大いなる勘違い
茫洋とした意識のまま時雨が目を開いた時、そこには瞳と同じ蒼い空、そして眼前に迫る黒い影があった。時雨のまだ曖昧な感覚は、自分の頭が横たわった身体が感じる芝生ではない、何か柔らかいものに乗っかっていること、鼻が黒い影の指先で摘ままれており、影のもう一方の手が顎を上向きにして支えていることをゆっくりと感じた。刻まれた幾つもの刀傷が痛むはずだったが、その感覚は薄い。
まるで夢の中にいるような、どこも漠然とした世界。
だから、
「・・・!?」
時雨は水滴を滴らせる黒い影、瞳を閉じた絶薙大和が自分の唇に彼女のそれを押し付けてきた瞬間、完全に覚醒した。肺の中に送り込まれた艶やかに黒髪を濡らす少女の熱を帯びた息吹が、少年の四肢に錯乱に近い混乱と沸騰した酸素を供給する。硬質な刃のような印象だった少女の手足が持つ、柔らかな感触が時雨を包んでいる。
そして、
「あ・・・」
唇を離した大和が、時雨の間近で黒曜石のごとく濡れた瞳を見開く。少女の白い肌から水滴が落ち、時雨の頬を流れ、膝枕をした少女の剥き出しの両脚に落ちる。
瞬間、
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「うごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
まず奇声を上げた大和が立ち上がりながら時雨の後頭部を蹴とばして疾走。すぐそばで轟音を上げていた、瀑布の落ちる湖に飛び込む。危険な打撃を頭部に受けた時雨は、それでも本能のまま湖畔の芝生に唇を押し付け、天出雲式・全自動芝刈り機と化して先刻の不本意な感触を大地を削って拭う。やっと冷静な思考が戻った時、振り返った時雨の視界には、湖底の泥をすくってウギギギィと唸りながら両腕の指先、絶薙流・手動で電動歯ブラシを使って歯と唇を洗うのだか汚すのだかしている大和がいた。
そして、視線に気づいて振り返った大和と、時雨は同時に叫んだ。
「「忘れるか死ねえええええええい!」」
春の花々とそれを囲んで居並ぶ樹木の間には、小鳥のさえずりさえ耐えた沈黙。いたたまれなくなって、時雨はそっぽを向いていた大和に現状の不自然を問い正す。
「ちょ、ちょっと、待てよ!なんでお前が俺を助けた!?」
だから、
「貴様、何を言っている?お遊びはお遊び。これからのことを考えれば、当然だろう?」
時雨は大和の怪訝な質問返しに戸惑う。同時に、時雨のスラックスのポケットと、大和のなかなかに貧相な胸元、黒いジャケットの内ポケットから振動音。お互いが取り出した携帯端末を示し、互いに頷き合って通話を解放する。
つまり、
「やあ!時雨くん?ホラ、僕、波崎和馬所長だよ?君の探偵と、そして人生の偉大なるお師匠さんだよ?今どこ?というか、生きてる?なんだか少し〔過激でせっかちな依頼者〕がそこにいないかな?え~っと、黒髪で、カミソリみたいにシャープな感じの女の子なんだけど?」
時雨は通話相手の中年男、〔灰色の男〕の異名をとるヨロズ随一の探偵の言葉で全てを理解し、
「おい大和!?お前何回電話したと思ってんだ!?相棒の俺に一言も無しに、どこ行きやがった!?つーかヨロズの都市警察から、なんかお前らしき人物の被害報告が出てるんだけど!?橋が切れて交通が寸断されたとか、30台近い車のルーフが凹んだとか!?どうなってんだ!?まさかお前ホントに、〔ここにいる波崎さんの弟子の探偵を迎えに行ったのか〕!?」
大和の携帯端末から響いた青年らしき男の声に、その理解と予測を確信する。
だから、
「そりゃあコイツが俺の名前を知ってるわけだ。だけど普通思うだろ、扉をぶった斬って現れたら、敵だって」
「ふむ。結果オーライだ全獅。探偵は無事確保した」
時雨は嘆息混じりに独りごち、ドッと肩に落ちた疲労を水滴と一緒に掃う。
まずは止血帯と着替え、凛名とガデティウスに無事を伝えるメールが1通必要だった。