永遠の観測ドーム
暗闇の中で、最初に感じたのは温度だった。
私の皮膚に直接触れる空気が、ほんの少しだけ温かい。
人工のでもどこか優しい温もり。
目を開けると、視界の端に淡い青緑色の光の帯が揺れている。医療ポッドの内壁だった。
まだ体が完全に私のものじゃないみたいに、指先が微かに痺れている。
「…綾、大丈夫?」
すぐ近くで、声がした。
ポッドの透明な蓋越しに、彼女の顔が浮かんでいる。
長い黒髪が無重力でふわふわと漂っていて、光を受けて細かく虹色に散っている。
いつもの彼女の髪なのに、宇宙船の中だとやけに非現実的に綺麗に見える。
「ん……まだ、ちょっと気持ち悪い」
私がそう呟くと、彼女は小さく息を吐いて笑った。
その笑い方が、昔から変わらない。
目尻がほんの少しだけ下がって、唇の端が浮くだけの、控えめな笑顔。
「規定より17分早く目覚めたよ。記録更新だって、さっき中央AIが言ってた」
「…自慢したいの?」
「ううん。嬉しいだけ」
彼女ーー凛は、そう言ってポッドのロックを解除した。
シュッという小さな音とともに蓋がスライドして開き、冷たい空気が一気に流れ込んでくる。
思わず肩をすくめたら、凛がすぐに両手で私の肩を包み込んだ。
まるで私が壊れ物みたいに、そっとやさしく。
「まだ血管拡張剤が回りきってないから、急に動かないでね」
「…過保護だなぁ」
「綾が倒れたら、私が困るだけだから」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。
宇宙船「エリス-09」の長期航行が始まってから、すでに4年と7ヶ月。
私たちは二人だけでこの船に乗っている。
いや、正確には「二人+α」だけど、今はまだそのαのことは考えたくない。
凛が私の手を引いて、ポッドからゆっくり降ろしてくれる。
足がメインフロアの床に着いた瞬間、人工重力の微妙なズレに体がふらついた。
案の定、彼女はすぐに腰に腕を回して支えてくれた。
「ほら、言ったでしょ」
「…うるさい、ちょっとボケただけ」
「なにそれ、可愛い」
「それも禁止だってば」
彼女はくすくす笑いながら、私をメディカルベイのソファまで連れて行く。
壁一面がディスプレイになっていて、現在位置と残航行時間、酸素残量、食料庫の残ストックが淡々と流れている。
あと312年と少し。
移住惑星予定なんて、とうの昔に消した数字だ。
ソファに座らせられると、凛は私の前に膝をついて、じっと顔を覗き込んできた。
いつもよりずっと、距離が近い。
「…目、ちゃんと開いてる?」
「開いてるよ。見てわかるでしょ」
「瞳孔の反応も正常。熱もない。神経伝達速度も基準内……よし」
彼女はそう呟きながら、私の額にそっと自分の額をくっつけてきた。
ひんやりした皮膚が触れる。
宇宙船の中なのに、彼女の体温だけはいつも地上のそれと同じに感じる。
「ねえ、綾」
「ん」
「また、夢見た?」
一瞬、息が止まる。
見られたくなかった。
あの夢を、彼女に知られたくなかった。
「……見た」
「どんなの?」
「…いつもの。地球が、まだ青かった頃の」
凛は黙って、私の髪を指で梳き始めた。
ゆっくり、ゆっくり。
「私も見たよ」
「え?」
「さっき、綾が眠ってる間に。私も仮眠してたんだけど……同じ夢だった」
彼女の声が、少しだけ震えている気がした。
「二人で、夏の海岸にいた。波の音がしてて、砂が熱くて。綾が私の手を握って、『もうちょっとだけ泳ごう』って言ってた」
私は目を閉じた。
胸の奥で、何かが割れるような音がした。
「……覚えてる。私が言ったこと」
「うん。覚えてるよ」
凛の手が、私の頬に移動する。
親指が、そっと涙の跡をなぞった。
「だから、もう一度言ってほしい」
彼女の瞳が、すぐそこにある。
宇宙の果てまで続くような、深く深淵なる黒い目が見える。
「もうちょっとだけ、一緒にいようって」
私は息を吸って、震える声で呟いた。
「……もうちょっとだけ、一緒にいよう」
凛の唇が、ゆっくり近づいてくる。
宇宙船の照明が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
そして、静かに。重力が消えたみたいに、そっと唇が重なった。
唇が触れた瞬間、宇宙の静寂が一瞬だけ破れた気がした。
凛の息が、私の唇に直接混じってくる。甘くて、少しだけ金属っぽい味がする。
船内の空気循環フィルターを通した、無機質な酸素の匂い。
でも、彼女の体温がそれを全部上書きしてしまう。
ゆっくりと離れると、凛の瞳が潤んでいた。
涙じゃない。ただ、感情が溢れすぎて、焦点が少しぼやけているだけ。
「…綾の唇、冷たかった」
「ごめん。まだ体温が戻ってなくて」
「ううん。冷たいのも、綾らしくて好き」
彼女はそう言って、私の首の後ろに手を回し、もう一度引き寄せた。
今度はもっと深く。舌先がそっと触れて、探るように絡まる。
無重力に近い微弱重力の中で、体がふわっと浮き上がりそうになるのを、凛の腕がしっかり押さえてくれる。
キスが終わったあと、額を合わせたまま、彼女が囁く。
「この船のログ、全部消しちゃおうか」
「…AIにバレるよ」
「バレてもいい。『人間の感情記録はプライバシー保護対象』って条項、覚えてるでしょ?」
私は小さく笑った。
確かに、航行開始時に中央AIにインプットした「プライバシー保護プロトコル」。
あれは、地球政府が最後に残した、わずかな優しさだったのかもしれない。
「でも、消したら……私たちの記憶も、いつか薄れちゃうかも」
「薄れないよ」
凛の声が、断固として響く。
「私が覚えてる。綾が覚えてる。それで十分」
彼女は私の手を握り直して、メディカルベイの外へ連れ出した。
通路の照明が自動で点灯し、淡いオレンジの光が足元を照らす。
壁に埋め込まれた小さな窓から、星々がゆっくり流れていくのが見える。
もう地球は、肉眼では見えない距離まできた。
居住区画に入ると、凛が突然立ち止まった。
私を振り向かせて、両手で頬を包む。
「ねえ、綾。今日は特別に、観測ドームに行かない?」
「…久しぶりだね」
「うん。4ヶ月ぶりくらいかな。綾が凍結睡眠に入る前から」
観測ドームは、この船で唯一「外」を直接感じられる場所。
強化ガラスとナノシールドのドーム型展望室で、普段はほとんど使わない。
だって、見えるのはただの闇と、遠くの点々とした光だけ。
それでも、時々二人でここに来て、ただ黙って星を見ていた。
エレベーターで最上階へ。
ドアが開くと、冷たい空気が頬を撫でる。
ドームの中央に置かれたクッションシートに、凛が先に座って、私を手招きした。
私は彼女の隣に腰を下ろす。
膝が触れ合う距離。
彼女は私の肩に頭を預けてきた。
「見て。あそこ」
指差された方向に、淡い紫色の星雲が広がっている。
船の航路から少し外れた位置にある、知らない名前の星域。
「綺麗……」
「うん。でも、今日の一番綺麗なものは、綾だと思う」
「急に何」
「本気」
凛が体を起こして、私の顔を両手で固定する。
真剣な目。
宇宙の闇より深い黒い瞳が私を映していた。
「綾。私、決めた」
「…何を?」
「この航行が終わらないなら、終わらせない。地球に帰れなくてもいい。子孫を残すための遺伝子バンクも、使わなくていい。私と綾だけで、この船を永遠に飛ばし続けよう」
心臓が、どくんと鳴った。
「…それって」
「二人だけの世界で、生き続けるってこと」
彼女の指が、私の唇をなぞる。
「怖い?」
私は首を振った。
「怖くない。凛と一緒なら」
「約束だよ」
「うん。約束」
今度は私が、凛の首を引き寄せた。
観測ドームのガラス越しに、無数の星が私たちを見守っているみたいに輝いている。
唇が重なる。
今度は、さっきより熱くて、深くて、長い。
重力がほとんどないせいで、体が浮き上がりそうになるのを、互いの腕でしっかりと繋ぎ止める。
キスが途切れるたび、息が混じり合う。
「好き」「好き」「大好き」の言葉が、星の間を漂うみたいに繰り返される。
どれだけ時間が経ったかわからない。
ただ、ドームの自動照明が「夜間モード」に切り替わったとき、
凛が私の耳元で囁いた。
「今夜は、寝ないでいよう」
私は頷いて、彼女の胸に顔を埋めた。
「うん。ずっと、こうしてよう」
星々が、静かに流れる。
私たちの時間は、ここで止まっているみたいだった。
星々がゆっくり流れていく。
どれだけ時間が経ったかわからない。
凛の呼吸が、私の首筋に規則正しく当たる。
彼女の心臓の音が、船の微かな振動と混じって聞こえる。
「綾」
「ん」
「私たち、永遠にここにいられるよね」
私は目を閉じて、彼女の髪に指を絡めた。
「うん。ここが、私たちの地球だよ」
ドームの照明が、さらに暗くなる。
夜間モードの最深部。
星だけが、私たちを照らす。
そして、静かに。
二人の時間は、宇宙の果てまで続いていく。
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