県立山平高校
ーーそして、春。
県立山平高校野球部の二年生。セカンドのレギュラー、二番打者の川崎 隆則は群衆の耳をつんざく声を挙げていた。
「野球、やりたい人ー! 是非一緒に汗を流しましょう!」
「スポ根マンガじゃあるまいし……」
同じく二年生で、ショートのレギュラー、七番打者の村中 大吾が横から打ち水を掛けた。
「なんだよ、大吾。文句言ってないで声出せよ。今年中にベンチに空き作らないようにしないと、先輩達が抜けたら秋大とかやばいんだぞ?」
「入る人は入るし、入らない人は入らないって。しかもそれって毎年の事じゃん」
「そうかもしんないけど、どこに入ろうか迷ってる人に声を掛けたら来てくれるかもしれないだろ?」
「それ、戦力になんの?」
「最初から上手い奴はいない。練習次第だ」
「はいはい……」
真剣な顔で言い切る川崎に呆れた様子で、村中は話を切り上げた。
県立山平高校は、新一年を含めた全校生徒数三百五十八人が通い、静かな自然に囲まれた場所に立地する。決して都会ではないこの地域において生徒数が一番多い学校だった。
先日行われた入学式から早四日。既に仮入部の予定人数が出揃う時期だったが、野球部を訪れたのは三人。現在所属する部員は十三人であり、ベンチ入り選手が二十人であることを考えるとまだまだ頭数が足りなかった。故に川崎達は焦っていた。
「おーい二遊間。誰か捕まったか?」
「ダメっす、中田先輩」
その二人の元へ歩いてきたのは、身長百六十八センチと野球選手にしては小柄な短髪の男子生徒は、三年のセンター、中田 荒野。
「そっか。まぁこの状況は伝統みたいなもんだけどな。片岡さんが言ってたけど、最初っから集まってたのは、ここ何年かではウチの代ぐらいだし」
「でも最低一人は投手はいましたよね、何故か」
「確かにな。そろそろチャイム鳴るから引き上げていいよ」
中田は元来た道を戻りながら言った。
「わかりました」
「お疲れ様です」
二人は離れていく中田の背中に軽く挨拶して済ませ、川崎はB組、村中はD組へとそれぞれ戻り、丁度始業のチャイムが鳴った。
その日の放課後。
「佐々岡、野球部入ってくれない?」
「……しつこいよ」
帰りの会が終わり、川崎のクラスの担任が教室から出ていくのを見計らい、まるで獲物を逃さないようにする獅子の如く川崎はある男子の席へと駆けた。
「そう言わないでさ、甲子園にも出てたんだし、やらないと勿体無いって」
「川崎君、俺に構わないでよ。野球はもう……」
席と教室の出口のルートに割って入り、何としても引き込もうとする川崎。しかし、佐々岡は自分の荷物を左肩に掛けると、そう言って静かに障害物を避けた。
「幾ら何でもしつこいと思う、川崎君」
「石井には関係ないだろ……」
「だって、佐々岡君て、怪我をして野球が出来なくなって……」
一種の哀愁を漂わせている川崎に石井 南が話し掛けた。すると、川崎は眉間に皺を寄せて返した。
「もしかして、俺ってそんなに馬鹿に見えてる?」
「えっ、えっと……」
石井は言葉を濁した。
「あのさ、大きい怪我をしたのは知ってる。それで本当に野球が出来ない状態だったら俺だって誘わないって。冬に観たニュースでも、リハビリをすれば回復する怪我だって言ってたし」
「そうだとしても、その後野球を再開するかどうかは、その、佐々岡君が決めることで川崎君が決めることじゃないよ」
知識をひけらかすように言葉を並べる川崎に不快感を覚えた石井は、川崎の眉間を突き刺すように見つめて言った。
「そうかもしれないけど、やっぱり戦力として欲しいんだよ……」
バツが悪くなった川崎は捨て台詞を吐くように言うと、机の横に置かれた荷物を乱暴に取って教室を出ていった。
山平高校の校庭は、約四十万平方メートルの土のグラウンド。大体縦横二百メートル程の大きさを誇る。その敷地の校舎から見て奥の右隅。胸にYAMAHIRAの英字を記した薄っすら砂が染み込んだ白地に青のラインが脈打つユニホームを来た十二人と、新品の体育着に身を包んだ三人がそこにいた。
「主将の佐藤 賢介です。ポジションはサードです。今回は最初の仮入部ということで、名前と、経験問わずに希望ポジションの方お願いします」
後ろで手を組み、休めの姿勢でハキハキと進行するのは、山平高校野球部の主将の佐藤。その佐藤の進行に従い、まずは向かって右手の側の小柄な生徒が声を出した。
「山里 幸一、左投げ左打ちです。希望ポジションは外野、特に中学ではレフトだったので、レフト希望です」
短くツンツンとした坊主頭は、まるで元気の塊と言わんばかりに大きな声で言った。
「鎌田 修介です。希望ポジションはサードですが、ライトと内野なら全部経験あります。あっ、えっと、右投げ右打ちです」
真ん中に立っていた二人目は少々細身ではあるが、太腿がガッチリとしているところから足腰を中心に身体の芯がしっかりとしていることが伺えた。
「木原 将弘、左投げ右打ち。中学の時から投手やってましたので、高校でもやっていきたいと思います。ちなみにサイドスローです」
「来た、投手! しかも左サイドか」
間髪入れずに中田が声を出し、指を差した。
「ジンクスじゃないけど、やっぱり一人は来ますね、投手」
そこに村中が加わる。
「ウチは人数が少ない分、運があるな。うんうん」
「何でもいいけど途中で止めるなよ、中田」
「あぁ悪い悪い。咄嗟のあれだよ、反射?」
注意した佐藤は一つため息をついて、顔の向きを一年生三人の方に戻した。
「皆んな経験者みたいだし、今日はキャッチボールの後、一年も一緒に守備と打撃練習を両方やろう。よし、まずはランニングと柔軟しようか」
ーーはい!
佐藤に言われ、一年三人が元気に返事をした。
簡単に脚の柔軟を済ませると、佐藤と中田を先頭に二列に並んだ野球部員達は、山平ー、ファイ、ト、ファイ、ト、ファイ、ト! というベターな掛け声を掛けながらベース周りを五周した。その間、似たような掛け声がサッカー部とテニス部、ラグビー部の方からそれぞれ聞こえてきていて、時々それが共鳴するとけたたましい音量になっていた。
「よし次、キャッチボール。木原君は高田と、山里君は中田、鎌田君は俺とやろうか。残りは各自ペアを組んで始めよう」
ランニングを終えて、上半身を含めた全身を柔らかくした後、佐藤は合図と共に胸の前で手を叩き、パシッと目を覚ますような音を鳴らした。
「おし、山里! こっちこい!」
「はっ、はい!」
中田は左手に嵌めたグローブでトンと肩を叩いて呼んだ。
「木原はこっちな」
「お願いします」
木原を呼んだのは、身長百七十七センチの左投げ三年生投手、高橋 龍也。同じく三年で、手首の柔軟をしている身長百八十二センチの右投げ投手、山坂 源太。その隣にはそれより十センチ程頭の低い右投げの二年生投手、羽柴 勇気が立っていた。
「じゃあ鎌田君、こっちもやろうか」
「お願いします」
そして、佐藤が鎌田を呼び寄せた。
山平高校野球部は、三年生七人、二年生五人の計十二人の集団で、毎年このぐらいの人数で細々とやっている。昨年の夏の予選では三回戦で敗退。甲子園まで六勝が必要な県のレベルで言えば、平均的な実力の部だった。
「次、守備練習! 投手陣は大石と本木に受けてもらって、山里と鎌田は空く所に交代で入ってな!」
そう佐藤に言われると、一年三人組は釣られるように各々返事をした。
「まずファースト!」
グラウンドに各自守備に就いたのを確認した佐藤は、自ら低くトスを上げ、それをバットの少し先で叩いた。
「ベース前!」
斜め後ろから川崎が声を出した。
「(ベース前っと)」
ファーストの守備に就く三年の林 和馬は一歩、二歩三歩とステップし一塁ベース前にグローブを差し出した。ボールのバウンドを伺いつつ、腰を落として白球を手に収め、一塁を踏んだ。
「今日は軽くだからな」
ブルペンでは、野球独特のマスクを被り、キャッチャーボックスに腰を下ろした大石 守がブルペンマウンドに立つ高橋に声を掛ける。
「わかってるよ。真っ直ぐな」
右手に黒のグローブを嵌めた高橋は足場を慣らしつつそう応えた。
身体の位置を決めると、顔の前にグローブを、軸足を左向きにズラしつつ右膝を腰の高さまで持ち上げ投球モーションに入る。束の間の静止を挟み、右脚と両手を弧を描くように始動させる。右手をホームを突き出し、踏み込む。その瞬間、左肘が顔のすぐ横を通過し、腕がしなるとと、白球は大石に向かって真っ直ぐな軌道を描いた。
まもなくして、パシッ、という皮が叩かれる音が響いた。
「今日もいい所来てるよ」
球威をしっかりと感じた大石は膝を突いて座ったまま返球した。
「山坂さん、こっちもやりましょう」
「よし、速いのいっちゃおうかな」
もう一人の捕手、二年の本木 晴矢が声を掛ける。山坂は笑顔で応えると、すぐにモーションに入った。左足を後ろに引き、茶色のグローブを頭の上まで持ち上げた。そのグローブと後ろに引いた脚を前に持ってきつつ胸の高さまで引きつけ、体重移動の開始と共に、ボールを握る右手を後ろに引いてテールバックを大きく取る。そこからは素早く、強く踏み出した足に勢いよく身体を預け、綺麗な弓なりを描いた上半身の向こうから腕を引っ張り押し出した。
まもなくして、バシッ、という鞭が撃たれたかのような音が響いた。
「相変わらず加減ないですね……」
本木はヒリッとした感覚に愚痴を零しながら山坂に返球した。
佐藤が計七十球のノックを終えたところで守備練習は終了した。
「次は打撃練習! 投手は高橋、捕手は大石、打席はいつも通りで!」
その指示に従い、ノックで使われたボールの回収が始まり、その間に一番打者の中田が右打席に入り、高橋もブルペンからフィールドに入った。
「高橋ー、今日もいい球頂戴ね!」
「わかったよ」
素振りをする中田に、高橋は手首と肘の柔軟をしながら返事をした。
一球目。キャッチャーボックスに座った大石はインコース気味にミットを構えた。高橋はそれを目視してからモーションに入る。そのスムーズな動きのまま、腕をしならせた。
「(おっ、今日もいい球……)」
次の瞬間、高い金属音が校庭に響いた。
中田はインコースに来た球をコンパクトに裁いてレフト方向へと引っ張り、それは三年生の左翼手、田原 隆文の前にバウンドした。
「おー、気持ちいいの行った」
「余所見するなよ、次来るぞ」
「おっしゃこい!」
その後、計十球を打った中田は、七安打に二本のフライ、一本のゴロだった。
「よし次、川崎!」
「はい!」
こうしてローテーションは進んでいき、一年も含めて全員の特打が終わった。投手陣も一通り投げたため、野手陣と同様に一入の汗をかいていた。
「おーいサトケン! もうすぐ五時になるから一年上がらせないと怒られるぞー」
「あぁもう時間か」
中田がセンターから大きな声を出して時間を知らせる。
「全員ホームに集合!」
それを受けて、佐藤はサードから全体に向かって声を掛けた。すると、如何にも練習終わりという、サックサック、という土をスパイクで踏む音が最初の位置に集まってきた。
「一年は仮入部期間の決まりで終わりなんだけど、この後俺と中田は田中先生とミーティングする。残りはダウンと整備して今日は解散です」
「あれ、今日ミーティングするんだっけ?」
「中田……」
「わかったよ、ため息つくなって」
佐藤は咳払いをした。
その時、学校のチャイムが校庭にも響いた。差し込む西日は、まだまだ明るかった……