部屋 1
ワタシには目標はありませんでした。目的もありませんでした。ネガティブな意味ではないのです。ひどくニュートラルな意味で、そうでした。
何も新しく得たりしなくていい。
新しく達成しなくていい。
ワタシは心からそう思います。
ワタシはただ――リラックスしていたいです。
いつからなのでしょう。引き込もりの妙味を、ワタシが知ったのは。
妙味……? いや、その程度のものではありません。
それは、ヒトの世界のあらゆる幸福を、要らないと感じさせてしまう味――。
人の世界から断絶させる味――。
――すなわち、「絶味」とでも言うに、ふさわしいでしょう。
あらゆる料理の味は、この味の手前で絶えるのでした。
いつから知っていたかは分かりません。
おそらくワタシは初めから、その味を知っていました。
「ワタシは《ここ》に来たかった」――そう思った場所に、気付けばワタシは、来ていました。
麦わらのような色の昏い照明は、ワタシに解きほぐしながら教えてくれました。
やさしく語りかけるように。――この世界の秘密を。
《ここ》には高山よりも澄み渡った空気がありました。空気は心地よく渇き、ありがたく湿っていました。
口に含むお茶は、どんな飲み物よりも喉をうるおし、心身の熱い箇所を冷やし、冷たい部分を暖めてくれました。
《この場所》に来ると、ワタシは知るのです。
人間などは、世界には居ないのだと。
ワタシも世界には居ないのだと。
「ここに初めから居る者」だけが、居るのである、と。
ならば、《ここ》に居るワタシは。
《ここ》に居て、リラックスという贅を尽くしているワタシは。
すでにワタシとは別物の何かでした。
それを、ワタシにリラッ「ク」スを合わせて、ワタ「ク」シと呼ぶことにしました。
カタカナだと尖った感じがあるので、ひらがなにして、わた「く」しです。
ああ。
あたりまえに空気がある。光がある。音がある。味がある。
「はじめからあるもの」の、幸福。
《ここ》に居るのは、わたくしです。
「在るものが、あたりまえに在る」味。
それを知ってしまったのです。
《この場所》には、「在るものが、あたりまえに在る」のです。
世界じゅうと、たしかに綿密につながっている空気が。
世界の始まりから、これからも最後まで、たとえ人の世が滅びても、鳴り止まないだろう音が。
薄ら寒いほど昏く、存分に角膜を焦がすほどに明るい、光が。
ゆえにわたくしは、理由も、価値も、必要も、ありませんでした。
部屋から出ることへの。
引き込もれる部屋があれば、いい……。