噂 セリーヌ・バリウス侯爵令息夫人視点①
セリーヌ・バリウスは、本編第十一話の青髪の伯爵令嬢、セリーヌ・エルバートと同一人物です。
アルトハイマー侯爵家を前に、完璧にまとめ上げた青髪が歩くたびわずかに揺れた。
私は一度、深く息を吸い、気持ちを整えた。
今日のお茶会には、ウィンターガルド公爵夫人と、その義娘であるナタリー夫人が出席すると聞いている。
ナタリー夫人は結婚後、体調不良を理由に三年ほど社交界に出てこなかった。
そして彼女は――私の唯一とも言える汚点に、深く関わる女性だった。
学園時代、ヴァネッサ侯爵令嬢の取り巻きをしていたばかりに、当時からウィンターガルド公爵令息のお気に入りだったナタリー夫人へのいじめに、一部加担してしまったのだ。
だが、私は寸前のところで拒否をした。だから私に処分は下らなかった。
私以外の二人は処分を受け、ヴァネッサ侯爵令嬢は罪を重ねて消えた。
ミレイユ子爵令嬢は、存在を消すように大人しくなった。
私はなんとか処分を回避し、新たに友人関係を築き直した。
この不祥事は婚約相手のバリウス侯爵家に伝わったようで、すぐに呼び出され事情を確認された。侯爵夫人からは『不出来な娘』と叱責され、侯爵からも失望の色を向けられた。婚約者のヴィンセントは、まるで他人事のように薄く笑っていた。
その後、卒業してすぐにバリウス侯爵家の嫡男ヴィンセントと結婚した。
ヴィンセントは社交界でも名の知れた女好きで、目につく女性には手当たり次第に声をかける。
なんと先日、ナタリー夫人が社交界に復帰したばかりの猟会で、彼女を口説こうとしてウィンターガルド公爵令息に殴られたらしい。
その話はすぐに義父の耳にも入り、義父からも殴られていた。
我が夫ながら愚かで残念な男だ。
夫は、公爵令息に愛人がいるという下らない噂を真に受けたらしい。
蔑ろにしている妻だから、口説いても怒らないと思ったのだろう。
だが、いつもは穏やかで礼儀正しい公爵令息が、すごい勢いで怒った。
その後、王家との戦争を匂わせる文書が届き、夫は震え上がっていた。
再び義父の拳が飛び、彼の自慢の涼やかな顔は、今や痣でひどい有様だ。しばらく社交には出れまい。
そんなことはどうでもいい。今は目の前のお茶会についてだ。
今日は、ナタリー夫人と初めて正式に関わる。
……私のことを覚えているだろうか。できることなら、忘れていてほしい。
学園時代、侯爵令嬢の言いなりになり、噂話や嘲笑に加わっていた自分を思い出す。
私も、愚かだった。
今日は、ナタリー夫人からあの時のことを責められるかもしれない。
甘んじて受けるつもりだ。
しかも私は、先日失礼を働いたヴィンセントの妻だ。
私に良い感情があるとは思えない。
逃げ出したい気持ちがないわけでもないが、社交界で生きていくうえで、ウィンターガルド公爵家との関わりは避けて通れない。このお茶会を欠席するという選択肢はなかった。
話しかける機会があったら、過去のことも含めて謝罪したい。
小さく息を吐き、気持ちを切り替えた。
ナタリー夫人は、学園時代よりも綺麗になっていた。
元々美人な顔立ちだったが、今は愛されてきた女性としての自信もあってか、眩しいほどに麗しい。私は思わず見とれてしまった。
――やはり、あの噂は根も葉もない流言だったのね。
ある時から、ウィンターガルド公爵令息には、気になる噂が絶えなかった。
『ウィンターガルド公爵令息には、紫髪で侍女の愛人がいるらしい』と。
私は半信半疑だった。なぜなら、あの公爵令息だ。
手紙の文面からさえ怒気が溢れるほど、ナタリー夫人を大切にしていた男だ。
そう簡単に愛が冷めるだろうか。まして、浮気などするだろうか。
噂を聞くようになってから、公爵令息が夜会に顔を出すと、私は観察するようになった。
公爵令息はまだ新婚だったというのに、貴族令嬢や夫人からの秋波は絶えなかった。
婚約者のいない令嬢たちは、あからさまに自分を売り込んでいた。
ウィンターガルド公爵家ほどの家なら、愛人が十人いようと養えるだろう。
貴族令嬢の中には、親の意向で親子ほど年の離れた当主に嫁がされる者もいる。若くして貴族家当主の夫人になる場合は、たいていそれだ。中には、死別や離縁で再婚を繰り返す男もいる。離縁ならばまだ良い方で、死別を繰り返している男に嫁ぐ場合は、命がけといっていい。
そんな男に嫁ぐのであれば、日陰者でもいいから、美形の公爵令息の愛人になりたいと願う令嬢が多いのも頷ける。
しかも公爵令息の妻は病弱で社交界に姿を見せず、そんな妻に愛想を尽かした彼にはすでに愛人がいるという噂があった。
「それなら、自分にもチャンスがある」と夢を見た令嬢たちが、最初は愛人の一人であっても、やがて正妻の座を奪えるかもしれないと期待するのも想像に難くない。
令嬢たちは、彼の視線を得ようと競い合い、過熱していった。
けれど、噂と違って、公爵令息は女性たちの誘いをことごとく穏やかに、けれどはっきりと断っていた。その姿を見て、私はなぜか安堵した。
(うちの夫なら、迷うことなく個室に連れ込んでいたでしょうね……。つまり、公爵令息の噂はでたらめか、今は愛人に一途なのか、はたまた目立った行動はしないだけなのか)
それからも、公爵令息をさりげなく観察し、目立たぬ範囲で噂を調べた。
そして私が出した結論は――噂は根も葉もないでたらめだということ。
実際のところは分からない。
だが、学園時代の彼の様子を思い出すと、愛人がいるとは思えなかった。私がそう思いたかっただけなのかもしれない。
――たまにはそのような一途な男がいてもいいのではないか。
そんな風に思う自分もいた。
少なくとも、噂を鵜吞みにして公爵家の逆鱗に触れるのは得策ではない。
私は、ただの噂と位置付けて行動することにした。
学園時代のように、誰かに追随して破滅寸前まで突き進むことだけは、もうしない。




