諦めないために諦める人
「・・・何を言ってるか、わからない」
時雨は、少しの沈黙の後に凛名にそう言う。たった今凛名を人並み以下に扱おうとした時雨に、少女の言葉はあまりにも不可解だった。
しかし、
「時雨さんは、桜夜さんやガティさん、白虎さんや雷音さんの言った通りの人です」
時雨背中から額を離した凛名が、クスリと小さく笑ってそう言う。
「・・・連中から何を聞いた?」
「色々です。捻くれてて、素直じゃなくて、でも、本当は誰よりも優しい人。過去を過去のままにしようとせず、自分の手で真実を知るまで諦めようとしない。大切なことを諦めないために、多くのことを諦められる。探偵になって、時間も青春も削って、でも最後の最後まで踏ん張れる人」
「・・・」
時雨は、ゆっくりと上半身だけ振り返った。そこには涙の筋を残す凛名が座し、カーテンから差し込む月光に銀の髪を煌めさせている。紫水晶の瞳に時雨を映して、慈しむような微笑を浮かべる少女がいる。
だから、
「それでも、俺はお前から無理やり情報を引き出そうとした。もし、昨晩お前の近くで、お前の心の中に住む〔何か〕から精神衝撃を受けていなければ、〔心を読む力〕を真っ先に使い、用済みのお前をすぐに捨てていた」
時雨は懺悔するように言葉を投げかけ、
「でも、最後の最後で、時雨さんはやめてくれた」
「それ、は・・・」
割り込んだ笑み混じりの凛名の声に二の句を継げなくなる。許しを請うことすら憚られる蛮行を、目の前の困ったような八の字眉の少女はすでに赦してくれているのだと時雨は知った。
だが、少女の訳知り顔な様子に、時雨の心に新たな不安材料が生まれる。左手の薬指、漆黒の色合いで、それはある。
しかし、それを口に出す前に、
「心配しなくても、その指環のことは誰にも言いません。おそらくは、それが〔世界で唯1つの、感染者の症状を止める物質〕だったとしても」
「お、前・・・わかって・・・」
「感染者は、明確に能力を発現しなくても、常に肉体から魂が漏れています。そして、漏れた魂は、空気中の〔界子〕と反応して浄化されています。それは知っていますか?」
凛名の質問に、時雨は戸惑いながらも応える。
「あ、ああ。だからこそ、感染者は身体能力と肉体強度が高い。能力として発現するレベルで魂を放出していなくても、身体の内部と周囲では浄化が起きている」
「そうです。そして、浄化とは、魂と〔界子〕が結合して、別の現象になります。例えば私の魂なら〔反射〕という現象を引き起こし、白虎さんは〔変心型〕ですから、肉体そのものが変化する現象が起きます」
「俺なら、〔心を読む〕という現象だ。だが、それは感染者が意識して魂を放出し、能力として行使するか、俺のように強制発現する場合の現象だ」
「ええ。ですが、普段意識せずに漏れる魂と〔界子〕も反応し、現象となっている。それはあらゆる感染者に一定の現象です。身体の表面で魂と反応した〔界子〕は鎧のように感染者を纏う。そして、筋肉の間では緩衝剤の役割を果たす現象へと変化します」
「だから、あらゆる感染者の身体能力と肉体強度は常人より遥かに高い」
「ええ。でも、代わりに寿命が短い。なぜなら、普通は肉体の内部で消費される魂という人間の核であり、エネルギーでもあるモノが、肉体の外でも消費されてしまうからです」
「そう、だ。そうだが、それが何の関係が?」
「私は、人より少し鋭い〔界子感知能力〕を持っています。時雨さんの言った、あらゆる感染者が基本として発現する、身体能力と肉体強度の上昇を起こすレベルの反応も感知出来ます」
時雨は、その一言で気づいた。自らの口で、論理の先を示す。
「だからお前は、俺と初めて会った昨晩から今朝に至って、疑問を持った。〔なぜ昨日は感染者だったのに、目の前にいる天出雲時雨は非感染者のごとく、身体の周りで浄化が起きていないのか〕と」
「はい。その後、雷音さんから時雨さんの症状が、強制発現する〔心を読む症状〕だと言われて気づきました。その指環だとは思わなかったけど、時雨さんが今チラッと見たから、それかなって」
クスリと困った八の字眉で笑った凛名に、時雨はカマをかけられていた事実を示されて唖然とする。
しかし、
「なぜ、黙っていてくれる?奪おうとは、しない?お前も感染者なら、非感染者のように、〔普通〕の人生や長い寿命に憧れたことくらいあるだろ?」
時雨の疑問は、どうしても拭えない。信じて騙されたことが、探偵としての3年で幾度あったかわからないからだ。
だが、
「私には、それはどっちみち〔使えない〕んです。それに、私は時雨さんを困らせるつもりはありません。その指環が症状抑制物質だと誰かに喋って、世界中の黒社会の人間や研究者、強盗に狙われる状況を作ったりしません」
「どうして、そこまで・・・」
「私は時雨さんに、本当に、本当に、心から感謝しているからです」
「感、謝・・・?」
凛名は、ハッキリとそう言った。人見知りなのか、終始泳ぎがちだった瞳が、まっすぐと時雨のそれを見ている。何に感謝されているのかもわからず、何をしてやった覚えもない時雨だったが、凛名の言葉が真摯な意志に拠っていることだけはわかる。
さらには、
「私・・・時雨さんに協力したいと思っています」
唐突に放たれた凛名の宣言に、時雨は虚を突かれて目を見開くことしか出来ない。