441号室 2
なにもない部屋です。白一色。何も混じり気のない白。あと一段階白くすると、透け始めそうな白。似たもので言えば、春の晴れた日にX山の山頂あたりで見た、残雪の色でした。
壁と一体化した棚には何も置かれておらず、部屋の中央には白いテーブルがあります。そして正面には大きな正方形の窓。ここからも[シンジュク]が見えます。今は夜景でした。無数の白い窓の集まりが、「都会」のかたちを描いていました。こちらにも夜らしき時間はあるらしいですね。
わたくしは1mほども奥行きがある窓辺に座り、随分遠くに来たものだな、と感じました。身を乗り出して、窓を開けてみます。中心軸が回転して開く窓です。60度くらい開くと止まります。転落防止なのでしょうが、普通に落ちられますね。
うまいですね。空気が。
こちらの空気は、どうしてこうも、ハイスペックなのでしょう。静かな感動がふつふつと煮え、冷えることを知りません。今のわたくしは可能性の海の中に居ます。なんでもできそうです。なんにもできないかもです。どっちでもいいと思いますけど、ここは素直に、なんでもできるほうに心を向けてあげましょう。ごく自然な気持ちで、可能性の天国を漂っている感覚。つまり、わたくしは、こちらに来てからずっと、リラックスしているのでした。深く深く、リラックスしています。
ああ、この感覚です。これはわたくしが求めたもの。いちばん好きだったものなのです。
このリラックスの深度は、わたくしが向こうの部屋に居た時、しばしば到達したものでした。「たまに」ほど少なくなかったですが、「必ず」ほど多くも行けませんでした。まさに引き込もりの最高点(どん底)といえる階層。ただし向こうでは、それは一時的でした。すぐに時間と空間が、そこに永遠に浸るのを邪魔してしまいました。それがこちらでは、寸時の切れ間もなく、続いているのです。
ふかい、ふかい、あまくとろけ、濃縮され、固まりゆくような、濃密なリラックス。
わたくしはここにいるのに、どこにでも漂っているような、快楽に満ちた混濁。
この遠い場所で、わたくしは自分の原点に、思いを到します。そもそもなぜ、わたくしは、引き込もりが好きだったのだろうと。引き込もりのどこが魅力であったのか。……それは今なら、はっきりと言える気がします。
リラックスです。ふかい、ふかい、リラックス。戻って来れるかどうかのスリルさえ、ケーキのように甘く、ハーブのように涼やかな、リラックス世界への潜行。わたくしはリラックスが、大好きなのでした。
この世界では、むこうよりもごく自然に、リラックスしています。
「潜行」してみたら、どこまでいけるのでしょうか。静かなわくわくの理由はそこでした。
……と、窓辺でひとしきり、こちらに来た実感を味わうと、わたくしは部屋の中へと目を向けました。不思議な部屋でした。電灯は一切ないのに、まろやかな明るさでした。スイッチは壁にはなく、端末にスイッチの画面を呼び出すことができました。端末には照明のほかにも、一瞬で部屋の色を変える機能や、物の絵をトリックアートのように映し出し、棚を賑わせて見せる機能など、たくさんありました。けれど、引き込もる予定のわたくしには、不要な機能のようです。
部屋をみたので、つぎはフロアを歩くことにしました。部屋の中で真に引き込もりに入る前に探索しておいても悪くありません。目的地はとくにありません。「創舎」でのわたくしは、建物全体が部屋のように感じられ、あてもなく歩くだけで充分です。
扉から出たときでした。
右隣の「442」の扉から、かしゃりと音がしました。シューッと空気の抜けるような音がして、赤い扉が、奥にずれました。
キィ、と扉が奥に引き込まれ、誰かが出て来ました。
わたくしはその様子を平坦な気分で見ていました。誰だろう。男かな女かな。苦手な性格の人なら嫌だな。そういう異物的な思考は浮かびませんでした。わたくしは無意識レベルで、この建物の人々を受け入れているのだなと、新鮮に思いました。
ハープの弦がピンと弾かれたような声が、しました。
「あなたは?」
声に合わせて、印象が整然とやってきました。コンパクトサイズな存在感の子。ショートヘアの範囲でアクセントや遊びがありつつ、まとまっている髪をしています。一目でキャラ付けがやりやすそうで、しかも似合っている眼鏡をかけています。
あちらで言えば小学校三~四年生の女の子でしょう。小さな隣人は、年相応な未熟さを顔に残しながらも、凛とした目でわたくしを見ました。
わたくしは廊下に出て、ゆっくり頭を下げ、挨拶をしました。
「こんにちは。このほど441号室にお世話になることになりました、引込完と申します。宜しくお願いします」
少女はわたくしの胸を見てから目を見て、
「でかいね」
と言いました。
そうですね。わたくしは中学生ですので、少女に比べれば胸も背もあるのは確かです。
「隣の空き部屋から物音がして、何かと思ったの。そっか、新しい神、か……」
少女は訥々、呟きました。なにかもの思うような、うつむき加減な顔は、絵になりました。
「泉サキ」
彼女はわたくしを見て、言いました。
まるで人間のものでないような、きれいな目をしていました。初めて見る種類のその目を、わたくしはきれいだと思ったのです。すべての感情を豊潤に含み、均衡しているような、特別な存在感の目でした。
でも、そんな特別で、きれいなものは、とてももろい気がして、かわいそうな気がして、わたくしは強い「憐れみ」にもココロを衝かれました。
これがわたくしの、だいじな、だいじな、友達との出会いでした。
――と、後に思い出を振り返るように述べてもいい瞬間だと思いました。
その予感は外れない気がしました。