男爵家が潰される!
「残念ですが、これでベルンハルト男爵家との関係も終わりですな」
ライナー商会の会長グスタフ・ライナーさんが告げた。
「そこを何とかできませんか? 商会との取り引きがないと、領地経営が立ち行かなくなってしまいます……。領民を救うと思ってお願いいたします」
頭を下げてお願いをするのは、私のお父様のベルンハルト男爵だ。低位貴族とはいえ、貴族が平民の商人に平身低頭するとは世知辛い世の中になったものだ。
「こちらも商売なので、譲れません。男爵が羊毛の増産さえ了承してくださればいいのですが……」
「そうは言いましても、生産を三倍にするなどどうやっても無理です。領民に無理を強いることはできませんし、羊の数も足りません」
お父様は善人だ。善人過ぎると言ったほうが正しい。自分以外の誰であろうと、無理をさせようとはしないだろう。それが家族であろうと領民だろうと使用人だろうと一緒だ。
「おたくの領の粗悪な羊毛で商売するには、安くして量を売るしかないんですよ、男爵。現実を受け入れてください。うちも善意で高値で仕入れさせてもらっていましたけれどね、さすがにもう商売にならないのです」
「領民は一生懸命、羊を育てて羊毛を刈っているんですが……」
お父様が領民を庇おうとする。
「一生懸命さと品質は関係ないんですよ。商売をなめてんのか!」
グスタフさんがついに怒鳴った。平民が貴族に怒鳴った。
こんな光景はなかなか目にするものではない。
「申し訳ございません」
お父様は頭を下げた。
「ともかく、生産量が増やせないのであれば、取り引きは終わりです。よろしくお願いしますよ」
そう言い捨てて、グスタフさんは席を立った。
グスタフさんたちが帰った後、お父様は、一家のメンバーを応接室に呼び、状況を説明した。
「大丈夫よ。そのうち何とかなるわ」
最初にお母様のマルグリット・ベルンハルト男爵夫人が口を開いた。
男爵家の窮地だと言うのに、穏やかに笑顔を浮かべていた。実務など一切わかっていないはずなのに、なぜか本当に大丈夫な気分にさせられ、気持ちが落ち着いてしまうのは、お母様の恐ろしい能力だ。
「面倒なことになったねえ」
どこか他人事のような口調なのは、私の弟のニコラス・ベルンハルトだ。男爵家の突然変異としか思えないほど学業は超優秀なのだが、人と競うことは好まない……というか世間そのものに興味がない。
社交界に顔を出すことなど一切なく、もっぱら男爵邸で書物を読んだり、絵を描いたり、楽器を奏でたりしている。
「ニコラス、本当に羊毛が売れなくなったら、男爵家は潰れて、今みたいな生活はしていられなくなるよ。あんたが継ぐ家もなくなるんですからね」
私は弟に警告する。
私はベルンハルト男爵家の長女、クラリッサ・ベルンハルトだ。
この一家に生まれてしまった以上、唯一のしっかり者として男爵家の切り盛りをしている。
と言いつつも、この領地は、善良で働き者の領民たちのおかげで、贅沢はできないものの、安定した生活で、揉め事も犯罪もほとんどなかった。
領民たちは、「領主様がお人好しだから、俺たちが面倒見なきゃ」と口々に言う。それは文句でもなく、お父様をバカにするのでもなく、ただ愛情に溢れた言葉だった。
お父様は税を取ることすら嫌がるので、領民たちが心配になって自分たちで納めにくるほどだった。もちろん払わない人がいても、取り立てるようなことはしない。そういう領民たちも、食べ物など、何かをくれたりするのだけれど。
「歴史上、こんな貴族の領地はない」とニコラスは言う。
領民たちも、家族の私たちも、皆、お父様のことが大好きだった。
だからこそ、私は何とかしなければと思っていた。
「それにしても、なぜ突然グスタフさんは増産だとか取り引き停止だとか言い出したのでしょうか。昨年までは男爵領の羊毛の質に文句を言うこともなかったのに……。お父様は何か心当たりがないのですか?」
私は、先ほどの話し合いで気になっていたことを口にした。
「いやあ、あまり羊毛の評判も聞いたことなかったからわからんなぁ。皆、一生懸命やってくれるから粗悪だなんて疑ったこともなかったよ。ははは」
お父様の反応を見て、私は大きくため息をついた。
グスタフさんではないが、一生懸命やったからといって、それが品質を保証するわけでも、市場で売れることを約束するわけではない。その点はグスタフさんが正しい。
怒鳴る必要はないと思うけれど。
私も男爵家の唯一の令嬢として、覚悟を決めないといけないかもしれない。
※
私は男爵家の経理簿を見てため息をついた。
この領地では、いくつかの農作物も採れたが、収入源の多くを羊毛が占めているのは明白だった。
羊毛を含めた作物のほとんどは、領内で消費されるものを除くと、男爵家から商会を通して販売される。商会から得た収入は男爵家が一括で受け取るのだが、お父様は手数料も取らず、全額、生産者に渡し、生産者はその売り上げから必要経費だけ取って、多くを男爵家に返すという、他の領地からすると意味不明なやり取りが発生している。急病人など、もしお金が入り用になった領民が出ると、男爵家が貸し出すのだが、領民がお金を返そうとすると、なぜかお父様は受け取りを断固拒否するので、実質お金を差し出しているようなものだ。
そして男爵家の収入の一部を上納金として決まった額を王家に納めているのだが、もし商会を通した販売ができないとなると、現金収入はゼロになってしまい、上納金が支払えなくなる。
上納金が払えなくなると、領地が取り上げられ、場合によっては降爵もありえる。低位貴族の男爵家からの降爵は、平民になる、ということだ。
何もできないお父様が、新しい領主のもとで平民になって生きていけるとは思えない。
一方で、お父様が言うように、領民は真面目に働いて今の生産をしているため、いきなり生産量を三倍にするなど現実的ではない。つまり、グスタフさんの要求に応えることはできない。
となると、現実的なのは、グスタフさんのライナー商会以外の販路を探すしかないのだが、長らく取り引きを続けてきたライナー商会以外の商会を、お父様は知らないと言う。知らないことはないと思うのだけれど、迷惑をかけたくないという気持ちが滲み出ているのを私は感じていた。
私は再びため息をついた。
——仕方がない。私が何とかするしかない。
※
私は王都の王宮にいた。
人の多い王都はあまり好きではないのだが、男爵家の他の者たちはそろって社交界が苦手なので、私が来るしかないのだ。今回は特に、しっかりやらなければならない。
私の狙い——それは、他の貴族の方に、羊毛を扱っていただけそうな商会を紹介してもらうことだ。
場合によっては、私の身を犠牲にして、貴族家の令息に取り入り、男爵家への支援を条件に婚約してもいいと思っていた。
恋愛結婚というものに憧れてはいたけれど、低位とはいえ貴族に生まれた以上、政略結婚もどこかで覚悟はしていた。とはいえ、低位貴族なので、もらい手がいるかどうかはまた別の話ではあるのだけれど。
夜会の受付を済ませ、大広間に入ると、私は辺りを見回した。
知ってる顔を見つけたので、私は近づいていく。
それは子爵家の令嬢の方だった。以前、夜会でお話しした。
先方も私に気づき、目があったそのとき……。
子爵令嬢が目を逸らして逃げるように背を向けて、去っていった。
——何なの?
気を取り直して別の知り合いを探す。
別の見知った顔を見つけたので、近づいていこうとする。
すると、また目を逸らし、避けるようにした。
また別の令嬢、令息も同じだった。
——間違いない。私は避けられている。
「田舎くさい男爵令嬢ね」
「貧乏くさいドレスだわ」
「そこらじゅうの令息に媚びているみたい」
「公爵家のご令息を狙っているらしいわ。身の程知らずね」
「王都に来ないでほしいわね」
「あの男爵領の羊毛は、相当な粗悪品らしいわよ」
私への陰口が、次々と耳に入ってくる。
他は無視できたが、羊毛に関するものだけは聞き捨てならなかった。
私は足早にその言葉を吐いた貴族令嬢らしき女に近づき、逃げられる前にその腕を掴んだ。
「どこで男爵領の羊毛の話を聞いたの?」
私はその女を問い詰めた。
「乱暴はやめて……」
女性が泣きそうな声を出すので、私ははっとして手の力を緩めた。
「おい、よせ。田舎者」
私はその声がしたほうに振り向いた。
そこには貴族令息らしき男が立っていた。
「申し訳ございません。取り乱してしまいました」
私は女に向けて頭を下げて謝った。
女は何も言わず、そそくさと逃げていった。
「ほう。顔は悪くないな」
私を制止した男が言った。
その横柄そうな態度から、面倒そうだと思ったが、話を聞いてくれるなら話をしたいと思った。
「お見苦しいところをお見せしました。申し訳ございません。失礼ですが、どなたでしょうか?」
私が尋ねると、男は驚いた表情をした。
「何? 俺を知らないのか? 俺はフェルディナント・ヴァルテンベルクだぞ」
ヴァルテンベルク……?
「ヴァルテンベルク公爵家のご子息ですか?」
「そうだ。ヴァルテンベルク公爵の三男だ。皆に避けられているところを見ると、おまえはベルンハルト男爵家の娘だな?」
「はい。クラリッサ・ベルンハルトです。……なぜ私が避けられていることをご存じなのですか?」
私が尋ねると、フェルディナント様は口を開けて笑った。
田舎者の男爵令嬢ごときが言うのもなんだけれど、品のない笑みだと思った。
「ベルンハルト男爵家と付き合うなと俺が皆に教えてやったからだ」
「えっ……?」
「おまえのところの羊毛があまりに粗悪で売れ行きが悪いことも知っている。それも皆に教えてやった」
「なぜそんなことを……」
「俺は公爵家で上等なものばかり見てきたので、ものの良し悪しは見ればわかる。あのひどい羊毛では増産して多く売らなければやっていけないだろうな」
「仰るほど粗悪なら、増産して安くしたところで売れないのではないかと思いますが……」
「だからタダ同然の値段で売るのだ。そうすると増産がどうしても必要になるだろう? そんなこともわからんのか?」
「タダ同然なら、増産してたくさん売ったところで、売り上げもタダ同然なのでは?」
「ならば数を積み上げてタダ同然ではなくなるほどの量が生産できるのか? 無理だろう。三倍くらいがせいぜいだろうな」
この人は……何を言っているの? 男爵家とライナー商会の話し合いの内容を知っているの? 三倍という具体的な数字まで……。
「三倍も無理です……」
「それならば羊毛は諦めるんだな」
なぜこの方にここまで言われなければならないのだろう……。
そこで私はあることに気づいた。
「ところで、その上着はすてきな仕立てですね」
「ほう、おまえでもわかるか? これは最高級の仕立てなのだ。おまえのような田舎の貧乏男爵の娘にはとても手に入れられるものではあるまい」
フェルディナント様が得意げに言った。
その上着の生地に、薄い銀の毛が混じっている。それは、織物にすると独特の光沢が出る、男爵家の羊毛の特徴だった。ベルンハルトの羊には生まれつき銀の毛が混じっているのだ。
「それはどちらで購入されたのですか?」
「最近ライナー商会から売り出された高級織物の上着だ。王都でも簡単には手に入らん」
ライナー商会……? 粗悪だというベルンハルト産の羊毛で作った上着を高級品として売っているの? どういうこと?
「この上着に気づくとは、気に入ったぞ、ベルンハルトの娘よ。その顔もなかなかに美しい。おまえのような身分の低い貴族令嬢を妻にすることはできんが、妾にしてやってもよい。そうすれば、男爵家にも少しは良いこともあるだろう」
……。
いざとなれば、高位貴族に取り入って、あわよくばということは考えていたが、この品のない男は嫌だ……。生理的に受け付けない……。
「申し訳ございません、フェルディナント様。ちょっとよろしいですか?」
そのとき、また別の男性が割って入ってきた。
「何だ、貴様は?」
「ユリウス・エーレンベルクです、フェルディナント様。彼女は私の婚約者ですので……」
何ですって!?
「何だと? こんな田舎娘に婚約者などいたのか。……まあ、いい。では、増産か、倒産か。男爵家の道は二つだけだな」
そう言い捨て、フェルディナント様は去っていった。
※
「婚約者ってどういうことですか!」
私はユリウス様に詰め寄った。
ユリウス様はエーレンベルク侯爵家の次男で、王国騎士団の副団長まで務めている人物だ。エーレンベルク侯爵領はベルンハルト男爵領と接していることもあり、ユリウス様とは幼い頃から知っている仲ではあったが、年に数回夜会で顔を合わせる程度でそこまで親しいわけでもなかった。
それなのに突然婚約とは……。
「婚約者などと言って失礼した。困っているように見えたのでな。ナメクジでも見るような目でフェルディナント様を見ていたぞ。相手が鈍感な男でよかったな。自分があのような目で見られたら死にたくなる」
「ナメクジでもそんな目では見ません!」
「ナメクジ以下か……。男としては絶望的だな……」
「じゃあ、婚約は嘘ということでよろしいですね?」
「もちろん嘘だが……婚約したいのか?」
「したくないです!」
と言い切ってしまってから、本当にしなくてよいのだろうか、と自問した。けれど、もう言ってしまったのでだめか。
「そうか。しかし、夜会でずいぶん孤立させられていたな。あのナメクジ公爵令息は、男爵家をさんざんバカにした挙句に、ベルンハルト産のものは粗悪だと触れ回っていたぞ」
「そうなんです……。なぜ公爵家の方にあんなことをされるのでしょう。何かご存じですか?」
「さあな。おまえはあまり接触がなかったようだが、あの男は昔からあんな感じだ。今回はたまたまおまえが目をつけられたんだろう」
「たまたま……?」
「そういえば、公爵家で何か仕事を任されたようなことも言っていたな。その関係で男爵家が目をつけられた可能性もあるかもしれん」
「仕事……? 何の仕事ですか?」
「そこまでは知らん」
「そうですか……」
「ま、あのベルンハルト男爵家なら心配はいらんだろう」
「男爵家ですよ? ユリウス様のお家のように立派な侯爵家とは違うのです。このままでは簡単に潰れてしまいますわ。本当にまずい状況なんですから」
「普通の男爵家ならそうだろうが、ベルンハルト男爵家なら心配ないと言っているのだ」
「何を根拠に……?」
「俺に何かできることがあれば手伝うから、必要なら声をかけろ。それじゃあ、俺は行くぜ」
そう言って、ユリウス様は外套を羽織り、王宮から出て行こうとする。
私はその外套に目を奪われた。
「ユリウス様、その外套は?」
「ああ、これか? 王国騎士団で支給された外套だ。軽くて暖かくていいぞ。だが、なかなか生産が追いついていないようでな、幹部や隊長級にしか支給できていないのだ。部下も皆欲しがっているのだが、こればかりは譲れなくてな」
ユリウス様が愛おしそうに外套を見た。
その外套も、男爵家の羊毛の織物特有の光沢があった。
「どこからそのコートを仕入れているかわかりますか?」
私が尋ねると、ユリウス様が少し考え込む。
「ああ、確か……ライナー商会と言っていたかな」
※
結局、わかってはいたものの、お父様は領民に無理な生産を強いることはなく、ライナー商会との取り引きは打ち切られた。
吹けば飛ぶような弱小男爵家の蓄えなど、すぐに底をつく。蓄えなどあれば、お父様はすぐ人に与えてしまうので、蓄えなどできようはずもない。
つまり、男爵家の破滅へのカウントダウンが始まったのだ。
しかし、私も男爵家の破滅を手をこまねいて待っているつもりはない。
私は王都で一軒ずつ商会を訪ねていた。
一軒、二軒、三軒と回ったが、「ベルンハルト」と名乗っただけで、門前払いだった。
四軒目の商会に入る。
「ごめんください……」
「何だ?」
今までで一番強面の、壮年の男だった。
しかし、ここで怯むわけにはいかない。男爵家の命運がかかっているのだ。
「あの……。私、クラリッサ・ベルンハルトと言います」
「何だと?」
男が私を強く睨んだ。
「……失礼します」
これはどう考えてもだめだ。私はそのまま出て行こうとする。
「ちょっと待って」
そう言って男が立ち上がった。
嘘……。まさか暴力を振るう気?
と思ったら、椅子を差し出された。
「座ってください」
「へっ?」
「何か話があるんでしょう? ベルンハルト男爵のところのお嬢様なら話を聞かないわけにはいきません。公爵の倅だか何だか知らんが、ベルンハルト男爵の者とは口を聞くなとお触れが出ているんですが、知ったことではありません。困ったことがあるなら、何でも言ってください」
「いいんですか……?」
「もちろんです」
「あの……羊毛の織物を作って売りたいのですが……」
私は羊毛が粗悪だと言われても、羊毛を加工した織物なら需要があるということを知っている。王国騎士団や、ベルンハルト男爵家を目の敵にするフェルディナント様ですらそれを欲しがっていたのだから。
けれど、どうやって織物を作って、どう売ったらいいのかがわからなかった。
「ほう、羊毛を織物に……。うちじゃ扱っていないが、織物問屋なら紹介できますよ。そこもベルンハルト男爵の名を出せば両手を上げて協力するでしょう。しかしなぜそんなことを?」
「ライナー商会にベルンハルト領の羊毛を販売していただいていたのですが、取り引きを打ち切られまして……」
「何? あのライナー商会が自分からベルンハルト男爵を裏切ったのか? ベルンハルト男爵のおかげで大きくなったあのライナー商会が?」
「父のおかげですか……?」
「聞いたことはないのですか?」
「……はい」
「あの男爵様なら話せないでしょうな……。まあ、それならぜひうちで商品を扱わせてもらえませんか? ライナーに比べれば販路は少し狭まりますが……」
「えっ? いいんですか? まだ売れるかわからないですよ?」
「もちろんです。ベルンハルトのものが売れないはずがない。申し遅れましたが、私はフリードリヒ・ハルトマンです。このハルトマン商会の会長です。ぜひよろしくお願いいたします」
私は目の前が明るくなるのを感じた。
まだ何も為してはいないとは言え、少しだけ活路を見出せたのだ。
ハルトマン商会から紹介されたヴァイス織物問屋でも、二つ返事で織物の製造どころか、衣類への加工まで引き受けてくれた。「ベルンハルト男爵家の依頼より優先できる依頼なんてない」とまで言われた。
なぜここまでうまくいくのか理解ができなかったが、とにかくありがたかった。
男爵邸に戻った私は、弟のニコラスを捕まえ、私の計画を伝えた。
ニコラスも計画に興味が湧いたようで、服のデザインをやらせろと言ったが、その前に私は織物の生産計画と販売計画を作らせた。
お父様が私が張り切っているのを見て、「無理はしないようにな」と言ってきたが、「無理しないと男爵家が潰れるでしょう」と言い返した。
お父様はそんな私を見て、なぜか笑顔を見せて言った。
「楽しいならいいか」
お父様は私が楽しそうに見えたようだ。
確かにここまでやりがいを感じることは今までになかったかもしれない。
それにしてもお父様の焦りのなさには少し苛立ってしまったが。
※
ベルンハルトの羊毛織物の衣類は売れに売れた。
羊毛そのものよりも付加価値がついたため、ずっと利益率も高かった。
ハルトマン商会の販路に加え、ユリウス様から王国騎士団へも口をきいていただいたことが大きかった。
口伝えにベルンハルトの衣類の評判はあっという間に広がり、王都でも話題になったのだ。
ニコラスも楽しそうに販売実績を記録し、新しい生産計画を立てた。
ニコラスは一部の衣服のデザインに加え、生産性の高い織機の設計までやってのけた。
何でもできるのに、何で今まで何もしていなかったのだとちょっとだけ叱りたくなったが、そんな気分は簡単に吹き飛ぶほど楽しかった。
生産は順調だったが、それでも受注量に追いつかないほどになったあるときだった。
「クラリッサ姉さん、何かおかしい」
突然、ニコラスがそう言い出した。
「王都の小売店の販売数を見ていたんだけど、流通量が生産量を上回っているんだ……。ありえない」
「そんなバカなことあるわけないじゃない。天才も計算を間違えることがあるのね」
けれど、それは本当だった。
気づくと、ベルンハルトの羊毛織物の服は売れなくなった。人々は、ベルンハルト産の羊毛織物は粗悪だと言いだした。
また「粗悪」扱いだ……。
今度ばかりは認めるしかない。人々が実際に手にして、使ってみた結果、粗悪だと判断したのだ。フェルディナント様やライナー商会が手を回したのでもない。
私は男爵邸の倉庫に積まれた在庫の山を見て、立ち尽くしていた。
「大丈夫よ。こんなに素敵なものなら必ずまた売れるわよ」
お母様がにこにこして言った。
※
「妙なんです。うちを通していない、『ベルンハルトの衣類』が流通しだしたんです。しかもえらい安価で……」
男爵邸にやってきたハルトマンさんが言った。
「ハルトマン商会を通していないものですか……?」
ハルトマンさんが頷いて、手に持っていた外套を差し出したので、私はそれを手に取った。
銀の毛が混じり、ベルンハルトの羊毛織物の独特の光沢がある。
その手触りに少し違和感があった。
「うちの羊毛の外套だね」
ニコラスが言った。
「ニコラス、ちょっと水差しを持ってきて」
ニコラスが水差しを手にし、私に渡した。
私は水差しの水を外套にかけた。
「何するの、姉さん?」
ニコラスが驚いて尋ねるが、私は答えずに、濡れたところを擦った。
すると外套の銀の色がはげ、光沢が消えた。
「姉さん、これって……」
「偽物よ」
私は、「粗悪品」とされたベルンハルトの衣類の返品を受け付けることにした。もちろん全額返金する。
本物だろうと偽物だろうと関係なく。
「姉さん、そんなことしたらせっかく稼いだ分もすぐに消えてしまうよ……」
ニコラスが不安そうにする。
「だからって、粗悪品までつかまされたお客様を放っておけないでしょう?」
「姉さんまで父上のようなこと言い出した……。この家は本当に終わりだ……」
※
その日、私はライナー商会にいた。
久しぶりに会ったグスタフさんは、少し太っているようにも見えた。
「よくいらしてくださいましたね、クラリッサ様」
グスタフさんは笑顔で私を迎え入れた。
「お噂は聞いていますよ。ベルンハルトの羊毛織物の服はかなり売れたようですね」
「ええ、とても売れました。返品の数もかなりの数に上りましたが」
「ああ。評判は聞いておりますよ。あの羊毛は『粗悪』だと警告したのに、服にすればごまかせると思ったのは浅はかでしたな」
グスタフさんは愉快そうに「くっくっ」と笑った。
「ええ。本当に浅はかですわ。服にすれば、ごまかせると思ったのですか、グスタフさん?」
「何?」
グスタフさんの笑みが止まった。
「返品があったのは、すべてライナー商会を通して小売店で販売されたものでした」
「ほう、うちが卸したものだけが、粗悪品だというのですか? だとしても、ベルンハルト産の羊毛を使ったことに変わりはない」
「そうかもしれませんね。こちらの商品は確かにベルンハルトの羊毛を使ったものに見えます」
私は返品されてきた商品をグスタフさんに示す。
「それはうちの商品札だな」
「間違いなく、ライナー商会のものですね?」
「ああ、うちから卸したベルンハルトの羊毛織物の服だ」
私は水筒を取り出し、その外套に水を振った。
そして擦ると、銀色の光沢が消える。
「これは、ベルンハルト産に見せるために染料で着色しただけの偽物です」
グスタフさんは表情も変えずに、私の顔を見た。
「……だから何だと言うのですか? 勝手に返品を受け付けたのはあなただ。うちは金は返しませんぞ」
グスタフさんは開き直ったように声を荒げた。
「そんなものは要りません。ただ、偽物の粗悪品を流通させたことをライナー商会が認めて、世間に公表してくださればよいのです」
「ははは。そんなことをして、うちに何の得があるのです? いずれにせよ、ベルンハルト男爵家はもう終わりだ」
「そうですか。残念です」
私は席を立ち、背を向けて歩いた。
後ろで、「負け犬が」とぼそりと言う声が聞こえた。
※
ユリウス様の計らいにより、王国騎士団でもベルンハルトの羊毛織物の模造品が問題視され、公の場で裁定が開かれた。
中には夜会で私を無視した人々や、フェルディナント様もいた。
私は返品のあった偽物のサンプルに加え、小売店と流通経路の記録と、正規品の流通経路の記録を提出しており、裁定が始まる前から、ライナー商会との勝負は終わっていた。
私があらゆる返品を受け付けていたのは、このためでもあったのだ。
グスタフさんは青ざめた顔で裁定の場に立っていた。
「グスタフ・ライナー、なぜこんなことを行ったのだ? まるでベルンハルト男爵家を潰そうとしていたかのようだが」
法務卿がグスタフさんを問い詰めた。
「私はただ、ヴァルテンベルク公爵家のご子息に脅されてやっていただけです……」
その証言に裁定の場がどよめいた。
「ほう。ヴァルテンベルク公爵といえば、王国でも有数の名家ではないか。にわかに信じられんな。そんなことをして、ヴァルテンベルク公爵家に何の利益があるのだ?」
「ご子息がヴァルテンベルク公爵家の商業をご担当することになったとかで、評判が良く、高値で売れるベルンハルト男爵家の羊毛に目をつけたのです」
やっぱり。最初から羊毛が粗悪だなんて嘘じゃないの。粗悪だから三倍に増産させるのではなくて、三倍儲けようとしていたんじゃないの。
「それでベルンハルト男爵家に増産を強要して、断られたら男爵家との取り引きは停止して、模造品を大量に売れと脅されまして……。男爵家など潰れても誰も何も思わん、とまで言われて……。公爵家に睨まれたら商売もできませんので、断ることなどできませんでした……」
「なるほど。そのご子息というのは……」
「フェルディナント・ヴァルテンベルク様です」
裁定の場がいっそう騒然とした。
「嘘をつくな! この詐欺師が!」
声を上げたのは、名指しされたフェルディナント様その人だった。
「模造品を作ろうと言い出したのは貴様ではないか! 俺は関係ない!」
そこで私が前に出た。
「あなたが夜会で私に言ったことは忘れておりませんよ、フェルディナント様」
「おまえは……ベルンハルトの娘……」
「『増産か、倒産か。男爵家の道は二つだけだ』と仰いましたよね。お忘れですか、フェルディナント様? 挙げ句の果てには、妾になれとまで言われて……あの屈辱は忘れません」
「何だと? 男爵の娘ごときが何を言うか!」
そう怒鳴って激昂するフェルディナント様の後ろから、痩身の男性が前に出てきた。
「父上、何とか言ってください。公爵家がこんな屈辱を受けるなどあってはならないことです」
ヴァルテンベルク公爵……。
私は息を呑んだ。
権力が、正しいことも誤りにしてしまう力があることは、私でもわかっている。
私はしょせん男爵家の娘に過ぎないのだという事実が急に恐ろしくなってくる。
けれど、私はヴァルテンベルク公爵の口から出てきた言葉に耳を疑った。
「証拠と証言から、息子が関与していたことは明らかでしょう。ヴァルテンベルク公爵家として、責任を認めます」
「は? 父上、何を言っているのです。男爵家ごときが公爵家より正しいなどということがあるわけがないではないですか!」
捲し立てるフェルディナント様を、ヴァルテンベルク公爵が睨んだ。
「ベルンハルト男爵家を『ごとき』だと……?」
公爵は法務卿に向き直り、続けた。
「ベルンハルト男爵家には深く謝罪させていただき、甘んじて罰を受けます。男爵家が被害にあった分も、もちろんすべて賠償させていただきます」
「父上!?」
ヴァルテンベルク公爵は、フェルディナント様を睨みつけた。
「よりによってなぜベルンハルト男爵家なのだ。愚か者が……」
※
男爵邸に、ヴァルテンベルク公爵がついてきた。
そしてお父様を見るなり公爵がその場に膝をつき、深々と頭を下げた。
「ベルンハルト男爵、この度はうちのバカ息子が大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした」
私はあまりのことに口が開いてしまった。
どういう状況なの……?
「公爵ともあろう方がやめてください」
お父様が慌てて、公爵の腕を取って立たせた。
「爵位の上下など関係ありません。あなたは私などよりずっと立派なお方です」
「何をバカなことを仰いますか……。そんなことがあるわけないでしょう……」
「あの……ヴァルテンベルク公爵は、うちの父をご存じなのですか?」
私は恐る恐る口を開いた。
「はい、お嬢様。以前、公爵家が財政的に窮地に陥っていたときに、ベルンハルト男爵からご支援をいただいたことがあります」
お嬢様!? 公爵にお嬢様って呼ばれた……。
「あんな少額では何の足しにもならなかったでしょうに……?」
お父様は申し訳なさそうに言った。
「違うのです。公爵家は家格を笠に他家に冷たく当たっていたので、誰も公爵家を助けようなどと考えてもくれませんでした。あの窮地で、唯一、手を差し伸べてくださったのが、ベルンハルト男爵、あなただったのです。しかも、あれはあなたの全財産だったのでしょう? 私はあれで勇気づけられ、きっと窮地を脱してあなたのようになろうと頑張れたのです」
「そんな大げさな……」
「うちのフェルディナントも、私の前では大人しくしていたようですが、仕事を任せた途端、何を勘違いしたのか……。罰を受けた後も、男爵のもとで叩き直してほしいところですが……」
公爵がそんなことを言い出すので私は慌てた。
「この男爵のもとでは、公爵家以上に甘やかされるだけですよ!」
※
ベルンハルトの羊毛と織物が名誉を回復したところで、改めて、今後の話をするべく、ハルトマンさんが男爵家を訪れていた。
ユリウス様も王宮での調達を手伝うと言って、来てくださっていた。
「ところで、ハルトマン商会はなぜ、私を手伝ってくださったのですか? どの商会も門前払いだったのに……」
私はそれがずっと気になっていた。ハルトマン商会の助けがなければ、私は何もできなかったのだ。
「ああ……クラリッサ様には話しておりませんでしたね」
ハルトマンさんが恥ずかしそうに話を始めた。
「うちの商会もヴァイス織物問屋も、商売で大失敗して潰れかけて、誰からも見捨てられたときに、ベルンハルト男爵に支援をいただいたのです。ですが、お礼をしようにも、『見返りが欲しくて助けたのではない』と言って、男爵は絶対に何も受け取らないので……。こちらも意地になって恩返しの機会を窺っていたところに、クラリッサお嬢様が来てくれたんですよ。本当に感謝しています」
うん……? なぜ助けられた私が感謝されているんだろう。
「それにしても、何だか次々と都合よく協力してくださる方が出てきて、運が良かったわ」
私は心からそう思っていたのだが、ユリウス様がそれを否定した。
「クラリッサ、それは断じて運なんかではないぞ。ハルトマン商会やヴァイス織物問屋だけではない。ベルンハルト男爵は、昔から困っている人を見るたび手を差し伸べていたからな。ベルンハルト男爵家に困ったことがあれば、意地でも恩返しをしたがる者たちが山ほどいるのだ。かく言う俺のエーレンベルク侯爵家もそうだし、何なら即座に裁定を開いた法務卿もそうだ。ベルンハルト男爵家の名誉を回復させるのだと意気込んでいたぞ」
確かに、たかが男爵家と一商会の裁定を、なぜ法務卿が自ら仕切っていたのか謎だった……。
「知っている者は知っているのだ。あの底抜けの善性には恐ろしいほどの力がある。だから、俺はベルンハルト男爵家ならば問題ないと言ったのだ」
そうか……。お父様は何もしていなかったわけではなくて、ずっと前から、目に見えないものを積み上げていたのね……。
「とはいえ、おまえが動かなければここまでうまくはいかなかっただろう。よくやったな」
ユリウス様がそう言って笑った。
「ユリウス様も本当にありがとうございました」
「何だ、俺と婚約したくなったか? ベルンハルト家になら喜んで入るぞ」
ユリウス様はおどけて言った。
「もう……」
※
それから、ベルンハルトの羊毛織物の服には、常軌を逸するほどの受注が入った。
その高い品質が改めて認識された上に、私が無条件に返品を受け付けたことで、ベルンハルトへの信頼が高まっていた。これは想定していなかったが、ベルンハルト男爵家らしい副次効果でもあった。
対照的にライナー商会の信頼は失墜し、数ヶ月ともたずに倒産した。フェルディナント様の言いなりになっていた他の商会も同じような運命を辿ることになった。
お父様が哀れだと支援しようとするので、「今回ばかりは反省させろ」と周りが必死で止めた。
フェルディナント様は公爵家の一切の職務を解かれただけでなく、勘当されて辺境送りになったという。辺境での労働で得たお金はすべて罰金と賠償金に消えることになる。二度とヴァルテンベルクの名を名乗ることを禁じられたようだ。
フェルディナント様は、ベルンハルト男爵家以外の他家や商会などにも圧力をかけていたことが次々に発覚し、思ったよりも重い罰を受けることになった。
私は空になって広々とした男爵家の倉庫を見て、清々しい気分になっていた。
「だから大丈夫だって言ったでしょう?」
お母様がにこにこしながら私に言った。
何も考えていないように見えるお母様だけれど、お父様のことを一番わかっていて、最初から本当に何も心配していなかったんだろうと思うと、少し羨ましかった。
「クラリッサもお父様みたいに素敵な方と結ばれるといいわね」
お母様が私の心を見透かすように言った。
「そうね……。良い方いるかしら」
ユリウス様の顔が浮かんで、思わず笑みがこぼれた。
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