現《げん》の一・お天気雨と愛弟子と
今朝の空は、透き通る海の青に真珠のレースがかかったようだ。
「久しぶりだわ、お天気雨」
小さな香茶店『ファカルナ』の年若い女店主が、一人ごちてつぶやいた。まつ毛の長いはちみつ色の目をまたたき、丸い窓から外をのぞく。
「カシュア、濡れてやしないかなあ……?」
恋人、兼、愛弟子の名を口にして、店主のハニアは気づかわしげに桃色のくちびるへ手をあてた。それからふっと顔を上げ、香りの満ちる店の中を見渡した。
以前と『どこがどう違う』という訳でもないのだが、なんとなし前より華やいだ心地がする。
「人が増えると、違うものだわ……」
ハニアは小さくつぶやいた。実年齢よりずっと幼く見える口もとに、ほんわり柔い笑みが咲く。
この店を始めて、こうして二年めの秋を迎えた。虫の音も絶えて、野原は一面の草紅葉……。店の中では暖炉の用意がちゃくちゃくと、もうじき冬がやって来る。
――香るお茶の店、香茶店。幻術の力を使っていろいろなものの香りを移した、甘い紅茶を扱う店。こちらであつらえた茶葉を売ることもあれば、オーダーメイドでお茶を仕立てることもある。
そういった基本スタンスは変わらないが、一度めの秋と違うのは、店に人が増えたこと。カシュアという名の青年が『香茶師ハニアの弟子』として、店に通ってくることだ。
「あのひと、どうしたのかなあ? いつもなら、そろそろ店に入ってくる頃なんだけどなぁ……」
カシュア=カーリス=カリービア。
呪文のように口の中で名を唱え、ハニアが口もとへ手をあてた。マシュマロみたいなほっぺたが、じわじわと赤く色づいていく。
(いけない! これじゃあまるでデートの待ち合わせじゃないの! それもまるっきり、待ちぼうけくらっているみたい!!)
「だめよハニア、朝から夕は修業の時間! あのひとは弟子、私は師匠っ!!」
ハニアはぺちぺちと己でおのれのほおをたたき、ぽそぽそ自分に言い聞かせる。その刹那、からんからんとドアベルの音が響き渡った。
「おはようございます、マスター!」
弾けるような声と共に、愛弟子が店に入ってくる。
黄金色の髪に、萌黄の瞳。一瞬女性と見間違うほど綺麗な顔立ちの青年は、小首をかしげてにっこり笑う。
ハニアも思わずつられてしまい、とろけるような笑みをこぼした。それから確かめるように、恋人の肩へ手を置き……たかったのだが、身長差がえぐいので相手のベルトのあたりに手をかけた。
「カシュア、あんまりずぶ濡れですよ……少し早いかもしれませんが、ちょっと暖炉に火を入れましょう」
「え、大丈夫ですよ? ちゃんと傘さしてきましたから!」
窓越しに外の傘立てを指さすカシュアに、ハニアがぷるぷる首をふる。
「傘って、あなた……ズボンがびしょ濡れじゃないですか……!」
「あ」
カシュアが見下ろす己の下半身は、靴から何からびしゃびしゃだ。まあ当然だ、『ほんのおしるし』の小道がついているとはいえ、野っぱらを濡れた草をかき分けかき分け、はるばる通ってきたのだから……。
「はは、いやぁ、『気合いで何とかなるや』と思って、あえて知らんふりしてたけど……やっぱ少し寒、っえっくしょい!!」
「ああ、待って、待っててください! 今すぐ暖炉に火を……!」
「あ、マスター、俺がやります!」
カシュアはさくさく薪を運び、手慣れた様子で火を入れる。やっと人心地ついた後、カシュアがちょいちょいとマスターを手招いた。猫の仔のように呼ばれて、ハニアは素直に弟子のそばへと寄っていく。
カシュアはふっとハニアの耳もとへ口を寄せ……自然とかがんだ体勢になるが、その身長差すら愛おしい。まあそれは横へ置いといて、愛弟子は甘く絡みつく口ぶりでささやいた。
「――ていうか、マスター。『住みこみの弟子』にしてもらえたら、濡れたの濡れないの、心配する必要なんてなくなりますよ?」
弟子の言葉に、ハニアのほおになおさら赤く血が昇る。
「いっ、いえ、それは! それはまだ……!!」
「『まだ早い』っておっしゃいますか? ――いったいいつなら良いんです?」
弟子が師匠をうむを言わさず追いつめる。毒入りのはちみつを思わせる、甘くすさんだ口ぶりだ。泣き出しそうになるハニアを見つめて、カシュアがぷはっと吹き出した。
「あはは、冗談、じょうだんですよ! こんな中途はんぱな身分で、そんなことしてるなんて知れたら、両親に何言われるか分かったもんじゃないですから!」
「……カシュアの、いじわる」
大きな瞳に涙を浮かべ、ハニアがぽそりとつぶやいた。その表情に朝っぱらからくらりと理性が揺らぎかけ、カシュアが思わず目をそらす。視線の先に回りこみ、さっきのお返しとばかり、女店主が軽く言の葉で絡んできた。
「……というか、カシュア。まだご両親にご報告してやしないんですか?」
「えぇぇえ!? とんでもない、そんなこと出来やしませんよ! 『卒業ぎりぎりで学校やめて、香茶師の弟子になりたてで師匠をものにした』なんて、そんなこととても言えませんっ!!」
あわあわと両手を振ったカシュアが、ふっと腕の動きを止める。
(……まあ、親父にはとっくにバレてるみたいだけど?)
内心でそうつぶやいて、一人しみじみ苦笑する。それから少し落ちこんだハニアの様子に気がついて、ふわり柔らかく微笑ってみせる。
「まあ、いずれは言いますよ。『このひとと一緒にさせてください』って」
「そそそそ、そんな、そんなこと……っ!」
朱をはいたようにほおを色づけたマスターが、ぽそりと小さくつぶやいた。
「……そんなことまで、訊いてません」
愛おしそうに微笑ったカシュアが、ふっと切なげな顔をする。気づかれる前にまた微笑い、ぺこりと大きく頭を下げた。
「マスター、今日もよろしくお願いします!」
修業モードに入るカシュアに、少し落ちついた女店主が、幼く柔らかい笑みを浮かべた。
「カシュア、そんなにあせらないで。いくら暖炉に火を入れても、秋雨の中を歩いてきたから、体の芯から冷えちゃってるでしょう? お茶で一服しませんか?」
「あ、いいっすねぇ! お願いします!」
子どもが母に甘える時の顔をして、カシュアがにっこり呼応する。母さながらの優しく甘い笑みを浮かべた少女店主が、穏やかな声で問いかけた。
「お天気雨の今朝ほどは、どんな香りがお好みですか?」
「んーじゃあ、木苺! 木苺のお茶が飲みたいです!」
(また、木苺)
香茶のリクエストを訊くと、カシュアはいつでもこう答える。変わりばえしない返答に、ハニアは甘く苦笑して、一人キッチンへ引っこんだ。
残されたカシュアは木造りの椅子にすわりこみ、テーブルの上にひじをつく。窓から外の景色を眺め、萌黄の瞳をまたたいた。
さらさらさらさ、雨が歌う。
その歌声に引っぱられるようにして、思うともなく、昔のことを思い出した。




