香の四・生きててくれて、
深まり始めた秋風が、あえてかすかに開けた窓から、金木犀の甘い香りを運んでくる。
ハニアとカシュアはお茶の時間に、秋風とおんなじ香りの香茶を楽しんでいる。
「うーん……なんとも言えない良い香り! あの金色の可愛い花のにおいだと思うと、気持ちが華やかになりますね!」
「ええ、これは香りをつけたお茶だから、一年いつでも楽しめますけど……こういう特別感のあるお茶は、あえて秋のこの時期にだけ、しみじみ味わいたいですね」
「おお……なんか『ふーりゅー』ですね、マスター!」
思ったことをそのまま口にするカシュアの言葉に、ハニアがちょっとびっくりした顔をしてみせる。
「風流、ですか……? ふふ、なんだか私が『酸いも甘いも噛み分けたおばあちゃん』みたいですね!」
「おばあちゃんん? そんな訳ないですよ、世の中にこんなめちゃくちゃ可愛いおばあちゃんなんているワケが……!!」
勢いにまかせて言いかけて、カシュアがぐっと言葉につまる。
――わぁあ! 俺ってば、会話のどさくさにまぎれて何を! これじゃまるっきり片想いの勝手なのろけじゃ……!!
あわあわして急にカップに口をつけて、金木犀の香茶にむせる。びっくりして気づかうハニアに無理やり笑顔を作ってみせて、あからさまに話題の転換をはかってみる。
「ああ! そういやおばあちゃんって言えば、マスターは『おじいちゃんおばあちゃんっ子』なんですよね? ご両親はいったい何で……」
――わぁあ俺の馬鹿! よりによって何て話題を! ご両親の亡くなった時の話なんて、マスターが改めてしたいワケ……!!
失言を心から悔いてみても、言った言葉は取り消せない。ハニアはしんみり微笑ってみせて、こくりと一口、花の香茶を口に含んだ。鼻に染み入る甘い香りを味わってから、小さな声で話し始める。
「……私は、小さいころ本当に体の弱い子で……五歳の時にひいた夏風邪が悪化して、『この世界にさよなら』しそうになったんです」
カシュアが戸惑った萌黄の目を見張る。手にしたカップの持っていきどころが分からなくなって、そのまま固まってしまったカシュアに、ハニアは幼げで淋しげな笑顔を見せて、また可愛らしい口を開く。
「私はひとりっ子でしたから、両親は本当に心配して、もう何だか訳が分からなくなって、とうとう神様にこんなお祈りをしたんです。『どうか神様、自分たち二人はどうなっても構いませんから、娘の命は救けてください』……」
言葉もなく息を吞むカシュアに、ハニアは小さな頭をかしげて、消え入りそうに微笑んだ。
もうほとんど残っていないお茶に口をつけ、音もなく白いカップをソーサーに置き、泣き出しそうな笑顔で続ける。
「……私は『死にそうな夏風邪』から、奇跡的に回復しました。街の病院を退院して数日後、両親は笑顔で言ったんです。『お前はまだ病み上がりだから、家でおとなしくしておいで。パパとママは、お医者さんにお礼を言いに行ってくるからね』って……」
そこでふうっと言葉をきって、幼姿の少女は小さくちいさくため息した。わずかに潤んだはちみつ色の瞳を緩ませ、あきらめたように目を閉じる。
一瞬あとに目を開いて、ハニアはやるせなく微笑した。泣き出すよりもっとずっと、痛々しい笑顔だった。
「……お礼の品を抱えて、両親は笑って出かけて行って……それっきり帰ってきませんでした。乗っていたバスが大きな交通事故に遭って、両親は二人とも、それっきり……」
そこでぎゅうっと目を閉じて、ハニアはかすかに頭をふった。栗色の髪がちらちら揺れて、カシュアの瞳にどうしようもなく綺麗に映る。
……何も言えない青年の目を真正面からじいっと見つめ、少女は懸命に微笑ってみせた。
「だから、何だか、私が両親の命を奪ってしまったような気がして……」
ハニアはすうっとうつむいて、潤んだ瞳を何度もまばたいて、それでも無理やり微笑み続ける。
「……このあいだ、私、『両親のことをほとんど覚えていない』って言ったでしょう? あれは、嘘です。考えないようにしてるんです。考えるほどに、どうしようもなく辛くなるから……」
「――俺は」
唐突に切り出した青年に、幼い少女が不思議そうな目を向ける。潤んできらめくはちみつ色の瞳に映るカシュアの両目も、どうしようもなくきらめいている。
「俺は、嬉しいです。今、いま目の前に、マスターがいて、生きて、息してくれてて、こうしてしゃべってくれてるのが……、」
萌黄の瞳がくしゃくしゃ濡れて、大粒の涙があふれ出す。口もとをぐちゃぐちゃに歪ませて、カシュアは懸命に言葉を重ねる。
「――どうしようもなく、嬉しいです……!!」
そこまでやっと言葉にして、青年は真っ赤になった目もとをぬぐって、めろめろに乱れた声で口走る。
「ごめんなさい、俺、今日はもうこれで……駄目だ、本当にもうだめだ……!!」
言いつつカシュアは自分の小さなバッグを抱え、がっと店を飛び出した。飛び出して、めちゃくちゃに駆け出して、後ろ姿が遠くとおくなったところで、よろけたように立ち止まる。
……それからまるで、母を亡くした少年みたいな泣き声が、遠くハニアの耳まで届く。生まれたての赤んぼうみたいにあけすけで、でもすごくやるせなく切ない声で、ハニアの耳の奥のおくまで染みてゆく。
「――ありがとう……」
ありがとう、ございます……それだけつぶやく少女の視界が、もろもろもろく乱れてゆく。
幼く白いほおを伝い、塩辛い熱いしずくが、幾筋もいくすじも流れて粒になって落ちてゆく。
甘い金木犀の香りが、鼻に通って心に沁みて……ああ、泣きやめたら久しぶりに両親の写真を見てみようと、ハニアは胸の奥底から考えた。
……まだ遠くで泣き続けるカシュアの声が、しみじみ耳に愛おしかった。




