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441号室  8

 その時、テーブルの上に置いておいた端末の画面が薄ピンク色に光りました。これも蛍石のような優しい光なのです。

 端末を見ると、注文の品物が戸棚に届いた通知でした。

 この世界の物体移動の法則はまだ慣れていないですが、瞬間移動でしょうか。それは考えにくいと思います。瞬間移動がポピュラーなら、たとえば部屋に扉がある意味もありません。鍵をかけても入られてしまいます。瞬間移動は、可能としても、気軽に見られる技術ではないでしょう。とすれば、設計図通りに原子を変換エンコードし、空気から品物を作り出す技術でもあるのでしょうか? 代金はエンコード料というわけです。デコードすれば空気に戻せるので、物が増えて部屋が溢れることもないでしょう。

 ともかく、こちらでの新奇な出来事を、一つ一つ味わい、経験を脳の奥に届かせていきたいところです。服の衣ずれの感触・空気のすがすがしさ・コーヒーメーカーからカップに落ちる緑茶の滴り。じぶんが認めた感覚は、疑えないですから。

 わたくしは戸棚の前にしゃがみ込み、引き戸を開けました。頼んでいた品物が全部と、ヒューロさんに預けた部屋着が、整然と並んでいました。子供がこういう現象を目にしたら、「サンタクロース」という幻想をこしらえたくもなるでしょうね。

 わたくしが頼んだ物は、マグカップが大小一つずつ。豆乳。チョコレート。オリーブオイル。プレーンのクラッカー。チェダーチーズ。それと、サキちゃんを倣って、小さな冷蔵庫。――やはり、部屋では「お茶」を飲んで、リラックスしたいと思いまして。そういえば、マグカップをふたつ頼んだのはえどうしてでしょうかね~。あぁ、思い出しました。なんとなく「一つじゃ寂しいかな」と思ったのでした。壊れた時のスペアにもなりますし……それに二つあったら、サキちゃんと飲めますね~。

 サキちゃんが肩越しに覗き込みます。

「今度はわたくしが、お茶を出す番でしたね」

 わたくしは豆乳やオリーブオイルを持ち、さっそく準備をします。

「……お茶サークルを名乗っていながら、茶葉がないのはなぜ?」

 サキちゃんは眼鏡のブリッジを持ち上げます。たしかに棚には日本茶も紅茶もなく、茶器類もありません。大丈夫です。つまり「お茶」というのはリラックスしている時に飲むものの総称であって、リラックスしたときに口にするのであれば、何でもいいはずです。特製のドリンクをごちそういたしましょう。

 端末からの操作で、キッチンを用意・・・・・・・します。テーブルが収納され、アイランドキッチンが現れました。コンロの五徳、水道の蛇口、シンクの内部、鍋や包丁は全て白色で統一。デザイン性もあります。端末には、キッチンの「構成図面スキン」が沢山インストールされており、家庭寄り、飲食店寄り、製麺所のようなパフォーマー寄りなど、さまざまに構成可能のようです。

 ちなみに「スキン」では、キッチンだけでなく、部屋全般の設定も変えられます。オリジナルの「スキン」も作れます。たとえばサキちゃんの部屋は、自前で模様替えした部屋かもしれませんし、「スキン」の一つかもしれません。

 わたくしは水道の水にカルキの味がしないのを確認すると、コップに豆乳と水を注ぎました。豆乳は青くささを弱めるため、原液では使いません。濃度は40%がほどよいです。豆乳を薄めたものをコップになみなみと作り、鍋に入れて中火で一煮立ちさせたら、コップに戻します。猫舌のサキちゃんのためにしばらく冷ましたら、5ミリほどオリーブオイルを注いで満杯にして……、特製ドリンク『HOT』――ホットオリーブ豆乳、の完成です。

 わたくしは「スキン」を元のテーブルに戻し、大きいほうのコップをサキちゃんにお出しします。

 別皿にビスケットを二~三枚と、チョコレートを二~三片載せ、そちらも一緒に出します。

「……これは、なに?」

「オリジナルドリンクの、『HOT』です。飲んでみてください」

「飲むと言っても、どうやって?」

 サキちゃんは怪訝な顔で見上げました。

「まず豆乳の部分を飲んでください」

 サキちゃんはコップに唇を付け、オイルの下の豆乳を啜ります。

「ん……豆乳の臭みがなくて、コクと香りがちょうどいい。こういう豆乳の飲み方もあるのね」

 そう、薄めると臭みが香りに変わり、温めると風味がはっきりと浮き出るのです。

 そんな事よりも、サキちゃんの唇の上に油の線が光っているのがかわいいなぁ。

「つぎは、チョコレートを齧って?」

 引き続き、ガイドします。

 サキちゃんは齧歯類のようにちょっぴりチョコレートを齧りました。

「すこしだけ、オイルを口内に含んで?」

 サキちゃんは音もなくオイルを含みました。

「そしたらすぐ、ビスケットを齧ってください」

 サキちゃんは小さい口にビスケットを運び、かり、と齧ります。

「……!」

 サキちゃんの息と動きが止まり、瞼が見開かれます。カラダが素直に反応していると分かる反応。いちばん嬉しい反応です。

「これは……。うまいね……! 脳髄でうまさが実体化しウマサバナが咲いた幻覚が見えるほどのうまさ。チョコ、オイル、ビスケット、単体では絶対到達できない味。みっつが融合し、しかもますます独立していく。お菓子は『一つの味』で表現しなくてもいいのだと、改めて知らせる快作。豆乳と混ぜて楽しむのもまたうまい」

 興奮醒めやらぬ静かな呟きで、講評してくれました。うまいと饒舌になるサキちゃん。ギャップが覗きます。

 サキちゃんがオリーブオイル込みで「お菓子」と評したのは、優れた感性だと思います。オリーブオイルの風味は、お茶とお菓子のいいとこどりしたような特徴があります。苦味と香り。コクと甘味とまろやかさ。これは万能調味料にも使える、優れた食品だと思います。

 サキちゃんは勢い込んでお菓子を食べながら『HOT』を飲み……。「ゲッ」と咳き込み、むせました。オリーブオイルの抗酸化物質オレオカンタールによるノドのヤケ。オリーブオイル処女が一度はくぐる試練です。子ども相応にむせるサキちゃんを見るのも、また微笑ましく。ふきんでテーブルをふいてあげました。

 わたくしも自分のコップを持ち、オイル層の下の熱い豆乳を飲みます。……うん。いつもどおり、すばらしいですね。濃厚な熱が胃に落ち、副交感神経が強力にカラダを支配。リラックスモードを深めます。唐突ですが、バジェットガエルって知っていますか? 座布団のような異様に愛らしいカタチのカエルさんです。お茶を飲むとバジェットさんの気分になることがあります。カラダが内側からのびーっと溶けますねー。

 『HOT』の飲み方は自由です。お菓子を楽しんだら、残りをふつうに飲んでもいいですし、水とオイルを注ぎ足しながらお菓子をおかわりしてもいいですね。また、塩と大さじ一杯の蜂蜜を入れ、スープのように「食べる」方法もあります。豆乳と塩とオイルの織り成す濃厚さから、お茶というより、ごはんの部類です。豆乳スープは栄養の宝庫です。要は『HOT』は飲む人の自由度が高い飲み物なのですね。基本形はこちらで作って出しますが、おいしさを最高に引き出すのは飲み手さんです。豆乳から、あるいはお菓子から、気分によって自由な順序で飲んでもらえばいいのです。瞬間の欲求にレスポンスしてくれる飲み物には、しているつもりです。

 お菓子や豆乳が減ったら、がらりと趣向を変えます。わたくしが用意するのは、チーズです。生乳と食塩からできている、普通のチーズで構いません。『HOT』の終盤にチーズを食べると、甘みからの塩味と旨味が、それまでと違った存在感を主張します。

「チョコレートからの豆乳。……からのチーズという流れ。まるで天上と地上の表現のよう。神と人間の醍醐味を、両方味わうような流れ。チョコレートの甘みを神に喩えれば、チーズの土くさい旨味は人間の醍醐味を表している。第一にチョコレートの甘さを引き立てる。第二にそれ自体も旨味を持っている。チーズという方向を加えたことにより、『HOT』は一段とスケールが大きくなった」

 とはサキちゃんの講評です。自分が好きなものを、サキちゃんも気に入ってくれて、ありがたかったです。しかしわたくしは、胸を張るのではなく、お礼を伝えるべきでしょうね。

 というのは、サキちゃんが「お茶をのみたい」と期待して部屋に来てくれていたとすれば、普通の飲み物さえ出せば、誉めてくれないわけがないのですよ。わたくしは『HOT』はそれなりに普通の水準に達している飲み物だと思います。だから、今回の「お茶ゲーム」では、わたくしは「負ける」はずはなかったのですよ……。これでサキちゃんの部屋での借りを返した形かもしれませんが、サキちゃんは自分でも気付かずに、わたくしにたくさん貸してくれているのですよ。

 ゆっくり、ゆっくり、時間が流れます。時間の存在に感謝です。こういうときの時間の流れは、とてもいい質感と量感がありますから。

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