〔天地闊法〕・〔禁掌〕
時雨は、喧騒に包まれた警察署内を不機嫌な足取りで進む。
交通課の前で怒鳴る3人の若者の側を通り、刑事らしき男の前で泣き崩れる老夫妻の横を過ぎる。市役所とそう変わらぬ構造、白い受付テーブルとその先に居並ぶ署員の執務机を横目に、1階部分の奥、刑事課へと向かう。
その背後では、
「わ、わ!私、警察署に入るの、初めてですっ!なんでしょう、この、何も悪いことをしてないのに、やましい背徳感で緊張する感じはっ!?」
「フフフ、凛ちゃんはまだまだね?いい?こういうのは慣れよ?こう、胸を張って、完全犯罪者なドヤ顔をしてればいいの」
「す、すごいですっ!やっぱり時雨さんの彼女さんだけあって、目が荒んでます桜夜さんっ!」
「そ、そう?フフフ、なんだか嬉しいのと傷ついたので、魂が半分にちぎれかけだよ?」
大きな胸を張る桜夜と、先の緊張が嘘のようにはしゃぐ凛名がいた。幼稚園児の社会見学の引率教員の気分に、時雨はげんなりと溜息。しかし、〔敢えて凛名を連れ出す〕という奇策を成功させ、少しでも波崎の捜索を掻い潜るためにも、ここは我慢するしかない。
それに、
『この作戦、結果的にだが、〔桜夜が波崎さんの眼を曇らせる決め手になる〕』
時雨は、そう内心でそう確認して、署内に設置された監視カメラの位置を確かめる。いつ波崎に疑いの目をかけられても大丈夫なように、あくまで仕事に首を突っ込む友人に辟易した時雨を、全力で演じる。
もう1つ確認するため、首だけで振り返り、凛名と桜夜に言う。
「いいか、お前ら?間違えるなよ?俺の従妹は、〔天出雲凛子〕、だからな?」
「はいはい。どっちにしても凛ちゃんじゃん?探してる人がいるかもしれないからって、用心深すぎ」
「あ、はい。大丈夫です。わわわ、アレなんですか?桜夜さん?」
「・・・」
時雨は2人の浮き足だった様子に不安を覚えながらも、大丈夫だと自分に言い聞かせて、もう1つ、勘違いを解くために言っておく。
「おい、凛子?」
「え、あ、はい?」
「あのな、お前俺が左手の薬指に指環してるからって、勘違いしてるようだが・・・」
しかし、
「う、ろぉあああああああああああああああああ!」
「あ、危ない!みなさん、下がって!」
時雨の言葉を遮って、怒号が上がる。
神経を張り巡らせていた時雨は、奥に続く廊下、そこに並ぶ取り調べ室の1つから飛び出して来た男に、すぐに対応出来た。事情聴取に当たっていたらしい警官の制止を振り切り、ジャラジャラとアクセサリを身に着けた色黒男が、ダボつくサイズのTシャツ袖やズボンの裾を揺らして走りこんでくる。
そして、その背後、
「このド馬鹿が!さっさと取り押さえろ!」
酒とタバコに焼けたハスキーボイスで、事態に対応して会議室から飛び出して来た人影が叫ぶ。それが目的の人物だと気づき、時雨は一旦凛名への話を中断。突進してくる男や一変した署内の空気を無視して、目的の刑事に右手を挙げてみせる。
そして、
「お~い、熊切さん!」
「え?ああ、時雨?」
こちらに気づいたスーツ姿に、少年は1つだけ問う。
「いいよな?」
一瞬、時雨の言葉に声をかけられた刑事は、右の額から鼻筋、左頬の半ばまでに至る醜い刀傷が目立つ顔を呆然とさせる。だが、次の瞬間には、刑事は苦く笑っていた。
だから、
「〔天地〕、〔闊法〕」
迫る脅威、道を開けない少年に対して右手を振りかぶった男に、右半身をひいたスタンスで対応。〔どうやらこの事態に緊張で固まった背後の2人〕を守るように、両腕を開く。
当然、
「どおおけええええええ!」
男、どうやら感染者だったチンピラが、振りかぶった右手の爪を硬質な5本の刃に変えて叫ぶ。浄化反応の起こした現象と男の右手に集束した〔界子〕が、時雨の髪を前方へと靡かせる。
だが、
「〔禁掌〕」
時雨は左手を上に、右手を下に構えてただその瞬間に備える。男が、右手を形成を終えた鋼爪を振り下ろす。時雨の左手が男の凶爪に伸びる。掴むと同時、肘と膝のクッションを使って、感染者特有の剛力を相殺。踵がギシリと音を立てて後ずさりするが、絶対に少女達に届く範囲には入れない。
そして、
「腐れ喰らえ!〔男死悶絶玉棒堕突〕」
獣の牙のように指を畳んだ時雨の右手が、男の股間に強烈な打突となって喰い込んだ。奇妙な声を上げて瞬時に動きを停止した男に、しかし時雨の右手は容赦しない。ガシリとそれを握った右手が、まるでドアノブを捻る気安さでそれを回転。モギュリという異音と共に、男の顔が真っ青になる。今朝方それと同じような事態で苦しんだ時雨の顔にはしかし、ストレス発散に伴う喜悦の笑み。周囲の男性陣が凍りつく中、鬼の一撃に男がバタリと倒れる。背後の凛名と桜夜は戸惑うばかりだが、これだけは説明しても意味がない。
そして、
「うちの署員の不手際とは言え、それ、絶対個人的な八つ当たり入ってるでしょ?」
「許可を出したのは、そっちだろ?」
時雨の前に、目的の刑事のストッキングに包まれた黒い細脚が映る。時雨が顔を上げると、黒のスーツと白いYシャツの上には、呆れの成分が多い微笑があった。
だから、
「そうそう、凛子?」
「へは、はい?」
時雨は振り返って、先程の続きを言う。
「桜夜は俺の彼女じゃないからな?つうか俺、彼女いねぇから。左手の薬指に指環してんのは、そのほうが仕事で色々面倒少ないからだからな?」
「君の切り替えの早さは、私並だね。そして乙女心の読めなさは、ウジ虫並みだ」
急に顔中が不機嫌になった桜夜と呆然とした凛名に気づかず再度振り返った時雨を、30代の美貌を醜い刀傷でよって精悍にした亜麻色の髪の女刑事、熊切の赤茶色の眼差しが苦笑と共に迎える。