは少し戸惑いながらも、素直に青い目をつむる。胸のうちで一から十を数え終わり、ぼんやり両の目を開けた。
目の前が鮮やかな緑であふれる。黄色いチョウがひらひらと、白いぼんぼんみたいな花から花へ飛び回り……。
クローバーだ。見渡す限りのクローバー畑が、夢のように広がっている。
(……ここはどこ? 現在の家の庭じゃないわ)
明らかにまやかしだと分かるけど、何だか妙に懐かしい。
――ああ、そうだ。これは昔の風景だ。
両親が別れてしまうその前に、学校の行き帰りに毎日通ったクローバー畑。
リリカは淡く微笑んで、クローバー畑へ静かに足を踏み入れた。柔らかな自然のじゅうたんの中に草を編む、小さな背中が見えている。
ふっと振り向いて笑った顔は、幼い頃のカシュアだった。
「カシュア……これは、あなたのしわざなの? この懐かしい風景は、みんなあなたの幻術なの?」
少年はどこかくすぐられたような顔で、何も言わずに笑ってみせた。編み上げたばかりのクローバーの花かんむりを、立ち上がって少女の頭へのせてやる。
少年はあどけない笑顔を見せながら、甘くリリカの手をひいた。その指はぷわっと優しく柔らかく、マシュマロのような感触だった。
「遊ぼうよ、リリカ。またあの頃みたいにさ」
少女が一瞬泣き出しそうな笑顔を見せて、こくりと大きくうなずいた。
齢十六になる少女と、十歳足らずの幼い少年。明らかな背たけの違いはあれど、リリカは心いっぱいに十歳の頃に戻っていた。
……まだ何ひとつ知らなかった、それ故に幸せだった頃。
まぼろしでも良い、まやかしでも良い、ほんのひととき、甘い想いで心を満たして……。
はしたないくらいはしゃぎまわり、やがて遊び疲れた少女が、クローバー畑へすわりこむ。その右手には、夢みたいにたくさんの摘みとられた四つ葉たち。
四つ葉を手にしたリリカのとなりにひょいとすわって、カシュアが小首をかしげてみせる。
「ねえ。リリカはどうして最近さ、あんな淋しい笑顔をするの?」
リリカが、ぐっと言葉に詰まってうつむいた。
そっとそのほおへ手を触れて、カシュアがにっこり笑ってみせる。まるでお手本を示すみたいに、体全部で笑ってみせる。
「ねぇリリカ。あの頃みたいに笑ってよ。見てるみんながつられて楽しくなるような、あのまんまるい笑顔でさ。だって、俺、」
カシュアがふっと言葉をためる。
それからお日様の光を煮つめたような、あったかい笑みを浮かべて告げた。
「だって俺、リリカのことが大好きだから!」
少年の言葉にリリカは可愛く青い目を見はる。それからじんわり、涙を浮かべて微笑んだ。――それがおしまいのきっかけみたいに、幻術はふっと散らけて見る間に消えた。クローバー畑も、四つ葉の束も、みんなみんな消え去って……、
後には見慣れた家の庭と、十六歳のカシュアとリリカが残された。
リリカは柔らかな手のひらでカシュアの手のひらを包みこみ、骨ばった指先に触れるだけのキスをする。顔を上げた少女のほおには、あの懐かしい、まんまるい笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう、カシュア。幻術、とても楽しかった」
二人は黙って見つめ合ったあと、お互いに何か言いかける。そんな二人の耳を貫き、リリカの家から電話のベルが鳴り響いた。
リリカがあわてて家のほうを振り返り、魚が水を泳ぐように、伸ばしかけたカシュアの腕をすり抜ける。
「それじゃあね、カシュア! また後で!」
リリカは微笑って、ひらひらとスカートを揺らしながら去っていく。その後ろ姿を目で追って、カシュアは小さく吐息をついた。
「……まいったな。まぼろしの最後の一言は、告白のつもりだったのに」
(あの『大好き』の一言も、幻術と思われちゃったかな?)
遠回しでストレートな告白をしかけた少年は、自分の勇気の足りなさに、ふっとかすかに苦笑した。
(今度はちゃんと告白しよう。木苺の熟す、夏ごろに)
可愛い期限をもうけたのは、もう一度すぐに気持ちを打ち明けるのが、照れくさかったからだった。
「……大丈夫。ここいら辺の木苺なら、あと半月もあれば熟すから!」
自分でじぶんに言い聞かせ、カシュアがひとりほおを緩めた。
ところがこの『半月』の猶予期間が、半月分だけよけいだった。
* * *
庭の木苺の実が熟した。
――よし、言うんだ! 今日こそ言うんだ!
『……君が好きだ』って!!
勢い込んでリリカの家を訪ねたカシュアは、出迎えてくれた少女の言葉に、ずんと胸を撃ち抜かれた。
「……引っ越す、って? 外つ国に?」
「そうなの。お父さん、今度再婚するの。外つ国の領主のお嬢さんと」
思ってもみなかった展開に、カシュアはただただ立ちつくす。心にぽっかり開いた穴に、ひょうひょう風が通るみたいで……。
そんなカシュアに気づかずに、リリカは小さく歌う口ぶりで言葉を紡ぐ。
「お父さん、お母さんと別れてから、仕事で外つ国に出かけたの。そこでお相手と知り合ったの」
「あ、あぁ、そうか! リリカのお父さん、異国の骨董商だものね!」
うわずった声で呼応する幼なじみの手をとって、リリカがこくりと首をたてに振る。
「そうなの。それでお互い手紙をやりとりするように……お父さん、仕事柄いろんな国の言葉を知っているものだから」
嬉しそうな淋しそうな、あいまいな口ぶりでつぶやくと、少女はふわっと緩く微笑んだ。
「それでね、もうずいぶん前からお誘いが来ていたんだって。『うちの婿になりませんか』って」
それなら相手がこっちに来いよ――。
思わず声に出しかけて、カシュアは言葉を呑みこんだ。
分かっている。
お相手に跡継ぎのきょうだいがいるかは知らないが、どっちにしろ『地元の領主のお嬢さん』が、外つ国に嫁ぐ訳がない。この話の行きつく先は、もう固まってしまっている。
硬い表情のカシュアを上目づかいに見つめ、リリカは細く言葉を継いだ。
「……お父さん、いろいろなことが気になって、お返事をずっとこらえていたらしいの。でも、わたしも手元に戻ってきたし、もうこらえきれなくなったのね。こないだ電話でわたしに言ったの、『今夜大事な話がある』って」
電話……。
息だけでつぶやいたカシュアの耳の内側に、いつかのベルが鳴り響く。
「……半月前の、あの電話……?」
「そうよ。あなたが幻術を見せてくれた、あのすぐ後に鳴った電話よ」
流れるように言葉をこぼし、少女は柔い笑顔を見せた。
「お父さん、『お前が決めろ』って言ってくれた。『どっちの道を選ぶかは、若いお前が決めてくれ』って。『お前が行きたくないのなら、父さん再婚しないから』って」
その選択肢は、娘への思いやりなのか。裏返しの我がままなのか。
何ごとか言おうとして何も言えない少年に、リリカはふわっと吹っ切れたように微笑いかけた。
「わたし、半月考えた。考えた後、自分で決めたの。『新しいお母さんの待つ、外つ国に引っ越していこう』って」
リリカが握ったカシュアの手を、包みこむようにさすり出す。女性のそれのように繊細なつくりの爪先を、慈しむように撫で始めた。……ふいにぴたっとその手を止めて、満たされた顔で笑ってみせた。
「あなたのおかげよ、カシュア。あなたのくれたまぼろしが、前へと進む力になったの」
少女のくれた、最大級の賛辞の言葉。
それは最大級の絶望へと姿を変えて、カシュアの心をこれでもかと殴りつけた。
「……俺の、せいなの?」
「……え?」
「俺が、あんなまぼろしを見せたから、君はどっかへ行っちゃうの?」
それこそ我がままの固まりのような言葉をこぼし、カシュアはそっとうつむいた。
(この俺が、あんな幻術見せなければ)
あの後、もったいぶって変な猶予をもうけずに、君に告白していれば。
ずっと、となりにいてくれた――?
黙りこむカシュアのほっぺたに、リリカがそっと手を触れる。なぐさめるような口づけを、カシュアのくちびるの横にささげて、黙って微笑って家の奥へと去ってゆく。
カシュアは遠ざかる後ろ姿を目で追いながら、きつくくちびるを噛みしめた。
『ずっと、おとなりに住んでいて。ずっとこの俺のそばにいて』
そんなことなど、言えやしない。
よりにもよって自分の見せたまぼろしが、彼女の背中を押したのだから。
それでもきっとリリカの中に、あの『大好き』の記憶は残る。
……今ではただその希望だけが、たった一つのなぐさめだった。




