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世界一素敵なゴリラと結婚します  作者: 志岐咲香
番外編:夫婦編

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お茶会と淑女の洗礼 セリーヌ視点②

今回の場面は、「お茶会」「淑女の洗礼」のセリーヌ視点となります。

すでに投稿済みの場面のため、セリフを端折って進行しています。

もし分かりにくい場合は、「お茶会」「淑女の洗礼」と一緒にお読みください。

 アルトハイマー侯爵家の庭園で、昼下がりの光が紅茶の面を薄く震わせた。

 淑女たちの軽やかな笑い声が響く。

 穏やかな光景の中で、ふと「嵐の前の静けさ」という言葉が浮かんだ。


 そして、その予感は的中し、事態は思わぬ方向へと転がっていった。


 きっかけは、主催者であるアルトハイマー侯爵夫人の一言だった。


「まあまあ、ナタリー様はまだご結婚三年目でしたわね。若奥様はさぞ旦那様と仲睦まじいのでしょう?」


 私は微笑みを崩さなかったが、内心では興味が湧いていた。

 公爵令息とナタリー夫人の仲は、実際のところどうなのだろう。

 どんなに言葉を取り繕っても、表情や仕草には本音が滲む。

 それを見逃すまいと、私は注意深く観察した。


 けれど、ナタリー夫人は首をかしげながら、予想外の言葉を口にした。


「え? ど、どうでしょうか。普通……だと思います」


 途端に空気が張りつめた。


(まさか、仲が悪いのかしら)


 普通なら、仲が悪くても当たり障りのない答えをするはずだ。

 それなのに、あのように答えるということは、改善の余地がないほど関係が冷え切っているのかもしれない。

 もしくは、腹に据えかねるほど、愛人の噂に怒っているのか。


 だとしたら、やはり、あの噂は本当なのかもしれない。


「あらあら、ご謙遜なさって。まだお若いんだもの。毎日のように寝室を共にしているんじゃなくて? なんてね、うふふ」

「はい? そうですね、毎日一緒です」

「……え?」


(あ……そういうこと? もしかして、仲が悪いんじゃなくて……逆かしら?)


 きっと彼らの「普通」が、すごく仲睦まじいのだ。

 その解釈なら、「毎日寝室が同じ」という言葉も腑に落ちる。

 彼女はきっと、女の世界の陰湿さを知らずに育ち、素直に事実を口にしてしまったのだろう。



 学園時代、ナタリー夫人を遠くから見かけたことはあっても、言葉を交わしたことはなかった。

 彼女は男爵家の出身で、社交辞令や貴族の会話の機微をまだよく理解していないのだろう。

 たとえ公爵家で厳しく教育を受けていても、身のこなしや処世術がすぐに身につくものではない。

 もしかすると、病弱という理由は建前で、この三年間は社交界に出るための準備期間だったのかもしれない。

 だが残念ながら、公爵家の夫人として求められる洗練された所作と品位には、まだ届いていないようだった。

 

 ――それでも、公爵令息は、彼女を愛し、妻に選んだのだ。


 礼儀作法の素養がないことなど、結婚する前から分かっていただろうに。

 それでも、公爵令息は彼女を求めた。そういうことではないだろうか。


 私は微かに首を縦に振った。

 やはり、最初に抱いた印象が正しかった。

 噂は、でたらめ。

 愛人など、いない。 


 私が予想の的中に静かな満足を覚える一方で、彼女が言葉を重ねるたびに、場の空気は一段と冷えていった。



 良くない流れだった。

 特に「皆さんもそうですよね?」というナタリー夫人の一言は、聞く者によっては挑発にさえ聞こえる。


 ちなみに私も、夫とは寝室を別にしている。毎晩など――想像するだけで悍ましい。

 あの人は、誰彼かまわず手を出すような男だ。変な病気をもらってくる可能性が高い。

 もう嫡男はいるのだから、今後は関わりたくないというのが本音だ。

 もっとも、ここまで割り切っている妻は少数派なのかもしれない。


 学園時代の失敗を経て、私は女性の中では冷静な判断ができる方なのだと自覚した。自分の考え方が決して多数派ではないことを念頭に置くようにしている。

 噂はただのツールだと捉えている私と違って、それを真実だと信じている者は意外と多い。

 もちろん学園時代の件は闇魔法の影響が大きいが、結婚後も噂に踊らされている女性をよく見かけた。


 結局のところ、嫉妬が根底にあると冷静さを欠くのだ。

 特に異性が絡むと、感情をそぎ落として事実だけを見ることのできる女性は、驚くほど少ない。


 今日この場にいる夫人たちは、あの愛人の噂をどこまで信じているのだろう。

 私のように、冷静に判断できる人がどれほどいるだろうか。


 この場にいる夫人たちは、ナタリー夫人は『夫に顧みられない哀れな妻』だという噂を鵜呑みにしているのではないだろうか。

 だとしたら、この場の出来事もそれほど大ごとにはならないだろう。いま彼女が言っていることは、哀れな妻が虚勢を張っているだけと捉えてるだろうから。


 だがこの後、ナタリー夫人が義母の公爵夫人に同意を求め、二人が仲睦まじいことが公爵夫人から証言されてしまった。

 もちろん、公爵夫人が嘘をついている可能性もある。

 けれど、嫁という立場でありながら、あのように自然に義母へ甘えられる関係性を見る限り、ナタリー夫人が公爵家で大切にされているのは明らかだった。

 公爵夫人は厳しいことで有名だが、ナタリー夫人に向ける眼差しは、驚くほど柔らかかった。まるで、実の娘を見るように。


 夫から蔑ろにされている可哀そうな妻だと思っていたら、意外にも公爵家から大切にされている夫人だった。それだけで、嫉妬に値するくらい恵まれている。

 そして、その恵まれた夫人から挑発されている――そう皆が認識した瞬間、戦いのゴングが鳴った気がした。


 すべての攻撃を清々しいほどの無邪気さで打ち返し、ナタリー夫人は見事に勝利していた。無邪気さとは、時に刃物になるのだと知った。凄まじい切れ味だった。


 そして、そのやりとりから、義両親に可愛がられているだけでなく、夫にも深く愛されている妻なのだと、この場の誰もが悟ったに違いない。


 その後、公爵夫人の機転もあり早々に事態は収束した……はずだった。



「やっぱり、奥様の方に問題がおありなのかしらね」


 それは、公爵夫人と侯爵夫人が席を外した時だった。


 ルーセル子爵夫人の、高く媚びた声がやけに響いた。

 若くして、親子ほど年の離れた子爵家当主の妻となった女性だ。

 ルーセル子爵の人柄や離婚歴の多さからしても、幸せな結婚ではないことは想像に難くない。

 美形の公爵令息と結婚しているだけで妬ましいだろうに、さらに大切にされているとなれば腹も立つのだろう。


 他の伯爵夫人たちもそうだ。

 ルーセル子爵夫人ほど露骨ではないが、観察する限り、彼女たちもまた、私と同じく夫には恵まれていない。

 貴族の家に嫁いで、夫に愛される妻の方が珍しいのだ。

 まして、義母にも大切にされているなど、奇跡に等しい。


 だからこそ、気に入らないのだろう。

 心で思うのは自由だが、それを態度や言葉に出すのは、理性を失った愚か者のすること。


 そう考えていると、ルーセル子爵夫人が私に話を向けてきた。


「同じ頃にご結婚されたご夫人は、早い方はもう二人目がお生まれになる時期ですのよ。同い年のセリーヌ様もすでにお子様がいらっしゃいますもの。ねえ? セリーヌ様」


 ――愚か者が、ここにいた。


 子爵夫人は私に視線で『加勢しなさい』と言った。


(はあ? たかが子爵夫人の分際で、次期侯爵夫人の私に命令する気なの? 自分の立場をわきまえなさいよ)


 女の戦いは得意だ。

 喧嘩を売っているなら買ってあげてもいい。


 しかし、今日はまずい。

 今日は目立つことはしないと決めていた。


 ナタリー夫人に、これ以上悪い印象を持たれたくないからだ。

 そもそも加勢など、とんでもない。公爵家を敵に回すつもりは毛頭ない。

 むしろ私は、彼女の惚気話を聞いて、自分の解釈と一致していて嬉しいくらいなのに。

 私の夫は社交界で有名な女好きだから、私も同じように腹を立てていると思われているのかもしれないが、見当違いもいいところだ。


 私と子爵夫人は視線を絡ませ、にこやかに微笑み合った。

 どちらも言葉は発さなかったが――


『加担なんてするものですか、愚か者』

『なんですって!?』


 微笑みの裏で、そんな無言の火花が散っていた。


 私たちの無言の戦いをしている間に、他の夫人たちが次々と参戦し、ナタリー夫人にあることないことを吹き込んだ。

 その中に、耳を疑う言葉があった。


「――卑しい男爵令嬢とは違って」


 この発言は、一線を越えていた。


 ――これは、あの頃と同じ。


 もう、あの頃と同じ轍は踏まない。

 このまま放置してはならない。

 私は、流されない。


 ゆるやかに扇子を開き、口元を隠したまま冷ややかに笑った。

 パチン、と音を立てて閉じ、扇子の先を相手に向ける。


「ウィンターガルド公爵家を愚弄するおつもりですの?」

「セ、セリーヌ様?」


 まったく公爵家に関係ない私が、しゃしゃり出たのだ。

 ナタリー夫人が言い返さない以上、私が代わりに声を上げねば、私まで罵倒した側だと見做されてしまう。

 私には前科があるのだ。公爵令息には絶対に勘違いされないように立ち回らねばならない。

 公爵家は近年さらに勢力を増している、大きな存在だ。


「ナタリー様は、公爵家の夫人でいらっしゃいますのよ。貴女方は、いったい何様のつもりなのです?」

「そっ……それは」

「私たち、そんなつもりじゃありませんのよっ!」

「そうよ、ただ噂をお伝えしただけでして」


 彼女たちは口々に言い訳を始めた。

 私が公爵家の味方をするとは思わなかったのだろう。それがまた、癪に障る。


 私はツンと顔を上げ、彼女たちを威圧するように見下ろした。


「フン。ナタリー様、いかがなさいます?」


 恩を売るつもりで彼女の反応をうかがった。だがナタリー夫人はひどく沈んでおり、視線は合わなかった。


(全く……。助けてあげたのだから、少しくらい見ておきなさいよ。お礼のひとつでも言いなさいよ。そして旦那様に伝えなさいよ)


 本当にこの人は、どこまでも鈍感で、どこまでもマイペースだ。


 ――でも、だからこそ愛されているのだろう。


 ナタリー夫人は呆然自失のようだった。

 これは、あらぬ誤解を避けるためにも、早急に対応する必要がある。


 その後、公爵夫人たちが戻ってお茶会は再開したが、薄く浮かべた微笑みの裏で、きっと誰もが今日の出来事をどう家に伝えるか、思いを巡らせていた。



 お茶会が終わり、侯爵家に戻るとすぐに夫へ相談した。

 夫は「このタイミングでェ!?」と顔を真っ青にしていた。

 つい先日、公爵令息に殴られたばかりだ。公爵家とは穏便に済ませたかったのだろう。

 だが、私は一切悪くない。むしろ、見事な立ち回りをしたはずだ。

 宰相である義父は地方に滞在中で、戻るまで三日かかったため、公爵家への手紙はそれまで見送られた。

 義父は戻るなり、最初は「なぜそんな茶会に参加したんだ」と頭ごなしに怒鳴られた。だが、ナタリー夫人を助けに入ったことを伝えると、少し機嫌を直し、公爵家へ送る手紙の内容を慎重に練ってくれた。


 やがて、公爵家からは丁寧な礼状と礼の品が届いた。

 そこからは、公爵令息の怒気は感じられなかった。



 ――愚かな少女時代を思えば、わずかにでも成長できたのかもしれない。

 あの時の汚点が、少しだけ薄まった気がした。



 そして、その手紙には、近く開かれるウィンターガルド公爵家主催の夜会の招待状も添えられていたのだった。

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