表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

短編集

永遠の観測ドーム

作者:
掲載日:2026/01/24

 暗闇の中で、最初に感じたのは温度だった。

 私の皮膚に直接触れる空気が、ほんの少しだけ温かい。

 人工のでもどこか優しい温もり。

 目を開けると、視界の端に淡い青緑色の光の帯が揺れている。医療ポッドの内壁だった。

 まだ体が完全に私のものじゃないみたいに、指先が微かに痺れている。


「…綾、大丈夫?」


 すぐ近くで、声がした。

 ポッドの透明な蓋越しに、彼女の顔が浮かんでいる。

 長い黒髪が無重力でふわふわと漂っていて、光を受けて細かく虹色に散っている。

 いつもの彼女の髪なのに、宇宙船の中だとやけに非現実的に綺麗に見える。


「ん……まだ、ちょっと気持ち悪い」


 私がそう呟くと、彼女は小さく息を吐いて笑った。

 その笑い方が、昔から変わらない。

 目尻がほんの少しだけ下がって、唇の端が浮くだけの、控えめな笑顔。


「規定より17分早く目覚めたよ。記録更新だって、さっき中央AIが言ってた」


「…自慢したいの?」


「ううん。嬉しいだけ」


 彼女ーー凛は、そう言ってポッドのロックを解除した。

 シュッという小さな音とともに蓋がスライドして開き、冷たい空気が一気に流れ込んでくる。

 思わず肩をすくめたら、凛がすぐに両手で私の肩を包み込んだ。

 まるで私が壊れ物みたいに、そっとやさしく。


「まだ血管拡張剤が回りきってないから、急に動かないでね」


「…過保護だなぁ」


「綾が倒れたら、私が困るだけだから」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。

 宇宙船「エリス-09」の長期航行が始まってから、すでに4年と7ヶ月。


 私たちは二人だけでこの船に乗っている。

 いや、正確には「二人+α」だけど、今はまだそのαのことは考えたくない。


 凛が私の手を引いて、ポッドからゆっくり降ろしてくれる。

 足がメインフロアの床に着いた瞬間、人工重力の微妙なズレに体がふらついた。

 案の定、彼女はすぐに腰に腕を回して支えてくれた。


「ほら、言ったでしょ」


「…うるさい、ちょっとボケただけ」


「なにそれ、可愛い」


「それも禁止だってば」


 彼女はくすくす笑いながら、私をメディカルベイのソファまで連れて行く。

 壁一面がディスプレイになっていて、現在位置と残航行時間、酸素残量、食料庫の残ストックが淡々と流れている。

 あと312年と少し。

 移住惑星予定なんて、とうの昔に消した数字だ。

 ソファに座らせられると、凛は私の前に膝をついて、じっと顔を覗き込んできた。

 いつもよりずっと、距離が近い。



「…目、ちゃんと開いてる?」


「開いてるよ。見てわかるでしょ」


「瞳孔の反応も正常。熱もない。神経伝達速度も基準内……よし」


 彼女はそう呟きながら、私の額にそっと自分の額をくっつけてきた。

 ひんやりした皮膚が触れる。

 宇宙船の中なのに、彼女の体温だけはいつも地上のそれと同じに感じる。


「ねえ、綾」


「ん」


「また、夢見た?」


 一瞬、息が止まる。

 見られたくなかった。

 あの夢を、彼女に知られたくなかった。


「……見た」


「どんなの?」


「…いつもの。地球が、まだ青かった頃の」


 凛は黙って、私の髪を指で梳き始めた。

 ゆっくり、ゆっくり。


「私も見たよ」


「え?」


「さっき、綾が眠ってる間に。私も仮眠してたんだけど……同じ夢だった」


 彼女の声が、少しだけ震えている気がした。


「二人で、夏の海岸にいた。波の音がしてて、砂が熱くて。綾が私の手を握って、『もうちょっとだけ泳ごう』って言ってた」


 私は目を閉じた。

 胸の奥で、何かが割れるような音がした。


「……覚えてる。私が言ったこと」


「うん。覚えてるよ」


 凛の手が、私の頬に移動する。

 親指が、そっと涙の跡をなぞった。


「だから、もう一度言ってほしい」


 彼女の瞳が、すぐそこにある。

 宇宙の果てまで続くような、深く深淵なる黒い目が見える。


「もうちょっとだけ、一緒にいようって」


 私は息を吸って、震える声で呟いた。


「……もうちょっとだけ、一緒にいよう」


 凛の唇が、ゆっくり近づいてくる。

 宇宙船の照明が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。

 そして、静かに。重力が消えたみたいに、そっと唇が重なった。

 唇が触れた瞬間、宇宙の静寂が一瞬だけ破れた気がした。


 凛の息が、私の唇に直接混じってくる。甘くて、少しだけ金属っぽい味がする。

 船内の空気循環フィルターを通した、無機質な酸素の匂い。

 でも、彼女の体温がそれを全部上書きしてしまう。

 ゆっくりと離れると、凛の瞳が潤んでいた。

 涙じゃない。ただ、感情が溢れすぎて、焦点が少しぼやけているだけ。


「…綾の唇、冷たかった」


「ごめん。まだ体温が戻ってなくて」


「ううん。冷たいのも、綾らしくて好き」


 彼女はそう言って、私の首の後ろに手を回し、もう一度引き寄せた。

 今度はもっと深く。舌先がそっと触れて、探るように絡まる。

 無重力に近い微弱重力の中で、体がふわっと浮き上がりそうになるのを、凛の腕がしっかり押さえてくれる。

 キスが終わったあと、額を合わせたまま、彼女が囁く。


「この船のログ、全部消しちゃおうか」


「…AIにバレるよ」


「バレてもいい。『人間の感情記録はプライバシー保護対象』って条項、覚えてるでしょ?」


 私は小さく笑った。

 確かに、航行開始時に中央AIにインプットした「プライバシー保護プロトコル」。

 あれは、地球政府が最後に残した、わずかな優しさだったのかもしれない。


「でも、消したら……私たちの記憶も、いつか薄れちゃうかも」


「薄れないよ」


 凛の声が、断固として響く。


「私が覚えてる。綾が覚えてる。それで十分」


 彼女は私の手を握り直して、メディカルベイの外へ連れ出した。

 通路の照明が自動で点灯し、淡いオレンジの光が足元を照らす。

 壁に埋め込まれた小さな窓から、星々がゆっくり流れていくのが見える。

 もう地球は、肉眼では見えない距離まできた。

 居住区画に入ると、凛が突然立ち止まった。

 私を振り向かせて、両手で頬を包む。


「ねえ、綾。今日は特別に、観測ドームに行かない?」


「…久しぶりだね」


「うん。4ヶ月ぶりくらいかな。綾が凍結睡眠に入る前から」


 観測ドームは、この船で唯一「外」を直接感じられる場所。

 強化ガラスとナノシールドのドーム型展望室で、普段はほとんど使わない。

 だって、見えるのはただの闇と、遠くの点々とした光だけ。

 それでも、時々二人でここに来て、ただ黙って星を見ていた。

 エレベーターで最上階へ。

 ドアが開くと、冷たい空気が頬を撫でる。

 ドームの中央に置かれたクッションシートに、凛が先に座って、私を手招きした。

 私は彼女の隣に腰を下ろす。

 膝が触れ合う距離。

 彼女は私の肩に頭を預けてきた。


「見て。あそこ」


 指差された方向に、淡い紫色の星雲が広がっている。

 船の航路から少し外れた位置にある、知らない名前の星域。


「綺麗……」


「うん。でも、今日の一番綺麗なものは、綾だと思う」


「急に何」


「本気」


 凛が体を起こして、私の顔を両手で固定する。

 真剣な目。

 宇宙の闇より深い黒い瞳が私を映していた。


「綾。私、決めた」


「…何を?」


「この航行が終わらないなら、終わらせない。地球に帰れなくてもいい。子孫を残すための遺伝子バンクも、使わなくていい。私と綾だけで、この船を永遠に飛ばし続けよう」


 心臓が、どくんと鳴った。


「…それって」


「二人だけの世界で、生き続けるってこと」


 彼女の指が、私の唇をなぞる。


「怖い?」


 私は首を振った。


「怖くない。凛と一緒なら」


「約束だよ」


「うん。約束」


 今度は私が、凛の首を引き寄せた。

 観測ドームのガラス越しに、無数の星が私たちを見守っているみたいに輝いている。

 唇が重なる。

 今度は、さっきより熱くて、深くて、長い。

 重力がほとんどないせいで、体が浮き上がりそうになるのを、互いの腕でしっかりと繋ぎ止める。

 キスが途切れるたび、息が混じり合う。


「好き」「好き」「大好き」の言葉が、星の間を漂うみたいに繰り返される。


 どれだけ時間が経ったかわからない。

 ただ、ドームの自動照明が「夜間モード」に切り替わったとき、

 凛が私の耳元で囁いた。


「今夜は、寝ないでいよう」


 私は頷いて、彼女の胸に顔を埋めた。


「うん。ずっと、こうしてよう」


 星々が、静かに流れる。

 私たちの時間は、ここで止まっているみたいだった。

 星々がゆっくり流れていく。

 どれだけ時間が経ったかわからない。

 凛の呼吸が、私の首筋に規則正しく当たる。

 彼女の心臓の音が、船の微かな振動と混じって聞こえる。


「綾」


「ん」


「私たち、永遠にここにいられるよね」


 私は目を閉じて、彼女の髪に指を絡めた。


「うん。ここが、私たちの地球だよ」


 ドームの照明が、さらに暗くなる。

 夜間モードの最深部。

 星だけが、私たちを照らす。

 そして、静かに。

 二人の時間は、宇宙の果てまで続いていく。

この作品ををお楽しみいただけましたか?


もし「他の作品」や「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!


このような話を書いてほしいなどリクエストがあれば書きたいと思います。


皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
綾の長編シリーズ!
【2部連載中】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~
~!
※R15・残酷描写あり。苦手な方はご注意!

他の長編もチェックしてね(現在4本!)
2. Liebe(一部完)
学園物百合小説
3. 白雪様と二人暮らし
女子高生と仏様とのほのぼの百合小説
4. 【完】紫微綾の事件簿
(百合×探偵×バイオレンス)

※R15・基本性的描写・残酷描写あり。苦手な方はご注意!

もっと知りたい人はTwitterで更新待ってるよ~
@VTuberAya_Nanjo
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ