第九話 ヴァネッサ・ルゼリック侯爵令嬢視点
※本話は、ナタリーを襲わせた赤髪令嬢ヴァネッサ・ルゼリックの視点です。
※タグについて
今後の展開に合わせて、先を見越して一部タグを追加しています。
この話自体に過激な描写はありませんが、終盤での展開にご注意ください。
私はグレゴリオス・ウィンターガルド公爵令息に恋をしていた。
爵位から見ても、侯爵令嬢の私こそが、グレゴリオス様にふさわしいと疑わなかった。
自慢の、鮮やかな赤い髪も、きっと彼の隣に立てば映えるはず。
だが私には、年上の婚約者がいた。彼はグレゴリオス様ほどではないが、侯爵家の嫡男。そんなこと、許されるわけがなかった。
だから、見ているだけでいいのだと、自分に言い聞かせていた――あの噂を聞くまでは。
『ウィンターガルド公爵令息と恋仲のエーベル男爵令嬢は身持ちの悪く、いろんな男を侍らす悪女。彼女は夜な夜な仮面舞踏会に行き、男漁りをしている。ウィンターガルド公爵令息は彼女に騙されて貢がされている』
社交界で有名なその噂を聞いたとき、怒りで胸が焼けるようだった。
(私でさえ諦めたあの方を、汚す女がいるなんて許せない)
身分を思い知らせてやるつもりで、取り巻きの二人を連れ、エーベル男爵令嬢の前で噂話をあからさまに語り、あざ笑った。
それでも、彼女は眉一つ動かさず、それが余計に私をいらだたせた。
『分からない人には分からせればいいのよ』
そう、頭に浮かんだ。黒い靄が頭にかかったようだった。
あの女に分からせるしかない――頭の中はそればかりになった。
淑女が水をかぶるなど屈辱に違いないと、取り巻きに水をかけるように促したら、一人には拒否された。ならばせめて見張りに立たせて、「あの悪女が来たら知らせなさい」と命じた。エーベル男爵令嬢が来たタイミングで、三階の窓からもう一人の取り巻きと一緒にバケツの水をかけた。
これでやっと、自分の身の程を思い知ったでしょう!
……そう思ったのに、エーベル男爵令嬢は泣きもせず、こちらを見上げて、あろうことか私を睨んできた。
生意気な女だわ。
そして、グレゴリオス様が助けに来てしまった。
すぐに身を隠したが、あの女を心配する彼の姿を見て胸が締め付けられた。
(なんで、なんであんな女が!)
あの立場は、私こそふさわしいはずだったのに。
黒い炎が胸に灯った気がした。
たかが男爵令嬢に水をかけただけなのに、監察室に呼び出されて事情を聞かれた。
手が滑って水をこぼしただけだと言ったのに、信じてもらえなかった。
十日間の謹慎処分――ありえない。屈辱だった。
私を誰だと思っているの?
たかが学園職員のくせに。
悔しさに唇を噛んでいると、お父様がノックもせず、私の部屋へ踏み込んできた。
「お父様! 聞いてください! エーベル男爵令嬢が……」
「これ以上くだらん真似はやめろ。お前には失望した。侯爵家の恥さらしが……!」
初めてお父様に怒鳴られた。心が砕けるようだった。
(これも、ぜんぶ……あの男爵令嬢のせい……)
謹慎明けに学園に登校すると、淑女科の上位クラスの皆が私を嘲笑していた。
「ルゼリック侯爵令嬢の謹慎処分が明けたんですって?」
「まあ、侯爵家も、甘やかすばかりじゃ育たないんですねぇ」
「これからはお手柔らかに、ってお願いしないといけませんわね」
身分の低い者たちに蔑まれるのは、屈辱だった。いつもそばに来る取り巻きすら私を避けていた。
(そう、この学園のヒエラルキーから私は転落したのね)
耐えきれず教室から出て、中庭のベンチに座っていた。
すると、ある伯爵令嬢がやってきた。
『ヴァネッサ様は悪くない』と、彼女は優しく言った。
『皆がおかしい』と。
(……私は間違っていない……おかしいのは――あの卑しい男爵令嬢よ)
胸の奥の黒い炎が、激しく渦を巻いた。
そうして、落ちこぼれの男子生徒たちに声をかけた。
平民出身で推薦枠で入学した者、準男爵家や騎士爵の家柄で辛うじて入学した者。
いずれも授業についていけず、脱落寸前の生徒ばかりだった。
そんな彼らが、私の言葉ひとつで頭を下げる姿は、なんとも心地よかった。
侯爵家で働かせてあげるという条件で、彼らを従わせた。
――エーベル嬢を襲って、二度と、ウィンターガルド公爵令息の前に姿を見せられないようにして。
(それなのに……なぜ。どうして私はいま、こんなところにいるの)
私は、外国行きの船に乗せられていた。年上の侯爵家嫡男との婚約は解消された。
「二度と顔を見せるな!」
激怒したお父様に怒鳴られ、そのまま馬車に押し込まれ、港から船に乗せられた。
「なぜ? どうして――」
だが誰からも返事はなかった。
本日は、朝・昼・夜の三回投稿を予定しております。
どれも他視点のエピソードになりますが、本編の裏側や人物像がより立体的に見えてくる構成です。
ぜひお付き合いいただければ嬉しいです。