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8F

 

 *

 

 わたくしは建物からは出ていないので、この世界のことは、まだ「建物」と呼んでいます。

 わたくしは建物の空気に、自然に浸っているのでしょうね。「帰りたい」と試しに口にしても、自分で嘘だとわかってしまいます。口元がむずむず、緩んでいますから。

 行き来の仕組みが分かってから、向こうの世界、わたくしの部屋には戻っていません。

 別に帰らなくてもいいなあと思いました。むしろ、帰ると思うことは、この特殊なPCを作っていただいた誰かに失礼に当たるのでは? わたくしの全く知らない、謎の奇麗な建物に行ける特別なノートPC。それは行くためにあるのでありまして、帰るべきではないと思うのです。

 向こうからは、わたくしは消えているのでしょうか。それとも眠ったような状態で机の前に居るのでしょうか。建物には時計がありません。アトリウムから見る空はいつもやわらかな明るさです。定期で生音のメロディが響くことから、時計は探せばあるのかもしれませんが、向こうより時間の観念は重要でないと感じます。こちらと向こうの時間はリンクしていないかもしれません。往復の訓練のときに何度か戻った時には、時間のずれは生じていませんでしたが、しばらくこちらに居ることでどう影響するかは、全くわかりません。

 ま、いいかと思いました。向こうに戻ったら戻った時です。

 建物をぶらついたり、じいっと座っているだけで飽きません。カラダがあるのに、疲れないし、眠くもなりません。「疲れてはいないけど、眠ってみたいかな」と思うと、簡単に寝れました。ラウンジのような空間もあるので、そこで寝たりできます。 

 わたくしはまだ1Fの限られた部分しか探索していません。人々を眺めるだけで、退屈しませんでした。建物の至る所に置かれた、いろいろな形のベンチから、人々を眺めます。

 活力を湛えて歩いて行く人達。お年寄りや幼児でも、若者と同じ落ち着きと平穏をみなぎらせていました。皆が愉快そうに見えました。といっても、毒きのこを食べたように全員笑っているというわけではありません。無表情の人も、怒っているように見える人でさえも、カラダの周囲には静かな満足が漂っているのでした。

 人々は無関心に歩いて行きますが、目的や行き場所がはっきりしているゆえに、あえて無関心というコミュニケーションを使っているとも思えました。干渉し合わずとも犯罪や迷惑行為に出る者は居ないと解り切っているようでもあります。満足した無関心。その空気感は、トーキョーのスクランブル交差点で見られるような殺伐さとは、真逆なものでした。

 と、建物の空気に浸るのもそこそこに、探索も続けていきましょう。

 この建物は何なのか。

 人々は何をしに来ているのでしょう。

 建物の入口で待ち、外から入って来た二十歳くらいの女性に訊ねてみたところ、彼女は足を止めてくれました。

 背が高く、吹雪を思わせる長い青髪をした女性。全体としてはストレートながらも、空中に躍った瞬間の猫のように動きのある髪です。漆黒のジャケットをパンツを着こなし、首には黒い羽根飾りのチョーカーを提げています。向こうではモデルの世界にしか居ないような格好の美人さんです。

「ふうん。そんなことを訊くってことは、あなたは新入りさんね」

 彼女は入口を出て、そこから景色を見渡しました。

 わたくしは彼女の隣に立ちます。

 道路が見えます。歩いている人々がたくさん居ます。ビルや家があります。あるいは塔のような建築が。整いすぎず、猥雑になりすぎず。カオスを織り込んだ調和――。知っているどの町とも違う景観でした。

「そうね、言ってみればここは、学校のような所よ。正しくは、道路の向こうを含めて、ここから見えるところは全部、その関連」

 わたくしは無言で頷きました。なるほど、学校――その可能性は感じていました。驚きではありません。

 ですが広さには驚きです。ここから見える眺め全部! 引き込もりのわたくしには広すぎてわけがわかりません。

「で、このビルは、学校本体っていうよりは、学生が日常を謳歌する所って感じかな」

 彼女は建物をクイッと親指で示しました。

「だけど、このビルも、あたしらの『学校』も、現世の言葉で正確に概念を表す語はないかなー。そーだな、一番近い説明は、『サークルと研究室を合わせた感じの所』かな、うん」

 彼女は自分の喩えに満足したように頷きました。大きな吊り目ながら、笑顔が人懐っこいお姉さんでした。

 大学のサークルと研究室を合わせたような所。ニュアンスは伝わりました。わたくしは引き込もりの初期時代、ネットで世の中の知識を浅く得ていました。熱気があって自由、そんなイメージが浮かびました。

「サークルっても、あなたじゃ分からないか? 若そうだけど高校生なのかな?」

「たぶん中学三年生です。引き込もりなので学校のことは詳しくないのですが」

「あ、ああ、そーなの……。って、中学生? マジなの?」 

「今日まで十四歳という日に、こちらに送られて来まして」

「ふーん。にしても、あんた……でっけえな。何したらそんなに、超特大はんぺんの三枚重ねみたいな胸になるんだろ? あたし、中学生の時、こんなにあったかなぁ……?」

 お姉さんは見慣れない果物を物色するような目で、わたくしの胸を見てます。何か恥ずかしいです。たしかにわたくしは胸は小さくないと思います。同年代では大きいほうでしょう。ですが胸の大きさは引き込もりには何の役にも立ちません。ほんとです。それに、かく言うお姉さんの胸は、あたしより二回り以上も大きいのです。

「わたくしは、この建物のこと、よく知りたいのですが」

 お姉さんはまじまじと胸を見ていた顔を上げ、言いました。

「なら、新参ちゃんが行くのはまず……。って、『この建物ここ』? 学校本体じゃないの?」

「わたくしは引き込もりで外には出たくないので」

「あ、そう。変な奴……」

 引きつった笑いを浮かべるお姉さん。変、でしょうか? わたくしは当たり前の気持ちを言っただけですけど……。

「ここから出たくないってことかな?」

「ここに居たい感じです」

「ふうむ。まあ、ここでは変な奴が当たり前みたいなところがあるからなー。そうだ、じゃあ、ちょっとおいでよ」

 お姉さんはわたくしの手をひいて歩き始めました。カラダを動かすかどうか、が不得手な引き込もりには、積極的に誘導してくれる人は助かります。お姉さんのヒールの音。氷のような青髪。芸能人かコスプレイヤーのような奇抜な佇まいから、説得力を感じます。強烈な実在感を。

 いつか来たことのあるエレベーターホールに来ました。お姉さんはエレベーターを呼んで乗りました。何もない壁をなぞると数字が現れます。お姉さんは「8」を押しました。

「このぐらい昇ればいいか」

 扉があいて、8Fに着いたようです。

 テーブルと椅子が置かれた休憩スペースがありました。テーブルには吸殻やパンフレットが置かれてあり、くずかごからには紙くずがあふれています。食べ物のあまい香りと、インクや消しクズのような文房具のにおいが残っていました。

「この建物は、いってみれば、『余暇を過ごす学生が集まる所』でね。面識がある奴どうしもいれば、無言と無縁を通す奴もいる。大きな宿舎みたいな所だよ」

 お姉さんがここにわたくしをつれてきたのはどうしてか、わかりました。


 きれいな景色が窓から見えました。

 夕日が地上のぜんぶを薄い灰色に変えています。


「すてきなところですね」

 大きなスケールを感じます。

 この建物にも、この外にあるという学校にも。そのスケールは中学校よりも全然魅力的だと思いました。

「『学校』の範囲の外には『都会』みたいなトコもあるよ。あたしたちが[機構実験エリア]と呼んでいる所だね。[カグラザカ]とか[シンジュク]だとか、エリアネームが付いた所もある。学校とは直接関係のない場所が『都会』だよ。たとえば、あの森の向こうが[シンジュク]だよ。規模や設備の進み具合、どこをとっても実際のシンジュクとは次元が違う。時代劇のセットと実際の江戸の町ぐらいに違うね」

 わたくしは夕景に目を凝らします。灰色の景色の終わりには、空とせめぎあう人造的なビル群の影が見えます。大規模なすさまじい街のようです。わたくしの中には、自然、ひとつの疑問が頭をもたげます。それは小さな疑問でしたが……。

「ここは別の世界なのよ」

 まさにお姉さんは、わたくしの疑問に、答えてくれました。

「ここは現実とはねじれた位相にある、別の世界。けれど確かな一つの世界ではあるのよ。あなたが今までの世界で『現実感』を感じたように、この世界の空気についても、特有の『世界感』を覚えていると思うの。それがこの世界の存在のしるしとも言えるもの。ふたつの世界は、【存在の帯域の違い】と言ってね、どちらの世界も独自の特徴を持っているの。もともと世界には両方の世界ともあること。それどころかもっとたくさんの世界もあること。普通の人間が現実世界だけを認識する仕組みや、ちょっとした弾みに上や下の【帯域】に踏み出すケースなど、説明は準備ができているけれど、オリエンテーションがてらに聴いてみたいと思う?」

「……いえ、いいです」

 わたくしは答えました。

 お姉さんは嫌そうな顔はしませんでした。それは当然だと思います。わたくしの顔を見れば、説明は要さないことが一瞬でわかったはずです。

 この「世界」を(建物しか知りませんが、あえてそう言ってみましょうか)わたくしは気に入っていたのです。もとの世界よりも、世界全体が遥かに「進んでいる」印象を受けるのです。なにより空気の澄み加減が半端ではありません。わたくしの地元にはX山という2000メートル近い山がありますが、その山頂の空気を二十倍にも、三十倍にも澄ませた風味の空気です。空気が蓄える光量の多さ。音の響きのみずみずしさ。景色を鮮やかに見せる透明度。つつましく見せる透過率。それらを完全なバランスで備えた完成度。このような空気を現実世界で一度でも肺に吸ったことがあったでしょうか? わたくしは酔っているのかもしれません。お酒の味は知りませんが、今の感覚はきっと、しらふというものではないでしょう。

 ですが、わたくしは、元の世界で酔っていなかったと言える保証も、どこにもなかったのですが。というのは、引き込もりの時間が長い人生でしたので、普通のひとびとの世界をあまり知りません。脳が特殊な構成になってしまっている可能性はあります。

 そんなわたくしなので、この世界の存在証明を求めませんでした。

 こちらの世界の、特有の「感じ」ですか。お姉さん言うところの現実世界しか、今まで知らなかったので、難しいですね。ですがあえて言葉にするなら、「自室感」ですね。

 いつまでも引き込もっていたい。最高に「じぶんの部屋の空気」です。

 この建物。

 すでにこの場所に不足を感じていない事実。

 まさに引き込もって生きるためにある建物に思えます。

 大きな合宿所だと言いましたっけ。一部屋あればあたしには充分です。部屋は借りられるのでしょうか。何とか借りたいです。元の世界と違って、この建物では、カラダを動かすのも悪くない感触です。どんな人がいるのか。どんな非日常的な場所があるのか。どんな食事やお茶を味わえるのでしょうか。わたくしは小さい頃に読んだSF小説で、庭園や食堂や運動スペースが内蔵された閉鎖的な宇宙船に非常に憧れたものです。ここはそのような場所になってくれるのでしょうか? ゆっくり、あれこれと、巡ってみるのがワクワクでなりません。

 お姉さんは、呆れ半分・不思議半分の顔で、「いい顔ねえ」と言いました。

 つい、と何かが触れる感じがし、遅れて衣ずれの音が聞こえました。

 お姉さんは、わたくしにキスをしていました。

 わたくしは突然のことに、弾かれるように戸惑い、窓を背負う姿勢でカラダが退がってしまいました。

「――、な……何をするんですか?」

 口元に腕を持っていきます。顔が熱く痛いような感じ。わたくしはそもそも男女のコミュニケーション以前に、人間のコミュニケーションが技能0です。刺激が強すぎました。

「何って……こういう、雰囲気が無いわけでもない所に来て、きれいでかわいい子と二人で居るのに、キスするのって当たり前じゃないかな?」

 お姉さんはこともなげに言います。たぶんわたくしの顔色とは全然違います。お菓子をちょっとつまんだふうな、よくある楽しげな顔をしていました。当たり前……でしょうか? そんなわけないはずです。

「でも驚かせちゃったなら悪かったわ。謝るしもうしない。それでいいよね? 本当はあたしにキスさせたあなたが悪いんだけど」

 わたくしは、唖然とするしかありませんでした。

 同姓にキスして平然としている女の人。

「信じられない……」

 わたくしは聞かれないように、こっそりと、呟きました。



 降りるエレベーターを呼ぶ前に、お姉さんは方針をくれました。

「この建物を詳しく知りたいなら、まずインフォメーションカウンターに行くといいよ。1Fのどっかにある。そこで問い合わせる事項ってのがあると思うから、特別にメモしてあげよう。ただし全部は信頼しちゃだめだよ。ザルかもしれないからね」

 お姉さんは洒落た青いカバンからルーズリーフを出し、白いつやつやの壁にくっつけ、ペンを走らせました。年上の人の何気ない仕草、かっこいいなと思います。ついでに、行き場をなくした巨乳が壁に押し付けられているのも、ポイント高いです。

 お姉さんは手早く書き終えると、紙をくれました。

「あたしは氷上ひかみシアン。分からないことがあったらE館の526号を尋ねてくるといいよ。袖振り合うも他生の縁って、黄門さまがよく言って他人様の家に泊まり込んでるけどね」

「あ、夕方の再放送ですね」

「そっ。本放送が月曜の夜で。うちのジイさんが好きだったなー。そういや、あなたの名前は?」

「あっ……すみません。わたくしは引込ひきこみあまねと申します」

「ふわぁ! いい名前。よろしくねアマネたん」

 あたしはぺこりと礼をしました。氷上さんは握手をしてきました。わたくしに伝わる温度はとても熱くて、氷上さんのパワーを示すかのようでした。まるで火のようなイメージの方です。氷のつく苗字とは正反対ですね。

「最後に一つアドバイスをしておくよ。そいつは、何でここに来たかを考えることよ。つまり、ここに何をしに来たのかな、ってことを。それを考えられるのはあなた自身よ。ほかの人はそれを決めることはできない――あなたの『神の個性』ってものをね」

「え?」

 聞き慣れない言葉がありました。神……? 神って……何でしょうか?

 エレベーターが来ました。「→E」という表示。1Fに降りるのではなく、氷上さんの部屋の方面に行くようでした。ドアが開くと氷上さんは乗り込みました。 

「アマネたん。ここでは今まで無かった事がたくさん起きる。でもねー、それが普通だから。慣れる前に折れちゃだめだよ。あたしたちは、神なんだから。じゃねー」

 ニッコリ笑った氷上さんをドアが隠しました。わたくしは残されました。しかし手にはメモがありました。取り急ぎ、1Fに行こうと思いました。わたくしはこの建物にますます興味が湧いていました。

 そういえば『水戸黄門』は月曜日に放送してましたかね……? 

 わたくしの記憶では、見たことないですけどねー。

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