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人魚の寄生虫

作者: にょん


 発見の遅れた水死体だけにはなりたくない。


 解剖室の流しに胃の中のものをぶちまけて、風間は心の底からそう思った。


 部屋に充満した腐敗臭から嫌な予感はしていた。殺人課に配属になって2年目。様々な死体を見てきたが、これほど酷い状態の遺体を見たのは、しばらくぶりであった。


 その遺体は緑に変色した肌に、ブヨブヨとガスで膨れ上がった体。腰から下は欠損していた。


 止まらない吐き気に、ついには彼は解剖医に部屋を追い出された。


 外の空気を吸っても彼の気分が良くなることはなかった。鼻には臭いが、脳裏に死体の様相がこびりついて、離れなかった。


 しばらくすると、風間の先輩である山内刑事も外に出てきた。40半ばになるベテラン刑事の彼でも、その顔色は優れなかった。


「あの有様、遺族に見せるのは忍びねぇなぁ……。なんなら全部魚に喰われてたほうがまだ良かったかもしれん」


 タバコを咥え、山内刑事はその煙を吐く。風間はそれを呆けたまま見つめていた。普段は嫌いな副流煙も、鼻にこびりついた匂いをいくらか薄めてくれる気がした。


 遺体の身元はすでに分かっていた。名前は望月ひな子。18歳の学生だった。彼女は湖に身を投げていた。


 湖でバーベキューをしていたグループが彼女が一人で高台から水に飛び込むところを目撃した。


 すぐに捜索は行われたが、藻が繁殖する時期で、なかなか遺体を見つけることができず、発見、引き上げには一週間かかってしまった。


 状況から言えば、望月ひな子は自殺したと思われていたが、彼女の母親がそれを強く否定した。


 望月ひな子は小学生の頃に海で溺れて以来、極度の水恐怖症(アクアフォビア)だったという。


 「あの子の水嫌いは、毎日の風呂ですらシャワーだけで済ませるほどだったんです。そんな子が湖で死を選ぶと思いますか?」


 遺体を探している時、母親は湖のほとりで風間に縋り付いてそう話した。


 ああいう遺族の慟哭はいつだって風間の胸にぽっかりと穴を開けた。


「やっぱり、解剖では何も出なかったよ。自殺だ自殺」


「でも、彼女は水恐怖だったと、彼女の交友関係を漁りましたが、至って良好で、成績もよく……確かに自殺をするような子ではないと思うのですが……」


「あーいう。若いやつはな。悲しいが、突発的に死を選ぶことがあるんだよ。多感な時期ってやつ。あとは報告書書いておしまい。おしまい。飯でも食いにいこうぜ」


 手をひらつかせて、山内はタバコをポケット灰皿に、捩じ込んだ。


「あれを見た後で、よく食べる気になりますね……」


「若いなぁ。刑事は体力勝負。食べれる時に食べないと」


 その後、立ち寄った定食屋で山内はしっかりと焼き魚定食を食べていたが、風間は箸を持つことすら億劫で、ただ眼前で飯にがっつく先輩を眺めているだけだった。



 事態が急変したのは一月後のことだった。


 ことの発端は、匿名掲示板で違法薬物を取引していた村崎という男が逮捕されたことに起因する。


 捜査の過程で、彼が、一ヶ月前に匿名掲示板のオカルト板で、とあるオフ会を開いていることが分かった。


 その参加者の中に、望月ひな子がいたのだ。


 もちろん彼女は解剖の結果、薬物反応はなかった。たが、遺体の損傷状況からして、擬陰性しか出なくてもおかしくはないというのが、解剖医の見解だった。


 もし、なんらかの薬物のせいで、正常な判断ができなかったのなら、水恐怖症の彼女が湖に飛び込んでしまったという道理が通る。


 もし、そうならば。彼女は殺されたも同然である。


 怒りを表に出さないよう、風間は息を整えてから取調室に入った。


 取調室の簡素な椅子をこぎざみに揺らしながら、村崎は座っていた。目は虚で、常に親指を噛んでいたが、その視線だけは風間とばっちりと合っていた。


 世間話や薬物の違法売買の件についてニ、三聞いた後で、風間は本題を切り出した。


「望月ひな子を知っているか」


「……知りません。誰ですか?」


「お前が開いた匿名掲示板のオフ会に参加していたようだが」


「やだな。匿名掲示板ですよ?本名ですよね。それ……。ハンドルネームって奴で言ってくれないと」


 村崎はにやにやと笑う。口の端から小さな泡が吹き出ていた。小馬鹿にしたようなその言い方に、風間は内心イラついたが、資料めくってそれを探した。


「ひなひな。ひなひなというハンドルネームの女子高生だ。オカルト系のオフ会だった」


 村崎は宙に視線を動かして、急にふふっと笑った。


「あー、ひなひな。いましたね。いや、ごめんなさいね。刑事さんの言い方がなんか可愛くて……。あとオフ会っておくすり売るのにちょうど良くてよく使うから……一週間に2、3回やっちゃうんです。だから思い出すのに時間かかっちゃって……」


 風間が机をバンっと叩くと、村崎は反射的に肩をすくめた。だが、その表情に、悪びれた感じはなかった。


「そこで彼女にクスリを勧めたのか?」


「あー、いえ。そう思ったんですけど、なんか。そういう空気じゃなくなっちゃって……。オフ会名って分かってますよね」


 風間は資料に目を落とした。


【人魚の肉を食べよう】


 風間は、馬鹿げた内容を、口にするのも面倒臭くて、「ああ」とだけ返事した。


「5人ぐらいしか集まらなかったオフ会なんですけど、みんなで、なんで人魚の肉を食べたいかスピーチしてたんです。ひなひなは……そうだ確か。小さい頃に溺れて死にかけたせいで死恐怖症(タナトフォビア)だそうで、それを克服するために不老不死になりたかったんですって。知ってます?人魚の肉には不老不死の効果があって……」


「そんなオカルト話はどうでもいい。クスリを飲ませたんだな彼女に」


「だからそういう空気じゃなくなったんです」


「は?」


「私も最初ね。おくすり出そうとしたんですよ?でもそしたら一人が、出してきたんですよ。人魚のミイラを」


「人魚のミイラ?」


 村崎は、少し興奮した様子で鼻息荒く頷く。


「ええ、ええ。大きさは、うーん。このくらい。30センチくらいかなぁ。カスカスに干からびた流木みたいな感じ。でもね、それに頭と手。その先に尾っぽみたいなのがついてるんですよ。なんかよくテレビのオカルト特集とかで見かける河童のミイラみたいなやつ。それの人魚バージョン」


 両の腕で大きさを再現して見せて、村崎は恍惚とした表情を見せた。


「そんなもの本当なわけ……」


「ああ、刑事さん。あなた本物見てないからそう思うんです。でも、あれはきっと本物です。そう思わせる説得力があった。それの持ち主は言ったんですよ。今からこれを、少しだけみんなで食べてみようって。人魚の右手首の先を切り取って、仲良く5等分。かくいう私も皆さんに人魚のミイラの粉だって言って薬を出そうとしてたんです。オフ会の主催私ですからね。用意してたんですよ。ちゃんと。でも無理じゃないですか被った上に本物出されたら……あきらめましたよ」


 村崎は捲し立てるように一息で言ってから、ため息をついた。そのあまりの様子に風間は面食らっていたが、冷静さを取り繕って一つ咳払いをした。


「そ、それで。食べたのか。その、ミイラを」


「食べましたよ。私だけ食べないなんてのはできない空気でしたからね。木屑みたいな味でとても飲み込めたもんじゃなかったですけど、お水で流し込みました……ああ、思い出したらちょっと吐き気が。刑事さん少しトイレに立ってもよろしいですか?」


 村崎のあまりに突拍子もない話に、風間自身も空気を変えたかったので彼は村崎の要望を聞くことにした。


「あ、ああ……連れて行ってやれ」


 見張りの刑事に目配せをすると、村崎は部屋を出て行った。


 ほどなくして、まるで見計らったかのように胸元で携帯電話が鳴った。発信は山内となっていた。息を整えてから、「はい」と、風間は電話に出た。


「あー、俺だ、山内だ。お前まだ取り調べ中か?」


「ええ、まぁ。どうしましたか」


「村崎だがなぁ、とんでもない奴かもしれん」


「どうしたんですか?何か分かったことでも?」


「件のオフ会に参加した4名なんだがな……」


「はい……」



「みんな、ここ一ヶ月で水死体で発見されている」



「は?」


「それも、みんな自殺っぽいんだ。風呂場に、海に、夜のプール……。でもまぁ、いや4人となると村崎が何かトリックを使って……」


 嫌な予感がした。風間は、立ち上がると村崎が向かったトイレに向かって走り出した。


 トイレの扉を勢いよく開けると、見張りの警察官が驚いたように個室の前に立っていた。


「村崎は!」


「あ、えっと……気持ちが悪いと個室に……」


 風間はトイレのドアを勢いよく叩く。


「村崎!村崎でてこい!!」


 返事はない。風間はトイレの扉を勢いよく、蹴り飛ばす。扉が半壊し、村崎がトイレの便器の中に顔を突っ込んでいるのが見えた。


 風間は急いで村崎の首根っこを掴み、便器から引きずり出す。村崎の頭はぐっしょりと濡れていた。便器の中にはトイレットペーパーが詰めてあり、淵まで並々と水が溜まっていた。


 見張りの警察官に指示を出し、風間は村崎の胸部を何度も圧迫し、蘇生を試みた。



 村崎は、一命を取り留めた。


 後日、精密検査を受ける中で、彼の体からとある微生物が検出された。


 それは、全く新種の寄生虫であった。


 いや、より正確にいうのであれば、蘇った寄生虫。


 その虫は、ハリガネムシのような特性を持っていた。卵の状態で宿主に寄生して、やがて孵ると体の中で成虫まで育つ。そうして、宿主を操って水辺まで連れていき、宿主を溺死させる。死んだ宿主の足の先まで移動すると、そこを食い破って水の中に飛び出す。そういった虫だった。


 あのオフ会で、彼らが食した人魚のミイラには、その卵が休眠していた。と考えられる。


 人間の体内に入った卵はその休眠から目覚め、彼らを死においやった。端的に言えば不幸でセンセーショナル、一部生物学会では大発見な事件だったのだ。


 村崎は、ことこの寄生虫事件に関しては被害者として、扱われた。  


 望月ひな子が飛び込んだ湖はしばらく閉鎖され、大規模な水質調査が続けられたが、幸いにも寄生虫は発見されなかった。他3名が死んだ水辺も同じだった。


 そうして一年が経てば、誰もがこの寄生虫事件を忘れ、日常に戻って行った。



 風間はただぼうっと、橋から川を眺めていた。


 夕日は水面をキラキラと光らせ、ただ静かに揺蕩っていた。


「何を黄昏てるんだ」


 風間の後ろから、タバコを咥えた山内が橋の柵にその身を寄りかからせた。


「いえ、別に」


 風間の視線の下には河原でくつろぐカップルや、犬と駆け回る少年。釣りをする人など、様々な人がいた。


「寄生虫事件のことか」


「やめてください。気持ち悪いんですよその名前」


 風間は手のひらを山内に向ける。


「一本もらえません?」


 山内は戸惑いながらも、タバコの箱を差しだす。風間がそれを咥えると、慣れた手つきで火をつけてやった。


「吸ったっけ?お前」


 山内の問いかけに、風間は情けなく咳き込む。


「いえ……でもなんか。吸うといろいろどうでもよくなる気がして」


「それはそうだ」

 

 山内は少し満足そうに笑っていたが、風間はそれ以上は吸えず、口先で赤く色づくタバコの先端を恨めしそうに見つめていた。


「……みんな、よく水辺に近づけますね。私はあの時以来ずっと水が怖いですよ」


「まぁ、俺だってそうよ。息子に海水浴やプール行きたいなんて言われてちょっと考えちゃった」


「行ったんですか?」


「行ったよ。どこかで折り合わないと。だって水だろ?生活する上で切り離せないもん。なんならサメやらクラゲやら他にも怖い生物はいるけど。そんなこと言ったら海になんか入れねぇし。そういうのは忘れたふりして生きてくしかないんだよ」


「でもやっぱ。よく行けるなって思いますよ」


「なんでー」


 能天気な山内に、風間はため息をつくと、忌々しく煌めく水面を見つめた。



「だって、人魚のミイラ……まだ、見つかってないんですよ」



 村崎の証言から、人魚のミイラを所持している人物は分かった。しかしその人物の家から食べ残りのミイラは見つからなかった。


 あとあと、それはオークションに出されたことが分かったが、短期間のうちに様々なところを巡ったらしく行方が掴めていなかった。


「それに、あれは人魚のミイラじゃなくて……」


 傷ついたところから、腐敗は進んでいく。


 大昔のある日。寄生虫の卵をたっぷりと蓄えた水死体が上がる。死体は神秘的な緑色をしている。そして腐敗が進み腰から先がなかったとしたら、当時の人は何を思うか。誰かが酔狂にそれに魚の尾っぽでも継ぎ足して、乾燥させたのだとしたら……。


──彼らが本当に食べてしまったものは。


 携帯が鳴る。その音に、風間の思考は一旦途切れた。山内はすぐにそれに出て、二、三会話をして切った。


「水死体が上がった。ここから近い。行くぞ」


 その死体が件の人魚とは関係ないことを願って、さらに願わくば、発見の遅れたものではないことを祈って。


 重い足取りに鞭打って、車へと駆け出す山内の背中を、風間は走って追いかけた。(了)


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― 新着の感想 ―
ハリガネムシに寄生された生き物は必ず川や池へと向かい、そこらの水溜まりに飛び込むことは無いんだとか。 何でも虫の目は偏光(可視光の一部の性質変化)を利用して浅い水かどうかを見極められるそう。それに従っ…
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