英雄探偵と時間泥棒
その時、不愉快を全開で放出する少年、時雨の背中を見る者がいた。垂れ下がった栗色の巻き毛を身体の震えで揺らす、影は少女。口許にあてた右手には、緑色の瞳に潤んだ雫が今にも零れ落ちそうで、やや濃いめの化粧ですら月光の白によって少女を儚げに際立たせている。
「し、時雨さ・・・」
細い喉からさらにか細い声が少年の名を呼ぶ。少年が振り向く前に、少女の脚は私立聖ニコラス学園指定のピンクを基調としたセーラー服を揺らし、駆けている。
少女の様子を客観視すれば、彼女の心情はシンプルである。
暴漢に襲われているという、恐怖。
突然振るわれた暴力による、驚き。
連れの少年の身体を案じる、心配の念。
だからこそ、少女は時雨の下へと駆けた。
その背に飛び込み、少女は不安と混乱と怖れ、その全てをぶつける。
そういう流れの、少なくとも、それに近い展開が起きるはず。だった。
「え・・・?」
だからこそ、少女は時雨が振り返りざま、右回し蹴りを繰り出すと思っていなかった。右の頬で寸止めされた少年の革靴の踵が明らかに自分を狙っており、反射的に歩みを止めさせたのだと、すぐには理解出来なかった。蹴りの衝撃が生んだ風が収まる数秒。その間を置いて、やっと少女は放たれたそれから視線を剥がす。その場にペタンとへたりこみ、見上げて蒼い瞳に問う。
「何、こ、どうし・・・」
「・・・」
なぜか冷え切った時雨の眼は、何も言わなかった。しかし少女は、顔を前へと戻した彼が、〔少女に対して怒っていること〕を理解した。少女の思考は、まさかと思う。何が悪かったのか、何が彼を怒らせたのか。〔少なくとも、この状況で自分に落ち度はないはずだ〕と、判断する。
だから、少女の口は、矢継ぎ早に言葉を投げた。
少女はこの場において〔当然であるはずの怒り〕をぶつける。
「ちょっ、ちょっと!どういうつもりです!?わ、私はアナタの身を案じて!そ、それに!私は、宮部マリア!アナタが守るべき護衛対象、つまり依頼主ですよ!?その私に対して、今アナタは何をしました!?」
「あ~」
怒りの言葉に、時雨の背中は左手で後頭部を掻く。
「アナタ今、私を回し蹴ろうとしましたよね!?そこの牛男みたいに、バガズドンって、蹴りつけようとしましたね!?信じられない!探偵は信用が全てではないのですか!?こんな、野犬みたいな、依頼主に暴力を振るっておいて、これからこの街で仕事を続けられると思ってるんですか!?絶対許せない!お父様に言うわ!探偵としてやっていけなくしてやるから!」
「う~」
憤怒の言葉に、時雨の背中は溜息をつく。
その様子を反省ととった少女の口が、打って変わってしおらしく続ける。
「で、でもその、私も鬼じゃありませんから?今のはその、興奮していて、反射的にやったこと、なのではありませんか?」
「・・・」
時雨の沈黙を、少女は肯定と受け取る。だから、〔時雨の様子を見誤っていることに気づかず〕、続ける。
「そ、そうなのですね?で、でもですね?私もその私も傷ついたのですし、もし私の言うことを、これから先、いつ何時も無条件に聞き入れると言うのなら、許しても・・・」
少女がそこまで言った、瞬間、ついに、
「うるせえお前イライラするイライラおおイライラする!」
時雨が振り返ってそう怒鳴った。その顔は、白い歯を剥いて笑いながら怒るという、不細工の究極解放状態だ。ついでのように時雨の左脚は、気持ちを紛らわす貧乏揺すりのように牛男の顔面を何度も踏みつけ、その蒼い眼はハッキリと語っている。
やっぱりさっきので昏倒させておけばよかった。
逆ギレにしか見えない時雨の態度に、しかし気圧された少女の勢いが失速。代わりに時雨の舌が高速で回る。
それは、
「お前今〔私に落ち度はない〕とか〔うわコイツ思ってたのと違う〕とか〔ヤバイキレてる色んな意味で〕とかいやキレてるけど〔まさかとは思うけど見破られた?〕とか考えてんだろおおその通りだよ〔お前ら〕はそもそもなってない〔もし俺を騙すならもう少し気を張るべきだったんだよ〕死ね腐れイカレ共が!あああああああああああああああああああああああ・・・!」
傍から見れば、何を言っているのかわからない言葉。
しかし、少女の内心を慌てさせる言葉だった。
そして、一気に冷静になったらしい少年は次の瞬間にはサラリと露わにした。
「おい、ちょっとスッキリしたから、さっさと来い。ああ、もう演じなくていいぞ、〔この女に雇われたニセ暴漢共〕。だってこれからお前らは、俺をもうちょいスッキリさせる役にキャスティング変更だから」
少女と暴漢、彼らの関係を。
「な、なんで!?」
「コ、コイツ!?」
「・・・!?」
少女と暴漢は驚愕する。なぜそれがバレたのか、わからない。
時雨は簡単な1つの事実と、不愉快な1つの事前情報から、それに気づいていた。これからその種明かしをしてやるつもりだった。
だから、まず時雨は、もう1つ大事な事実を伝える。
「いいか?いいかお前ら?時間は大切だ」
「え、え・・・?」
背後で戸惑う声を無視し、時雨は続ける。
「そもそもだ、お前らはそれをわかっていない。ちゃんと考えろよ?例えばだが、100万人が観た2時間の映画があるとする」
「コ、コイツ!?」
「金レス、もう飽きたから黙れ。もう1度言う。100万人が観た、2時間の映画だ。この数字、観客数と時間を掛け算してみろ。本来時間は足し引きできないが、単なる数字として扱うんだ。そうすると、その1本の映画は合計で200万時間ってことになる。24時間が1日だから、83333日。365日で1年だから、228年分の時間を観客から奪ったことになるよな?それが〔価値ある時間〕、〔時間に見合う対価〕があるならば、その合計値、228年は無駄ではない。つまり、だ・・・」
ギリリと歯ぎしりし、少年は牙を剥く。
「宮部マリアの護衛、つまりお前らの〔計画〕が開始してから計算すると、お前らが消費した俺の2時間32分34秒。そして、お前らがこのまま逃げればこの時間の〔対価〕、踏み倒しってことだよな?だって俺、この時間無駄だったわけだし。だが、そうはならない」
つまり、
「俺に蹴られて俺のイライラが収まりゃ、少しは〔対価〕になるんだぜ!?おわかり!?腐れ時間泥棒共!?逃がさないぜ!?俺は探偵だからな!」
時雨の身体が、地を這う嚇怒の疾走となる。