第1話:転生失敗とアプリ『タ・テム・エ』の勘違い
「まさか、俺のセカンドライフが、過労死からの再スタートになるとはな」
葛城みつる、四十歳。不惑。
真っ黒なデスクと真っ黒な上司から解放されたのは、徹夜明けに飲んだ缶チューハイ三本のせいだったのか、それとも本当にあの剣と魔法の異世界で力尽きたせいだったのか。
どちらにせよ、気がつけば見慣れた自室のベッドの上。
若返りナシ。
チートスキル持ち越しナシ。
ステータスオープンしても何も表示されない。
みつるは重い身体を起こし、洗面所に向かった。蛍光灯の下、鏡に映る自分の顔。
目の下のクマ。
ほうれい線。
白髪混じりの髪。
四十年分の疲労が、そのまま刻まれている。
「…若返ってない」
呟く。
当たり前だ。転生などしていないのだから。
「おかしい。俺はあの世界で、歴史知識とゲーム脳を駆使して辺境伯になったはずだが?」
脳裏によぎるのは、ドット絵の城と、やたらと露出度の高いエルフのヒロインの姿。金髪。巨乳。CV.は釘宮理恵(みつるの脳内設定)。
だが、現実は四十歳の中年男性が独りで住む、築三十年の賃貸マンションの洗面所だ。
シミだらけの鏡。
カビ臭い。
水道から変な音がする。
「…チクショウ、やり直しどころか、異世界をクリアしたのにデータを引き継げなかったってことかよ」
みつるは絶望した。
ブラック企業を辞めた後の悪酔いが、ただの長い夢だったと認めざるを得ない。残ったのは、退職金(約三百万)と、時間だけ。
無職。
四十歳。
独身。
みつるは自室に戻り、通帳を開いた。
残高:3,127,543円。
家賃が月七万。光熱費、食費を考えると、あと二年。いや、年金や保険を考えれば一年半が限界か。
人生、詰んでいる。
みつるは通帳を放り出し、ベッドに倒れ込んだ。枕元のスマートフォンに手を伸ばす。時刻は午前十時。休日の朝。やることは何もない。
画面を点灯させる。
そして、見慣れないアイコンに気づいた。
ピンク色。
ハートマーク。
キラキラしたエフェクト。
なんか、怪しい。
「…これは?」
インストールした覚えはない。だが、確かにホーム画面に鎮座している。
『Ta T'aime et...』
「タ・テム・エ……」
みつる、画面を凝視する。
「…ふっ、フランス語か。洒落てやがる」
フランス語で「君を愛し、そして…」という意味だろうか。いや、違う。この「...」が重要だ。
「愛の先にある何か、か。つまり、このアプリは『愛(慈悲)を求めている弱者』を探知するシステムということか」
みつる、確信したように頷く。
「なるほど。この世界にも、救いを求める者がいる。そして、俺はそれを導く存在として選ばれたのか」
タップ。
起動音が鳴る。
キラキラしたエフェクト。
そして画面に表示される文字。
『ようこそ、運命の出会いへ――』
「!」
みつるの目が見開かれる。
心臓がドクンと跳ねる。
手が震える。
画面をスクロールする。
プロフィール登録画面。
名前、年齢、居住地、趣味、自己紹介。
「…ふむ」
さらにスクロール。
身長、体重、年収、学歴。
そして――「スキル」の欄。
「スキル…!?」
みつる、画面に食いつく。
額に汗がジワリと浮かぶ。
血管がピクリと脈打つ。
「やはり…やはりな…!」
みつる、確信した顔で頷く。
「異世界では失われたと思っていたが…俺のスキルは、こちらの世界に引き継がれていたのか!」
みつる、スマホを握りしめる。
スキル欄に何を書くか。
本当なら「剣術Lv.10」とか「魔法詠唱Lv.8」とか書きたい。だが、あの異世界での記憶はもう曖昧だ。というか、夢だったのかもしれない。
ならば、現実の俺が持っている能力は何だ?
「鑑定…か」
あの異世界で、俺が最初に手に入れたスキル。アイテムや人物の情報を見抜く能力。レベルはどこまで上がっていたか?
「…Lv.10は言い過ぎだな。Lv.5では弱すぎる。間を取って…Lv.7だ」
みつる、真剣な表情で入力する。
「鑑定Lv.7」
次に、歴史知識。
あの異世界で、俺は地球の歴史知識を活かして戦略を立てた。これは間違いなく俺の武器だ。
「歴史知識」
そして、ゲーム脳。
RPGで培った経験値稼ぎ、フラグ管理、キャラクター育成。これも俺の能力だ。
「ゲーム脳」
入力完了。
みつる、画面を見つめる。
「これが、この世界での俺のステータスだ」
送信ボタンをタップ。
『登録完了!素敵な出会いが見つかりますように♡』
画面が切り替わる。
そして――
ブルッ。
スマホが震える。
通知。
『近くに素敵な女性がいます!今すぐチェック!』
「…来たか」
みつる、真顔で画面を見る。
「最初の任務だな」
通知を開く。
女性のシルエット。
プロフィール写真はぼやけている。
その下に、赤い文字で『相性度:★★☆』。
「レベル2…俺でもいけるか」
みつる、立ち上がる。
窓の外を見る。
平凡な住宅街。曇り空。洗濯物が揺れている。
「見た目は平和だが…この世界の裏側で、何かが蠢いている」
みつる、ジャケットを羽織る。
「いいだろう。やってやる」
スマホを握りしめ、部屋を出る。
それこそが、みつるの人生を再び「異能バトル」へと引き戻す、廻呪の入り口であるマッチングアプリだったとは――
この時の彼は、知る由もなかった。
だが、確かに彼の新しい戦いは、始まったのだ。
勘違いと共に。
(第1話・終)




