第1話 怪奇事件の発端は
―― 平成××年夏 東京 武蔵野市 吉祥寺 ――
横断歩道を渡る人々で混みあう井の頭通り。
苛立ちながらエンジンを空吹かしして走り抜ける大型セダン。
信号待ちのSUVからは、外界との関わりを拒絶するかのようにズズンッとビートサウンドが響く。
点滅し始めた信号を見て鋭くホイッスルを吹き鳴らす警察官が、溢れ出る額の汗を手の甲で拭う。
夕闇に沈むビルの谷間には都会の喧騒が充満していた。
強烈な夏の日差しに炙られ、照りつけられた長い長い一日がようやく終わったのだ。
太陽から解放されるつかの間のひと時、夜の繁華街に繰り出した人々からホッとしたようなさざめきが溢れ出てくる。
ポツポツ灯りはじめたイルミネーション。いつも変わらぬネオンデザインに季節感はない。
ギンギンに冷えたビールで呼び込む店員の声。
肌を露出させミントにシトラスそれにココナッツの甘ったるい制汗剤の臭いをプンプンさせて、そぞろ歩く男女。
夜の街には真夏のムードが溢れている。ここには夜光虫のほの蒼い燐光の魅力がある。
しかし・・・その蠱惑的な輝きに目を奪われていると、いつの間にか深い波間に引きずり込まれてしまうこともある。
それに気がついてゾッと背筋を恐ろしさが這い上がるのも夜のネオン街の常だ。
盛り場には異界への入口が潜んでいるのかもしれない。
さて、ここは電飾輝く吉祥寺の繁華街のど真ん中にある寺の境内。
若い女が三人、暗がりの中を覗き込んでいた。
「この辺にしよう。ここならいいよ」
「でも、ここって墓地じゃないの・・・」
「ほんとだあ」
ひとりは短めのボブヘアをクールに片耳にかけた気の強そうな女。二人目は何にでも物怖じして他人にベッタリ頼りそうな長めのカーリーヘアの女。三人目は茶髪だが前髪を揃えたストレートヘアで、いかにも少女趣味で今を大切に生きてます、と言ったタイプの女だ。
「なんだか気味悪う~」
「キャッ! 今あそこで何か動いたんじゃない?」
カワユぶっているつもりだろうが、優柔不断でどこか恨みがましい感じがするのは気のせいだろうか。
そういえば3人とも化粧の仕方や髪の色、服の選択が似通っている。“ベッタリ女”“少女趣味女”がリーダー格のボブヘアー女の真似をしているせいだろう。
「なにもいないわよ! マユミもレイコもほんと臆病なんだから」
「大丈夫よね?」
「すぐそこサンロードなんだし、幽霊にしたって出にくいはずだもんね?」
「・・・それにしても、どうしてこんな街中に墓地があるんだろ」
日中も相当な人だかりになるサンロードだが、まだ大勢の人が行き交う時間だ。
とはいえ駅から遠い端の方まで来るとさすがに通行人も疎らになる。そこから横道に入ったあたりになれば照明も薄暗く人影も途切れる。そこは繁華街の中にポツンとあるお寺の墓地。
この街に棲息する若者は気取って“ジョージタウン”などと呼ぶが、ワシントンDCやペナン島のジョージタウンとは違って、街そのものは江戸時代から続く寺の所有地の上にある。だから、べつに墓地が後になってできた訳ではない。
「なんかの占い本で読んだんだけど、墓地のある繁華街っていっぱい人が集まるものなんだって。霊の通り道には人を吸い寄せる力があるらしいよ」
「そうなの?」
「それ聞いたことあるぅ! たとえばさ、中央線の三寺がそうなんだよね?」
新宿・立川間の中央線沿線には高円寺・吉祥寺・国分寺の寺の付く三駅があり、駅前が繁盛しているのだ。ちなみにこの内、駅名の寺があるのは高円寺と国分寺で、吉祥寺という寺はない。
それはともかく、大阪ミナミの千日前もそうだし、京都の新京極も墓地のあるところに発展しているのは確かだ。
吉祥寺は毎年“住みたい街No.1”に選ばれるだけあって魅力的なロケーションだ。
閑静な住宅街に取り囲まれた500メートル四方の中にデパートやファッションビルそして雑貨店や飲食店がコンパクトに収まっている。
直ぐ近くには都内でも有数の規模をほこる井の頭公園があり、成蹊学園のあたりには樹齢100年を超えるケヤキ並木もあって緑が豊富で野鳥も飛び交う理想的な街並みとなっている。
新橋や新宿がサラリーマン、渋谷が若者たちの街とすると、会社帰りのOLたちにとっては一日の憂さを晴らすのに丁度いい繁華街なのかもしれない。
「ここに捨てて行くの?」
「まさか、こんなものをコンビニのゴミ箱に捨てていく訳にいかないでしょ?」
「罰当たんないかなあ・・・」
「な~に言っちゃってんのよ。いま怖いのは仏罰より刑罰でしょ?」
彼女たち、夏休みに行った海外旅行で持ち込んだ“怪しい粉”を捨てるつもりなのだ。
この夏、バカンスで遊びに行ったのはカリブ海のとある島国。そこの裏通りで「効くよ」と言われノリで買ったのだが、今になって怖くなったのだ。
彼女たちにとってはハーブパウダーみたいな認識であったから、墓地に捨てたことにそれほど悪気はなかったといえる。
「あの時のビーチボーイ。ニヤニヤしちゃって『これ、効くよ』っていうからさ。ぜったい幻覚作用のある何かだと思ったんだけど、やっぱり使うの怖いしね」
「あの時だって、わたしやめようっていったのに・・・わたし怖いから」
「わたしも嫌だからね。アケミが捨ててよ」
「しかたないなぁ。ほら、貸してごらん」
そう言うと、パール光沢に塗った上に派手なコラージュを施した長い爪でビニールを引き裂き、顔をしかめながら草むらに灰のような黒っぽい粉をばら撒いた。
彼女たちが単なる草むらと思ったのは無理もない。朽ち果てた墓石を覆い隠すように夏草が生い茂っていたのだから。暦の上では秋を迎えているとはいえ、残暑で雑草も盛大に繁茂している時期だった。
「さ、これでよし。でも、袋は捨てた証拠になるからここに置いていくわけにはいかないか」
「うちの団地に使われていない焼却炉があるけど・・・」
「じゃあ、途中までいっしょの方角だからマユミを家まで送っていくついでにそこで処分しようよ。レイコも行く?」
「うん、いいよ。ふたりにだけ面倒させとけないもの」
「じゃあ3人いっしょね。それよりわたし、蚊にいっぱい刺されちゃったよぉ。ほらここ! ここもここも!」
「あ、わたしもだ!」
「仕方ないでしょ。ここはやぶ蚊だらけなんだもん。それにしてもひどくムシムシしてきたわね」
蒸し暑い夜ではあったが異常に湿度が上がっていた。夜空を見上げると低く厚い雲が垂れこみはじめている。
そのとき雲間が薄明るく光った。
「なんだか雷雨になりそう」
「サンロードまで急ごう、走るよ!」
「うん」
彼女たちが墓場から逃げるように立ち去った後、すぐに夜空に雷鳴が轟くと車軸を流すような豪雨となった。
ばら撒かれた暗黒色の粉は水に溶け出し流されて近くの墓の組石の隙間から地面へと浸み込んでいく。
≪ポッ≫
一瞬、燐光が輝いて辺りをボウッと照らし出した。光は古びた墓石の隙間から漏れ出たものだった。
都市近郊の寺では少子化、核家族化の波に洗われ親族縁者がいなくなって久しい無縁墓が増えているのだが、その苔むして刻まれた文字も判読できない古い墓もそのひとつだった。