薄汚れた天使の慟哭
「う・・・」
「時雨さん、しっかり・・・」
凛名は、時雨と共に出て来た夜の都市外へと続く下水管から汚水に塗れて這い出ながら、蒼い眼を茫洋とさせた少年を支えながらそう言った。幾らこれが警察や〔AVADON〕の敷くだろう包囲網を掻い潜る抜け道であり、時雨が軽トラを運転する間に応急処置を済ませたとはいえ、凛名の前にいるのは満身創痍の男だった。
その足取りは人が通れるほど太い下水管が吐きだす汚水に塗れて重く、その意思は遥か遠方に置き去りにしてきた友人の安否を想ってさらに少年の脚を鈍らせる。
そして、
「時雨さん、お願い、行かな、きゃ・・・」
「ああ、大丈夫だ。そう、喚くな」
少年を支える凛名、全ての元凶たる少女は、必死に嗚咽を堪えてそう言うしかなかった。こんな事態を招いた自分の涙など、身体を濡らす異様な臭気を放つ水よりも汚いものだと嫌悪する。
なぜなら、
「こんな、なるなら、私・・・」
凛名は、自分の生い立ちを知っていた。
事態の重さを、知っていたはずだった。
だというのに、
「私・・・何も、望むべきじゃなかった」
少女は、時雨と出会って、思い出してしまっていたのだ。
たった1つ、叶わぬ想いを。
世界を揺るがす力を持ち、殺戮者である自分が、2度と決して手に入れられないものを。
自分の業を自覚し、時雨の下から去ってしまえば、それを再び思うことなどなかったもの。
それを、
「ああ、あああああ!」
凛名は、ただ慟哭する。
やり場のない自分への怒り。
命を絶つことすら出来なくなった自分への憤り。
多くの死を呼ぶ災厄たる自分を憎む。
だから、
「ハッ」
「時雨、さん?」
下水管から排出された汚水の沼を歩きながら、笑った時雨に凛名は問う。出血のせいで青白くなった肌、その口端を濡らす赤い色を歪めて、時雨は呟く。
「俺とお前は、共犯だろ?」
「そん、な・・・」
「俺とお前は、最低だろ?」
「・・・」
「両親を救いたいから、暴走したお前。両親を見つけたいから、妄執する俺。俺達のレベルは、どれだけ違う?周りに迷惑しかかけない俺達が、いいか?どれほど大きく違う?どんな理由があっても、俺達は、普通に考えれば、止まらなきゃならない人間なんだ」
それが時雨の慰めだと、こんな状況においてまで自分を気遣う優しさだと、凛名は理解する。
だから、
「もう、いいから・・・」
「ダメ、だ。いい、か?凛、名?」
「もう、いいから、時雨さん!?」
「聞け、って?だけどな?俺達は・・・」
「・・・時雨、さん?時雨さん!?」
凛名の腕の中で、急激に時雨が重さを増す。ついに気を失った少年に焦り、少女はそれでも不安定ながらも再度展開した両翼の〔反射〕を使い、必死に少年を瓦礫の山に囲まれた薄暗い沼の岸へと引きずる。冷たい時雨の身体を岸に上げ、自らも四つん這いになって荒い息をつく。すぐさま時雨の顔を両手で持ち上げ、しかし何も出来ない自分に気づく。
ザッ、ザッ、ザッ。
凛名は、周囲を取り巻いた人の群れが作る足音に、顔を上げる。
そして、
「お願い!誰か!時雨さんを助けて!お願ぃ、だからぁああああ!」
背後に灰色の都市外殻を置き、泥と汚物に薄汚れた銀色の翼持つ天使は、夜に現れた黒い影の群れに懇願の悲鳴を上げる。