突き付けるたった1つのだけの要求
単車のライトで散乱したガラス片が星々のように輝きを放ち、それを踏みにじるようにロビーに男が脚を降ろす。時雨が見守る前で、波崎和馬は靴底で不快な音を立てて少年と対峙する。落ち着いた様子で波崎は懐からタバコを取り出すと、一息紫煙を吸い吐いて少年に言葉を投げる。
「確かに、ガデティウスに交渉相手に指定された僕をここまで送らせたのは正解だね。最新型の人造意思であり、さらには航羽雷音の手が加わって探偵御用達仕様になっている彼女なら、尾行や追跡の探知なんて簡単だろう。それに・・・」
「ああ、〔もしアンタと凛名だけで話したいと言った俺の要求に何かを仕組んでいたら、アンタを連れてきたガティが俺達の逃走手段になる〕。だが・・・」
「ソレガ時雨ノ考エデ、アナタハソレヲ知ッテイタ。テドウシテコノ条件ヲ承諾シタノデショウネ?」
時雨の返答とそこから生まれる当然の疑問を、少年の相棒である単車の人造意思が問う。少年の眼が細まり、波崎の思考を全神経をもって警戒する。
だが、
「裏切り手負いの〔英雄探偵〕が僕をご指名なんだ。無粋な輩に立ち入って欲しくはない。ということでは、ダメなのかな?」
「・・・アンタのそういうとこが大嫌いだよ、〔灰色の男〕」
クツクツと笑う波崎を、時雨の苛立った蒼い瞳が睨む。事態の重さ、状況の緊迫を無視する波崎の飄然たる態度と余裕が、切羽詰まった時雨の神経を逆撫でする。モスグリーンの医療衣を纏う少年の左脚が無意識に1歩を踏み出し、握った拳が震えるのを抑えられない。
だから、
「時雨さん」
「なん、だよ・・・?」
時雨は傍らに立った少女、Yシャツと英星高校指定スカートをはいた凛名に右手の服の袖を掴まれて、驚いたように目を見開いて振り向いた。そして気づいた。少女の手が恐れに震えていること。しかし、勇気と意志を持った紫の眼差しが、まっすぐにこちらを見ていることに。彼女の言わんとしていることに。
時雨は1度大きく息を吸って、吐き、片頬を吊り上げた皮肉げな笑みで言った。
「ありがとな」
「あ、ぅ、ぃぇ、私は、その・・・」
挙動不審に目を泳がせて言葉を濁し、わずか頬を上気させた少女が、この瞬間の時雨には、不本意だったがとても愛しく感じられた。
つまり、
「ほ~ぅ。どうやらこの短い時間で、随分と心を任せられる娘だったみたいだね?朧くんは?」
凛名は波崎和馬の持つ空気感やペースに呑まれかけていた時雨を、名前を呼ぶ、ただそれだけのことで平常心に戻してくれたのだ。
ただでさえこの対峙は、自分を1人前の探偵に育ててくれた波崎を裏切ったという厳然たる事実があることで、時雨の精神的な劣位性は否めない。さらにはつい先ほど、〔灰色の男〕なる異名をとったヨロズ最高の探偵にしてやられたばかりなのだ。波崎が認めたとはいえまだまだ未熟な時雨にとって、そもそも冷静を保つことのほうが難しかったのだ。
だからこそ、
「つるんだ時間の長い短いは問題じゃない。要は薄いか濃いか、浅いか深いか、だろ?」
時雨は、右手の袖を掴んだ凛名の左手を、しっかりと握る。少し汗ばんだ、少女の手。1人ではないのだと教えてくれる確かな感触を、注がれる眼差しに振り返ることはせず、しかしギュッと握りしめる。
光景に、
「あららぁ、そんなに関係が進んでいたとは、結構人嫌いの毛がある君には珍しいことだね?」
どこか威圧的だった空気を緩めた波崎は、ヘラリといつも時雨が事務所で見ていた微笑でそう言い、
「好き嫌いが激しいだけだ。合う奴とは合うし、嫌いなもんは死ぬまで多分嫌いだ」
もう惑わされない、それを示すように怜悧さを取り戻した少年の蒼い瞳が、男の灰色の瞳と笑いあう。
そして、
「・・・」
「・・・」
時雨と波崎は、師弟として最後の時間を沈黙で終える。
ガデティウスのライトだけが光源である薄暗い廃病院のロビーに、静寂が降りる。
次の瞬間には、互いはついに敵であると、2人は知っていたのだ。
だからこそ、時雨と波崎は無音の余韻に浸る。
そして、
「・・・波崎さん」
「はい」
「俺の要求は、1つだ」
時雨は、
「どんな要求でしょうか?」
「・・・アンタに、今この場で凛名を渡す。だから・・・」
凛名の手を握った少年は、
「俺だけは、見逃してくれ」
波崎の灰色の瞳を見開かせる、驚くべき選択を提示する。