待てぬよ
小さな雑居ビルの谷間にある波崎探偵事務所の通りに面した窓から、火炎の舌と爆轟の咆哮が上がったのと同時、そこから飛び出す黒い影があった。黒い影は長く大きな袖に炎を纏いながら、抱えた2人の男、波崎と時雨を庇って路面に背中から激突。大きく路上を跳ねて、それでも爆発から守った探偵達が頭部を強打しないよう器用に保護する。
しかし、
「ぐ!」
ガツンという鈍い音が、時雨の左側で上がる。視線をやると、俯せの自分を抱えた黒い影、アスファルトの上で仰向けになった大和が頭を起こそうとしている。少女の顔には、苦悶。
だから、
「待て!う、動くな!」
頬を煤で汚した時雨は、大和の後頭部からアスファルトに向かって落ちる赤黒い血を見とめて、そう叫んだ。すぐに身を起こし、呆然から逃走に移った通行人を背景に、大和の頭を支える。時雨の反対側で身を起こした波崎も、呆然とその様子を見守る。
すると、
「・・・ぬ」
「は・・・?」
「・・・巻き、こんだ・・・すま、ぬ」
脳震盪でも起こしたのか、身体を小刻みに震わせる大和は、時雨にそう言った。少女の口から漏れた出た言の葉は、この爆発が、凛名を巡って大和達と敵対する人物なり組織なりによるものだと時雨に理解させる。
さらに、
「まさか、あの木箱が?あれ、あれは、時雨くん宛に今朝届いた、だからてっきり・・・」
時雨の向かい側で、波崎に震えを抑えた声。幾ら凄腕の探偵、対人のスペシャリストとはいえ、時雨や波崎が日々向き合っているのはテロリストではない。時雨の身体が震えだすのも、無理はないことだった。
そして、
「そ、そういえば、東さんは・・・!?」
なんとか事態に対応している時雨がそう言って顔を上げた時、2度目の爆発が探偵事務所を揺らす。吹き上がった赤黒の爆炎の衝撃波が20mは離れた時雨の夜色の髪を嬲り、掲げた左腕に熱波が押し寄せる。波崎探偵事務所が、燃えていた。
「嘘、だろ・・?」
東全獅の姿も確認出来ず、眼前の惨状から予想される最悪の結末に、時雨は呆然と呟く。視界いっぱいに広がる赤黒い炎とモクモクと生まれる噴煙が、青空を投影された第2層の底面へと立ち昇る。
さらには、
「時雨くん!」
「え・・・?」
時雨はまだ満足に身体を動かせない大和を右腕に抱えながら、波崎の叫びに視線を通りへと下ろす。燃え上がる事務所がもたらす圧倒的熱波が陽炎を作り、その中をこちらに進んでくる20数個の影を、時雨の蒼眼が捉える。幽鬼のごとく揺らめき、時雨達を挟むように進んでくる影達は、男や女、老人といった、性別も年齢も服装も雰囲気も様々な群衆。ただの野次馬ではないことは、こちらをまっすぐ見つめる濁った眼球、その手がおのおの構えたハンマーや護身用自動拳銃、脂ぎったナイフの狂気の光を見ればすぐに分かった。
そして次の瞬間、大和の口から出た言葉が時雨に彼らの正体を告げる。
「〔自然派〕、め」
「・・・〔自然派〕?」
時雨はにじり寄る影達から片時も目を離さず、その言葉の意味を記憶検索。終了。大和の言葉が確かならば、連中は感染者排除主義者。人間の生活圏や魂を守る〔界子〕を、能力で消費する感染者こそ世界の害悪であり、排除せねばならないと思想する非感染者達だと気づく。
つまり、
「この爆発で生き残った俺達を、始末するために?」
「そう、いう、ことだな」
時雨の問いに答えた大和が、苦しげな笑みを浮かべて身を起こそうとする。しかし、幾ら変質した魂の影響で感染者の耐久力が常人より高いとは言っても、白虎のように全身を〔界子〕で覆うような能力者でなければその限界は知れている。中枢神経が麻痺したまま無理やり立ち上がり、幽鬼と対峙する大和の動きは、生まれたての小鹿より非力だった。
だから、
「ま、待てよ!?」
時雨はそう叫んで立ち上がり、よろけた大和の肩を右腕で支える。
だが、
「待てぬよ。私には、帰る場所がある。私を信じて送り出してくれる者がいる」
「おま・・・!?」
「だから、私もそれに応えねばならぬだろう?そして、私にはそれが出来る力があるのだ」
「!」
時雨は、大和の微笑みに動きを止めてしまう。