対 県立戸ヶ崎高校
仮入部初日から一晩が過ぎた翌る日。
「佐々岡ぁ……」
二年B組の後ろ側。周りでクラスメイト達が弁当を食べている中、川崎の疲れた声が聞こえた。
「いい加減に折れて欲しいのはこっちの方だよ」
佐々岡は特にそれに目を向けることもなく、箱に詰められたお米を口に運びながら呟いた。
「どこか別の部に入る予定があるなら流石にもう誘うの辞めるけど、そうじゃないならいいだろ?」
「何かを無理にやらなきゃいけないこともないと思うよ」
「そりゃそうだけどさ……。あぁもう、口でも勝てない」
揺らがない佐々岡の態度に負けた川崎は佐々岡の机に頭を擦り付けた。
「そこに頭置かないでよ。食べにくいから」
「あぁ、ごめん」
川崎は言われてすぐに顔を元の位置に戻した。
「……なんで野球をやらないのか教えてあげようか?」
佐々岡はもう一段の弁当箱を箸と一緒に机に置きながらボソッと言った。
「教えてよ!」
それに驚いた川崎は目を見開いて食いついた。
「肘、完治したわけじゃないんだ。だからまともに投げられない。それが理由」
佐々岡はまるで他人事のように、特に表情を変えることなく無機質な声色で言った。
「それじゃあ、治ってるっていうのは……」
「あんなの、どこの誰だかわからないような人が書いたことで、本当のことは本人にしかわからないもんだよ」
川崎は言葉が出なかった。ネットニュースとはいえ、不確定なものが飛び交うでネットワークの情報で相手を知ったつもりになって、自分の都合で無理やりに勧誘したことを後悔した。
「気にしなくていいよ。知らなかったんだし」
佐々岡は再び箸と弁当を手に持った。
「ごめん……」
そう呟くと、川崎は後ろ向きに座っていた席から自席へと戻ろうと、実に気まずそうに椅子から立とうとした。
「隆、ミーティングやるぞ」
「あぁ悪い、忘れてた」
そのタイミングで、教室の外から村中の呼び出しが掛かった。
ミーティングはどの部活も決まって多目的室という、二クラス分の広さを有する読んで字の如くな教室で行う。野球部も例外ではなく、二・三年生を併せた十人と、一人の女子と大人がいた。
「川崎連れてきました」
「すみません、遅れました」
そこに、ガラガラと音を立てる入り口を潜り川崎と村中が駆け込んできた。それに一度視線が集まるが、特に何か言われるわけでもなく、目だけが早く着席するように促していた。
それを見て、オレンジ色のシャツにジーパンのラフな格好の顧問が話を始めた。
「全員揃ったみたいだから始めるな。昨日佐藤と中田には話をしたけど、人数が問題だ。今朝入部届けが三枚来てたから三人は確定。これで少なくともあと五人欲しいわけだけど、入部未定が二人だけで数が足らないから勧誘はもうしばらく続けて欲しい」
顧問はすぐ横に用意していたホワイトボードに紙を磁石で留めた。
「で、次はこの前行ってきた春大の抽選で決まった対戦表が出来たから伝えとくな。と言っても前に言ってるから特に言うことはないけど、ウチはAブロックで試合は十八日の十二時半開始。というわけで、あと五日は十二時四十分から昼練するからそのつもりで。相手投手の加賀は荒れ玉がストライクゾーンの隅に行くからそれだけ手を出さないように気をつける。特別な打撃練習はしない代わりに、初戦ということもあるから守備の連携をきっちりやるぞ」
はいっ!
全員が声を揃え、部屋を揺らすような返事を返した。
*
四月十八日、日曜日。場所は山平高校から上り電車で三駅の所にある朝山市民球場。時刻は十一時四十二分を刻んでいた。
「佐野山が五-一で勝ったか。まぁ順当だな」
佐藤は対戦表の佐野山の字面から続くラインを赤線でなぞりながら呟いた。この日の第二試合に出るため、山平高校は球場の外で円を作って陣取りそこで待機していた。佐藤が佐野山の対戦校である桜ヶ丘に赤の抹消線を引いたところで、中田が脇から顔を出した。
「今日勝てば早くも佐野山戦か。去年の雪辱を晴らしてやろうや」
「それより今日の試合だろ。年度最初の試合になるんだがら気ぃ引き締めないと」
「サトケンってホント堅いよな。なぁ村中?」
「はい? あぁそうですよね」
対角線で川崎と雑談している村中に同意を求めると、村中は一瞬そちらを向いて相槌を打つと視線を元に戻した。
「ほらな?」
中田が勝ち誇った顔色を見せると、佐藤はため息を吐きながらB五の対戦表を四つ折りに畳んだ。
「山平高校さん。時間になりましたので入場お願いします」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
会場の人に呼ばれると、田中は頭に被った帽子を取りながら会釈した。
「ほらいつまでも座ってるやつ、試合出さないぞ。サトケン、ちゃんと連れてこいよ」
「はい!」
田中先生は佐藤の返事を聞くと、一足先にベンチへと向かった。
「じゃあそれぞれ荷物持って移動。守備練先だから早くしないと時間無くなるぞ!」
それに各々応え、クーラーボックスやらボールやバットが収納されたバックを抱えて立ち上がった。
「あ、そうだ。これ仕舞っておいて」
「わかりました」
佐藤は先ほどの対戦表を、マネージャーである石井に手渡して移動を始めた。
通用口を潜ると、昼間というのもあって照明が点けられていなかった。そのためこの一本道は薄暗く、先に見える陽の光が遠く見えていた。
視界が一瞬ホワイトアウトしたかと思えば、すぐにそれは解消され、一面に荒野が広がった。
「サトケン。挨拶あるから準備する前に来い」
「あ、はい!」
佐藤は少し慌ててカバンを置くと、既に準備万端の田中先生と共に荒野に出でてメンバー表交換に向かった。
それに気付いたスタンドの観戦者が指を差した。
「あっ、先生とキャプテンが出てきた」
そう呟いたのは、二度目の仮入部の時に参加していた、和田 圭人-一年生捕手右投げ右打ち-だ。
「ねぇ、このカメラどう使うの?」
「なぁ話聞いてる?」
そんな呟きはそっちのけで、カメラを開けたり閉めたり回したりする鎌田に、山里は戸惑いつつ声を掛けた。
「鎌田って機械音痴?」
「うっせーよ」
木原はこめかみを掻きながら指摘した。
「だから俺がやるって言ってるじゃないか。それよりもうすぐ始まるからスコアと録画の準備しておかないと」
「……分かったよ」
山里は鎌田を諭してハンディカムを受け取り、その横では和田がスコアブックを開いた。
「お待たせ致しました。第二試合、県立山平高校 対 県立戸ヶ崎高校のラインアップ、並びにアンパイアの紹介を致します」
対戦校の戸ヶ崎高校の守備練習が終わると、球場にアナウンスが流れた。
「先攻、県立山平高校。一番、センター、中田君。二番、セカンド、川崎君。三番、ライト、坂上君。四番、ファースト、林君。五番、サード、佐藤君。六番、レフト、田原君。七番、ショート、村中君。八番、キャッチャー、大石君。九番、ピッチャー、高田君」
アナウンスによって山平ナインの先発が一通り紹介された。続いて戸ヶ崎ナインも紹介され、主審の鈴木の名も球場に反響した。
守備練習が終わり、アンパイアの鈴木がホームに歩み寄る。それを確認すると、ベンチで待機していた選手達は一斉に飛び出していった。アンパイアの声は遠目では聞こえなかったが、整列が終わると手を右往左往させるそれらしい仕草をした。
ーーお願いします!!
途端にそんな挨拶が両列から響きた。
戸ヶ崎高校のナインが守備位置に付くと、空かさずアナウンスが入る。
「一回の表。山平高校の攻撃。一番、センター、中田君」
「お願いします」
それに合わせて、一度バットを素振りすると、ヘルメットの鍔を摘みながら、主審に挨拶をした。
「プレイ!」
その掛け声がスイッチとなり、けたたましいサイレンが鳴った。それをバックネット裏に座る四人は胸躍らせながら楽しんだ。
「ところで相手チームってどんなところなんだっけ?」
和田が隣へと聞く。
「戸ヶ崎は良くも悪くも二回戦レベルの普通の県立だよ」
と、山里が答えた。
ーーストライク!
やけにハッキリとした声が聞こえたかと思うと、戸ヶ崎高校の投手-加賀の第一球が捕手のミットに収まっていた。電光掲示板には、黄色のランプと百三十一キロの表示が現れる。
「見た目の方が速いね」
木原が呟いた。
二球目の外の高めのストレートを挟み、三球目が投じられる。
ーーキン!
明らかに詰まった音が響いた。弾かれたアウトローの百二十九キロのストレートは、セカンド方向へと転がっていく。それは僅か六秒の間にファーストへ送られ、赤のランプが一つ点灯した。
「二番、セカンド、川崎君」
凡退した中田が声を掛けられた川崎が、その中田と同じく右打席に入る。バットは拳半分短く持たれていた。
加賀は左足を持ち上げ、頭の斜め上からボールを放った。
ーーカーン!
気持ちの良い音が金属から鳴ると、真ん中に入ってきた真っ直ぐは三遊間を一直線に貫いた。綺麗なシングルヒットだ。
「川崎、ナイバッチー!」
「達也も続けよ。いつも通りセンター返しな」
「もちろん、そのつもりです」
佐藤に注文を付けられた坂上 達也は、二度素振りをしてから独り言のように返した。
「三番、ライト、坂上君」
名前をコールされると、一塁側ベンチから真っ直ぐ左打席に入った。握ったバットの先をセンター方向へと向け、二度手元でくるりと回し、しっくりきたところでギュッと止めた。それを見届けると、マウンドの加賀が一塁側に背を向けてセットポジションで構えた。そして、急ピッチで小さなテールバックを作り、気づけば身体は弓形を描いた。それは、主にランナーがいる時に使われるクイックモーションによるものだった。
「ストライーク!」
ビシッと決まった真っ直ぐだったが、小さなワインドアップから投げていた球と比べれば、このボールはそれに劣っていた。
坂上が一度足場を慣らし直す動作を挟み、再び視線を加賀に向けると、これに呼応するように始動した。
「変化球だ」
木原がまた呟くのとほぼ同時に、その斜めに落ちてくる球を、坂上は見事にセンター方向へと打ち返していた。
「四番、ファースト、林君」
「次、林先輩だ。ホームラン打つかな?」
林のコールが掛かると、鎌田は期待の込もった声で言った。
「林先輩って、飛ばす力はあるもんな。飛ばす力は」
「ちゃんと当たればね」
山里と木原が各々そう答える。それもそのはずで、この一週間の打撃練習において、林はホームラン級のアーチを掛けることが多かった一方で、ほぼ全球フルスイングするバッティングからも察せることに、ミート力に欠けていた。
しかし、そんな心配は要らなかったようだった。
「左中間に物凄い引っ張ったな」
和田が目で追った打球は、ノーバウンドでレフトフェンスに直撃した。そのリバウンドをモタついたレフトの返球が遅れたこともあり、セカンドランナーの川崎は余裕の帰還を果たした。未だ、一死、走者一、三塁のチャンスの場面が続く。
「五番、サード、佐藤君」
佐藤は何事もなかったかのように、きちっと挨拶を済ませてから右打席に入った。相手捕手の立花は、初回の失点というのもあって、堪らず加賀の元へと駆け寄って会話を交わした。
加賀は再びセットポジションを取り、投球モーションに入った。しかし、先ほどまでとは違い、クイックのペースを明らかに緩やかにしていた。
「林先輩の足が速くないのを見越して、球威を戻すための策か」
「ボール」
和田の言う通り、外に外れはしたが、加賀のストレートはキレを取り戻していた。
それを見た佐藤は、何やら思いついたというように一度打席を外し、バッティング用グローブを付け直していた。
まもなく投じられた佐藤に対する二球目は、外に逃げるボールだった。
「今のがスライダーってことは、さっきの林先輩の時がカーブか」
ストライクのコールの後、和田が呟いた。
三球目は外枠を掠めるカーブを見送り、これでワンボール、ツーストライクと追い込まれた。
「なぁ木原。次は多分インコースの真っ直ぐだよな」
「多分ね。インコースにスライダーを入れるような技術はなさそうだし」
和田と木原は捕手の構える位置を見て言った。
案の定、それは的中した。
四球目。立花の構えた位置はインコース。球種はストレート。しかし、実際に飛び込んできたのはど真ん中だった。佐藤は見事にそれを捉え、三点を加えた……