誰がお母さんだ!
「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ」
ヨロヨロと気絶したパーカーの側から離れた時雨は、路地の反対側にある家屋の壁に背中からもたれた。震える右手がブレザーのポケットを探り、黒い指環を取り出す。
その間にも、
『どうしよう連中やられた!どうしよう逃げられないよアイツやばいよ!』
という、近くで震える宮部マリアの思考。
『右に回れ。お前は左だ。道を塞ぐようにな』
という、周囲を囲みつつある浮浪者の思考。
そして、
『さあ、今日の夕飯は〔ラバの肉屋〕のクラネズミ肉が入ったシチューよ』
『アハハ、私とヤッたらそれアンタも別の意味で〔感染者〕だから!』
『とりあえずこの野郎の死体、〔ラバの肉屋〕なら扱ってくれっからよ、血ぃ抜いて削いどけよ』
『薬クスリくすり薬クスリくすり』
『あ~気持ちいい~。だからやめらんね~。スラム民も俺らの道具としてなら生きていいよ~』
『やめて!違う!警察を!私は!』
『警察だってよ。こんなとこ来るわけねぇ~じゃん。おい、俺らも混ぜてもらおうぜ』
時雨の中に、際限なく思考が流れ込む。吐き気がこみ上げ、気色の悪い脂汗が頬を滴る。必死に左手を持ち上げ、右手が摘まんだ黒い指輪に近づける。
しかし、
「あ・・・!」
震える右手の指が、指輪を取り落す。転がる漆黒の環を追いかけて、時雨の右手が伸びる。その間にも、どんどんと流れ込む思考が増える。時雨の能力の効果範囲が、加速度的に拡がっている。
「ぐう、ああああ・・・!」
割れそうになる頭を両手で押さえ、時雨は歯を食いしばる。指環は、どんどんと離れていく。
そして、
「大丈夫デスカ、時雨?」
ドルルン、というエンジン音と共に、時雨の右手から零れた指環を止める影。それは黒くて丸い輪郭を持つ、分厚いゴムの膜、タイヤだった。そこから伸びる銀色の金属に繋がるのは、蒼黒いボディに重厚な追加装甲、単眼式ライトに巡航機動形態の大型バイク。どこからか現れ、勝手にスタンドを降ろして停車したそれは、女の合成音声を再び放つ。
「早ク、時雨」
「わかってるよ、静かにしてくれ、だから、ガティ」
時雨は指環を受け止めてくれた大型バイク、モトハマ社製・CE606型・可変自動二輪・ガデティウスにそう応えて、這うようにして指環を右手に掴む。不快感に震える右手を叱咤して、左手の薬指にそれを嵌める。際限なく流れ込んでいた他者の思考が収束し、時雨の荒い呼吸とガデティウスのエンジン音だけが空気を揺らす。
ガデティウスの向けてきた沈黙に、息を整えた時雨が言葉を投げる。
「仕方なかった。死にかけたんだよ」
「イツモト寸分違ワヌ言イ訳、聞キ飽キマシタ」
「お前のその返しだって、いつも同じだろ?」
「記憶検索。完了。ソノヨウデス。過去102回ニノボルコノヤリトリハ、私ヲ含メ、毎度同ジデス」
「その無駄な言い訳回数計測とやりとりの記憶を消去してみろよ。新鮮な気分になれるぞ?」
「善処シマス。デスガ、アエテ言イマス、時雨。イイ加減ニシテ下サイ」
「わかってるよ・・・」
時雨はガデティウスの向けてくるライトの光に、不貞腐れたように顔を背けてそう言った。
しかし、ピピピピピ、という携帯端末の着信音、手にしたそれに表示された通話相手の名前が、時雨の表情を一層苦々しくさせる。顔を上げて、時雨は問う。
「お前なあ、毎回毎回、俺が力を使ったくらいでチクんなよ。それに、なんでよりにもよって1番面倒なヤツに・・・」
「私ト桜夜様ノ、女ノ約束デス」
「クソ、お前まで俺と同じ主義じゃなくてもいいだろが・・・」
時雨はうっそりと立ち上がり、携帯端末を耳にあて、通話を解放。ピチャピチャという水音が時雨の耳に響き、少年は周囲を見渡しながら話し出す。彼の言葉は、
「おう、桜夜。こんな、もう21時半過ぎだぞ?夜中に何のよ・・・」
そこで途切れ、
「うるさい今どこ!?何してんの!?また喧嘩したんだって!?馬鹿じゃないの!?死ねばいいのに!ホンット信じらんない!何そのしらばっくれかた!?バレてないと思ってんの!?そんなのベッドの下にエロ本隠して隠し通せてると思ってる中学生並にセキュリティ甘いからっ!お母さん舐めんな!誰がお母さんだ!?私か!?」
という、少女のやや混乱気味の怒声罵倒に流される。対し、時雨は、
「プー、プー、プー、プー」
という、通話が切れたことを示す電子音声を、〔周囲を囲む浮浪者を見渡しながら口に出した〕。ギラついた目、金品を奪い奪われる十数人の略奪者達の睨みの中心で、時雨の蒼い視線はスイスイと流れて何かを探す。
その間に、
「あれ?何?え?ちょっと、あれ?切れた?え?嘘、アイツ・・・!」
などと、時雨の通話相手たる少女は狼狽え、
「い、いやああああああ!?」
時雨の近くで、浮浪者に気づいた少女、宮部マリアが叫び、
「何これやっぱこれ繋がってるじゃん!まさかこれ声真似!?おいコラ今聞こえた悲鳴誰!?」
と、通話相手は時雨の小細工に気づく。
そして、
「おお~!ノンさ~ん!」
「ちょっ!?ノンさんって誰よ!?アンタホントいい加減に・・・!」
「いやああああああああああああああああああああ!」
「うるさい!うるさいわこの悲鳴ホント誰!?」
それら全てを無視して、時雨は浮浪者の群れの奥、ボロを纏った初老の男に手を振った。