幻《げん》の一・出逢いと再会
初めて『彼女』を知ったのは、十五の春のことだった。
生意気ざかりのカシュアの前で、勤め先の学校から帰った父、カークゥが、ふっとささやかな笑みをもらした。カークゥはいつでも微笑しているような男だが、その笑みはどこかいつもと違っていた。
少し不思議に思ったカシュアが、口を尖らせて問いかけた。
「何笑ってんのさ、親父」
「『笑ってた』? 僕は、笑っていたのかい?」
意外そうにそう訊き返す父親に、カシュアは黙ってうなずいた。父はどこかこそばゆそうに苦笑して、ぽつりとひとつつぶやいた。
「あの子のせいだ」
「あの子? いったい誰よ、あの子って」
やきもち焼きなカシュアの母が、聞きとがめて夫を軽く問いつめる。カークゥはなだめる手つきで手を振って、何でもなさそうに打ち明けた。
「違うよマリア、そんなじゃないよ。今年の新入生の中に、とてもおもしろい子がいてね……」
「おもしろいって何、ありえないくらいナイスバディーとか? 性的におもしろいってそーゆー、」
「はは、違うってばマリア! 彼女はむしろ幼女に近い見た目でね……ハニアっていう、とても十五歳には見えない女の子なんだけど。びっくりするくらい鮮明に、香りを具現化できるんだ」
「ああ……そっち? そっか、なぁんだ!」
やきもち焼きのマリアがようやく納得し、余裕の戻った笑みを浮かべる。反対にカシュアはぴくっと眉をひきつらせ、にらむように父を見すえる。
カークゥは、幻術師養成学校の一教師。
つまりは、幻術師の卵たちへ術を教え、育てる人だ。
幻術師とは、一言で言えば『いかさま師』。自分のイメージを具現化して、まぼろしのお芝居を作る職業だ。
『姫になりたい』
『勇者になりたい』
『壮大なラブロマンスの末に、神と結ばれる娘になりたい』……。
客のオーダーを欲望に忠実に再現し、まぼろしのお芝居の主人公になっていただき、ひとときの娯楽を提供する。それが幻術師のなりわいだ。
カークゥも実は、相当な腕を持つ幻術師だ。そんなそぶりを普段は毛ほども見せないが、遠く異国の王の前で、その術をふるまったこともあるらしい。
(そんな親父が『おもしろい子』とまで言うなんて……そいつ、どんだけの腕の持ち主なんだ?)
正直、カシュアはあまりおもしろくない。
こっちだって幻術師を目ざしていて、父親の勤め先とは違うけど、養成学校に通っているのだ。こっそり一目置いている父が褒める対象に、敵対心みたいなものを感じてしまう。
カシュアはさほど興味のないふりをして、再びカークゥに問いかけた。
「どんな子? その子。香り以外では、どんな術が得意なの?」
「いや、得意なのは香りだけだよ。香り以外はぜんぶ苦手だ」
さらりと答える父の向こうで、母のマリアが晩ごはんのしたくに戻る。予想もしない言葉を返され、カシュアがあんぐり口を開けた。
「……はぁあ? 何それ、いったいどういうこと? まさか『香り以外はなんにも具現化出来ない』とか?」
当然のようにうなずく父に、カシュアは「はん」とあざけるような顔で笑った。
「そんなん大したことないじゃん。よりにもよって香りしかイメージ出来ないなんて!」
カークゥがいさめるように静かに微笑う。それから急に、ぴっと息子の鼻先で人さし指を立ててみせた。
「カシュア、それならイメージしてごらん。そうだな……例えば、お前の好きな木苺の、あの甘酸っぱい香りを再現してごらん?」
「そんなん簡単! 見てみな、ほぉら!」
カシュアが自信まんまんに立ち上がり、ふあっと右手を宙へ躍らす。またたく間に二人の眼前にまぼろしのベリー畑が現われた。赤い実が夢幻の光を浴びて、ちかちかとイルミネーションのように輝いた。
「ほぉら、こんなん朝メシ前……」
「香りは?」
「あ、」
萌黄の瞳を見はったカシュアが、あわてて鼻をひこつかせる。
香りがしない。
木苺のあの甘酸っぱい匂いなど、ひとかけらすら漂わない。あせって両手を躍らせど、香りはまったく再現出来ない。あれほどに好きな匂いなのに、全然イメージ出来なかった。
「……だめだ、分かんない!」
あれこれ奮戦していたカシュアが、ついにギブアップしてその場にすわりこむ。カークゥは骨ばった手で、そんな息子の頭をぐりぐり撫で回してやった。
「香りをイメージするのって、あんがい難しいんだね、親父……」
ぽつりとつぶやき何か考えこむカシュアに、カークゥは柔い笑みを浮かべた。
生意気でいて素直な息子が、父は可愛くてしかたない。
成長半ばの小さな体に、恐ろしいほどの幻術の才能を秘めたこの子は、今後どのように育っていくのか……。
ライオンの仔を間近に見るようなまなざしで、カークゥは息子を見つめていた。
* * *
それから一週間が過ぎた、カシュアの家のダイニング。
両親は週末恒例のデートに出かけ、カシュアは一人で留守番していた。
ティーテーブルとそろいの椅子にあぐらをかき、木苺の香りをえんえんイメージし続けている。
鍛練の前に自分で淹れたダージリンも、いい加減冷めてきてしまった。
「……あぁもう、分からんっっ!!」
一人きりをいいことに、破れかぶれに叫び立てる。その声に呼応するように、まぼろしのベリー畑が『ぽんっ』と一気に弾けて消えた。
カシュアは大きくため息をつき、骨ばった手で顔を覆った。
木苺のジャムや香料で香りを確認する手もあるが、それは何だか無性に悔しい。何ひとつ手のかかっていない、本当の匂いを再現したい。
「本物の木苺の香りをかぐのは、夏になるまでおあずけかぁ」
つぶやいた少年の頭のうちに、ぽうっと小さく名前が浮かぶ。
(ハニア・ハニウ・ハニュウ)
誰より何より香りの好きな、顔も知らない女の子。
「どんな子なんだろ、ハニアって」
思わず知らず言葉をこぼし、カシュアはぬるく緩んだお茶をすする。父、カークゥから話を聞いて一週間、ふと気がつけば彼女のことを考えていた。
(髪は栗色、大きな瞳は『お日様にあてた』はちみつの色。年より幼い小柄な体に『花開くような』可愛い笑顔……)
毎日のように父の口から語られる切れぎれの情報を、ところどころふくらませては組み合わせ、頭の中でハニアのイメージを作りあげる。
自分には出来ないことを、たやすく叶える女の子。
恋にそっくりな感情が、カシュアの中に芽生えている。けれども当の本人は、そのことにまるで気づいていない。
「……こんなに熱心に女の子のこと考えんの、ずいぶん久しぶりだよなぁ」
ぽつりと小さくつぶやくと、一人の少女の面影が、ふわっと脳裏に咲き誇った。
すっとまっすぐな肩まで伸びた黒髪に、サファイアのような青い瞳。もう五年越し会ってもいない、幼なじみの女の子。
「リリカ・リリク・リリム……」
耳なじみの良い相手の名前をささやくと、何となし、幼い胸がきゅっとちぢまる思いがした。
もうずっと、おとなりさんだった。誕生日もほとんど一緒の同い年で、それはもう絵に描いたような幼なじみ。生まれてから十年間、血の通わぬ兄妹のように過ごしてきた。
別れが来たのは、五年前。
彼女の両親が離婚して、リリカは母と一緒にこの地を離れていったのだ。そうしておとなりの一軒家には、このごろめっきり老けこんだ父親だけが残された。
(リリカの家族は、どうしてばらばらになっちゃったんだろう。あんなに仲良さそうに見えたのに、いったい何があったんだろう?)
疑問は山ほどあったけれども、幼いカシュアの頭の中で、疑問は解けぬままだった。当時十歳の少年に、両親もくわしい話はしなかった。
ただ、眠れない夜、キッチンへ水を飲みに行った時、戸のすきまからもれ聞いてしまったことはある。
「リリカ、大丈夫なのかしら? 『二親が離婚した時は、基本子どもは母につく』ってこの国の法律はあるけれど、あのお母さん、自分でじぶんのことだって……」
そこから先は聞けなかった。めずらしく酒を飲んでいたカークゥが、赤い顔で指を立てて、妻の言葉をさえぎったのだ。
(……あの時、親父は気づいてたのかな。俺が扉の向こうにいたこと)
十五のカシュアはぼんやりといろいろ思い出しながら、ゆっくりと萌黄の瞳を歪めてゆく。
(リリカの母さん、孤児だったらしいし……昔入ってたっていう評判の悪い孤児院も、潰れたっていう話だし。故郷っていえる故郷もないのに、母子二人で、今ごろどこにいるんだろう……)
しばしの物憂い物思いが、カシュアの胸をうずめてゆく。ため息をひとつ吐き出した時、とんとん、と遠慮がちに玄関のドアがノックされた。
あれ、親父とおふくろか?
だけどそれなら、『ただいま』って二人でドアを開けるはずだし……。
来客だろう、と判断したひとり息子が「どうぞ」ととっさに声をあげた。
扉を開けて入ってきたのは、いつかどこかで見たような、同い年くらいの少女だった。
すっとまっすぐな腰まで伸びた黒髪に、サファイアのような青い瞳。少女はどこか痛んだような顔をして、ためらいがちに微笑ってみせた。
「久しぶり、カシュア」
「…………リリカ? リリカなの?」
驚きのあまり無作法に指をさしての問いかけに、少女は甘く苦笑いしてうなずいた。細い指で髪をかき上げ、ささやくような声音で告げる。
「引っ越してきたの、おとなりに」
意外な言葉に、少年は声を詰まらせた。
どうしよう、何て答えれば正解なんだ……?
「……髪、伸びたね」
妙な間のあと口をついて出てきたのは、まるっきり的外れな一言だった。少女はもう一度うなずいて、ぽそぽそと先ほどの自分の台詞をおぎなった。
「……この間、お母さんが病気で死んで、わたしはほかに身よりもないから、お父さんに引き取られたの。カシュア、だからわたしとあなた、今日からもう一度おとなりよ」
ふわっと柔くほおを緩めて、少女はあいまいな笑顔を見せる。声もなくただうなずくカシュアの手を握り、リリカはどこか淋しげな笑顔を残して去っていった。
一人残された少年が、ふうっと大きく吐息をついた。
「……リリカって、あんな笑い方してたっけ?」
陰を染ませた淡い微笑を思い出し、カシュアは淋しい気持ちになった。
(あの子は、あんな子じゃなかった)
昔からおとなしい子ではあったけど、あんな危うい笑い方なんてしなかった。
もっと嬉しそうで、幸せそうな、まあるい笑顔をしてたのに。そんな顔して笑うリリカが、
「好き、だったのに」
思わず知らず口にすると、胸のあたりが熱くなる。カシュアは黄金色の髪を、くしゃくしゃと細い指先でかき混ぜて、萌黄の瞳をしばたたく。
(……いいや。今より色味は薄かったけど、両親が別れるちょっと前あたりから、リリカはあんな笑いをしていた)
今さらそこに思いいたり、カシュアが萌黄の瞳を歪める。
あの時、自分は子どもだった。
そんな子どもの自分に甘えて、幼いリリカの心の変化に、気づかないふりをしていなかったか。あの時何かに気づいていれば、何かを変えられていたろうか?
そんなこと、今さら考えてもしょうがない。しょうがないことを考えて、少年はくちびるを噛みしめた。先ほどのリリカの様子を思い出し、ぽつりと一人つぶやいてみる。
「……『病気』?」
母が病気で亡くなった。
そう告げた時、リリカの可愛い口もとが、ほんのわずかにひきつったのを思い出す。それにつられるようにして、リリカの青い目と色の似た、彼女の母セレナの瞳を思い出す。
セレナの瞳は、いつでも淡く潤んでいた。彼女のまなざしは、彼女の生きる『哀しい世界』に生きている、全てのものを哀れんでいるようだった。
彼女は病んでいた。
体ではなく、心のほうが病んでいた。生まれてすぐに親に捨てられ、十の年までいた孤児院も折り紙つきの『檻』の部類。あまりくわしくは知らないが、囚人さながらの生活を強いられていたらしい。
十五の年になった今なら、部外者のカシュアにも分かる。
リリカの父は、セレナに芯から恋をした。愛しい相手を救おうと、付き合って結婚して、リリカという子どもが生まれ……。
それでも虐待された仔猫のようなセレナの心は、澄み渡ってはくれなかった。救おうとして救いきれずに、リリカの父は妻子を手放してしまったのだろう。
セレナのふるまいに耐えられなくなった……というより、自分の無力さに耐えられなくなったのだろう。それとも『自分以外に大事なひとを見つけたら、そのひとが今度こそ彼女を救ってくれるかも知れない』と、そう考えたのかもしれない。
そこまで思考を煮つめたあと、カシュアはリリカの紡いだ言葉に思いをはせた。『病気』というのは、心の病。ならば、『病気で死んだ』というのは……。
「……自殺?」
ふっと口にした言の葉に、胸が一気に寒くなる。少年はきつくくちびるを噛み、右手のひらで目もとを覆った。
死んでしまったセレナより、取り残されたリリカの方がずっと気になる。
ほんのり白いほおに浮かべた、淡く沈んだ微笑のほうが、カシュアはひどく気になった。




