主義
時雨は、問う。
「この宝石は、今からお前のモノだ。お前は、この輝きを独占出来る。独り占めだ。わかるな?じゃあ、お前はどうする?お前はどうしたいんだ?ここには宝石は1つしかない。お前だけは幸せになれる。お前のじいちゃんは、この宝石で幸せにはなれない。これはお前のだからだ。わかるだろ?」
「うん」
「そして宝石は、2つにはならない。2つになった時、それは価値を失うからだ。そのウサギのぬいぐるみが、2つにならないのと一緒だ。だから、お前は考えろ。この宝石は、〔本当に今の自分に必要なのか〕と。〔自分だけを幸せにする価値〕は、〔今の自分に必要なのか〕と。考えるんだ。お前は、どうしたいんだ?」
「アタシは・・・」
ウサギのぬいぐるみを抱いた幼女が、傍らの初老の男を見上げる。
そして、
「ジージも、嬉しいが良い」
「そうか。じゃあ、〔今のお前にそれは必要ない〕。もっと〔必要としている人間がいるはずだ〕。お前はソイツに、それを渡せ。ただしタダじゃないぜ?それを必要としている人間から、〔お前とジージが幸せになれる何かを貰え〕。必ず貰うんだ。そして覚えとけ・・・」
時雨は、初めて屈託なく笑って言った。
「それが優しさだ」
「優しさ?」
「ああ。当たり前のことで、ここにいるみんなが知っていて、大人になったらほとんど誰もちゃんと出来ないこと。恥ずかしくなって、自分のほうが大事になって、素直にそうは在れない」
「そう、なの?」
「ああ。そんで、これも覚えておいてくれ。お前の優しさは、きっとここにいるみんなを幸せにする」
時雨の言葉は、背後に立つ、利己的な少女の胸に刺さる。
時雨の言葉は、薄汚れた浮浪者達、略奪者でもある人々の群れに刺さる。
「ここにいる連中は、多くの瞬間、そうしなくなった。それを利用する側になったんだ。そう、俺もな」
時雨の言葉は、時雨自身にも刺さる。しかしその痛みは、自分の選んだ生き方を思い出すための大切な作業。目的のためなら手段を選ばない、自分本位、弱者淘汰の道。
それは、
「でも、おにーちゃんは・・・」
「俺が連中の命を助けたのは遺恨を残さないためだ。お前に宝石を渡したのはここのリーダーとは懇意にしたいからだ。そしてこんな風に説教してるのも、それもやっぱり俺のためだよ。俺のためなんだ」
時雨はたった今自分が行った選択、襲撃者と黒幕の命を救ったことを、自分の善意だと考えようとはしない。〔自分にそんな善意は存在しない、必要ないんだ〕と子供に口に出して示すことで、改めて自分を決める。言い聞かせるように、時雨は自分を決める。そうしなければ、次に喰われるのは自分だとわかっていた。たった今覗き見た他人の思考は、時雨に甘えや優しさ、人の善意を信じることを許さないほど、荒れ果てていた。
しかし、
「だけど、だけどな。俺には出来ないことがお前には出来るんだと、恥ずかしいことじゃないんだってことを、知って欲しい。俺は、お前にはそうして欲しい。俺は、幼馴染に言わせると超級の自分勝手らしいから、お前にはそう在って欲しいと思うんだ」
少なくとも、そう願うことだけは許される。まだ純粋な、自分と似た過去を持つ少女に、時雨は絞り出すようにそう告げる。
そして、
「うん!約束する!アタシ、そうするから、おにーちゃんに!」
「ああ、約束、か・・・」
時雨は、痛みを伴った笑みで、幼女から離れる。彼女の持つ宝石の輝きは、ほんの僅かの間、ここにいる浮浪者の腹を満たす、糧に代わるだろう。それが出来ない、他者を省みる余裕もない時雨には、この場に居続けることは苦痛しか生まない。
だから、
「悪いな、俺は、〔約束は絶対にしない主義〕なんだよ」
時雨は苦笑して手を振った。
単車に跨り、携帯端末をヘルメットに繋ぎ、被る。
振り返りもせず、蒼い影がスラムを去る。