価値観の違い
穏やかだったはずの公爵家の空気が、一瞬にして張り詰めた。
今まで見たこともないほどの、リオスの威圧感。
近くにいた使用人たちは音もなく姿を消し、部屋には私たちだけが残された。
「えっ、なんでそんなに怒ってるの?」
「……君は、俺が他の女と浮気したら、怒るんじゃなかったのか?」
冷ややかな瞳が、射抜くように私をとらえていた。
「そりゃあ浮気は嫌だけど……それとこれとは別でしょ? だって、公爵家の跡継ぎはリオスの血を引いていればいいんだから。子どもを私たちの養子にしてくれるっていう前提で、引き受けてくれる女性にお願いすればいいと思って。もちろん、しっかりお礼をして、お互い納得の上でね」
「……なぜ君は……そういうところは合理的なんだ。俺が、他の女性に触れても何も思わないのか?」
「え?」
――想像してみた。
リオスが他の女性を抱くところを。
胸がぎゅっと痛んだ。嫌だ。ものすごく嫌だ。
けれど、身体的な接触は、心が伴わなければ単なる儀式のようなものだ。
それでも嫌だけど、リオスと別れるよりはずっとマシだ。
子どもができなければ、別れなければいけないのだから。
「分かっていたことだが……君は、それほど俺を好きじゃないんだな」
「え……なんでそうなるの!? そんなことないわよ……!」
「じゃあ、なぜ他の女を抱けと言えるんだ?」
「その方がいいと思ったんだけど……。そんなに怒ると思わなかったわ。ごめんなさい」
「別に謝って欲しいわけじゃない」
突き放すように言うリオスに、私も腹を立て、正面から向き合った。
「じゃあ、私にどうしろと言うの? 私は……私が相手じゃなくてもいいから、あなたの子どもが……欲しかったの……!」
彼は、堪えるように顔を歪めた。けれど私は、勢いのまま言葉をぶつけた。
「だって、子どもがいないと……あなたと……別れなきゃいけないでしょ! あなたと離れるくらいなら! あなたが他の人を抱いたとしても……一緒にいたかったんだもん!!」
とうとう感極まって、涙が溢れた。
「…………俺と、いるため……?」
「そうだよ!」
「俺が他の女を抱くのは……」
「嫌に決まってるでしょ!!」
溢れる涙を、ぐしゃぐしゃに手で拭った。リオスに渡されたハンカチは、さきほどの部屋に置いてきてしまった。
「でも……リオスと離れるのはもっと嫌。さっき何があっても別れないって言ってくれたじゃない。私達ならそれくらい乗り越えられると思ったの!」
泣きじゃくりながら必死に訴える私を見つめ、リオスは深く、長いため息をついた。
その瞳の奥で、抑え込んでいた熱が一気にあふれ出したのが見えた。
「それくらいだと? 俺は君以外を抱くつもりはない。想像しただけで吐き気がする。逆に、もし君が他の男と……こんなこと口にするのも嫌だが、もしそんなことがあれば、俺は相手の男を殺す。――絶対にだ。そんなことは、断じて許さない」
その目があまりに真剣で、私は思わず息を呑んだ。
「殺す」なんて強い言葉を彼から聞くとは思わなかった。
けれど、もし私が他の男性とそうなるとしたら、それは無理やりの事態でしかありえない。だってリオスとは違って、私の血筋を残す必要はないのだから。公爵家の夫人に無体を働いたなら、それは当然の罰だ。
「俺たちに子ができないなら、それでもいい。離縁は絶対にしない。たとえ君が心変わりして、離縁したいと言っても、もう無理だ。君と離れるつもりはない」
私を決して手放さないという彼の覚悟が胸の奥を甘く締めつけた。
彼の意思は伝わった。
でも……。
「でも、そんなこと、本当に許されるのかな……。やっぱり心配だよ。高位貴族は、子どもができないと三年で離縁しないといけないって……」
「……誰がそんなことを君に吹き込んだんだ? そんな決まりはない。子ができなくて離縁するのは、そこに愛がないからだ。いくらでもやりようはある。君の言った通り、養子を迎えればいい。だが俺の血は入っていなくて構わない。だから、子どものことは心配しなくていい」
また涙が溢れ出した。リオスが私の背負っていた重荷を、一緒に背負ってくれたような気がした。血筋よりも私を優先すると言ってくれた。それだけで涙が止まらなかった。
お茶会の夫人たちは嘘を言っていたのかもしれない。けれど私が育った村でも、子どもができずに離縁された女性はいた。平民でもよくある話だ。
それがウィンターガルド公爵家ほどの家柄なら、なおさらだということくらいは私でも分かる。
「でも、ウィンターガルド公爵家の血が……途絶えちゃう。私のせいで……」
「大丈夫だ。落ち着いて、アリィー。血など途絶えても構わない。たかが三代の公爵家だ。この地を治められる者がいればそれでいい。君がそこまで気に病んでいるとは思わなかった……。俺たちは、そろそろ養子を迎えることを考えよう」
「……」
「それに、親戚に養子の当てがある。まだ打診してはいないが、しばらく待ってくれないか?」
「……」
「待つと言ってくれ。頼む」
「……待つぅぅ……」
「よかった……」
安堵の吐息を洩らしたリオスの声は、かすかに震えていた。
彼もまた、私を失う恐怖で、私と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に不安だったのかもしれない。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が温かくほどけていった。
「リオスも……怖かったの?」
「……ああ。君を失うことほど怖いことはない。俺たちはもっと、日頃から本音を話し合う必要があったのかもしれない。……君は、俺が怖くないか?」
「リオスが怖い? なんで? あなたと別れるのは怖くて逃げたけど、あなた自身を怖いと思ったことはないわ」
「だが……俺はさきほど、物騒なことを口にしただろう」
「殺すってやつ? 犯罪者の話でしょ。高位貴族だし、普通なんじゃないの?」
「そ、そうか……」
「え? 違うの?」
「……俺は、普通よりも嫉妬深いかもしれない……いや、確実に嫉妬深い」
「そうなの? でも、私の意志で浮気することはないから、そんな事態になったらそれは犯罪行為よ。むしろ、しっかり罰を与えてほしいわ」
「そう……か」
彼は不意を突かれたような表情で呆然としていた。
「でも私、嫉妬させるようなことしたっけ?」
「……いや、君は悪くない。今までは問題なかったんだ。だから、君が社交しないことを俺も望んでいた。君は可愛いから、猟会でも変な男に口説かれていただろう。さすがに次期宰相を手にかけるわけにはいかないから、殴るに留めた。君が社交の場に出るようになってから、俺がいない隙に万が一、他の男が近づくかもと思うと不安で仕方がない」
「……」
自分がそこまで男性から好かれるとは思えない。なにせ学生時代は全然モテなかった私だ。告白されたのも、リオスだけ。
リオスの目には、私が絶世の美女に見える特殊なフィルターでもかかっているのではないだろうか。
だとしたら、そのフィルターは一生なくならないでほしい。
リオスに殴られたあの女たらし侯爵令息は、軽薄さから言って私以外にも数多の女性を口説いているようだった。
身体を触られたわけでもないし、あれで殺されたらたまらないだろう。むしろけっこう殴られ損だと思う。
でも嫉妬深いと言うからには、あれも許せなかったんだろう。無駄な屍を増やさないよう、今後気を付けねばならない。リオスの社交界での評判のためにも、私が話した男性貴族が次々に不審死するなんて事態は絶対に避けたい。
猟会と嫉妬という言葉が、ふと頭の中でつながった。
「もしかして、最近機嫌が悪かったのって、嫉妬だったの?」
「……ああ。態度に出しているつもりはなかったが……すまない」
リオスは気まずそうに目を逸らし謝った。
確かに、ときどき彼の機嫌が悪くなるようになったのは、あの猟会以降だった。あの侯爵令息に嫉妬していたからだったのか。
不機嫌の理由が分かり納得した。思い返せば、リオスが殴った侯爵令息の怪我についてや、今後の社交について話題にしたときは、冷たい空気をまとっていた気がする。あれは、嫉妬だったのかな。
でも、今後の社交はどうすればいいかという問題は残った。
「うーん。でも、そろそろ社交の場に出ようかと思ってたんだよね。愛人の噂は別にいいんだけど、さすがに何もせずに恩恵だけ受けるのは申し訳ないし。でも、リオスは出てほしくないのね?」
「出てほしくない。出るにしても必要最小限で、俺がずっと一緒にいられる場だけにしてほしい」
彼は清々しいほどに言い切った。
そんな風に思っているとは、知らなかった。
てっきり彼は多少なりとも社交ができない私の不出来を残念に感じていると思っていた。
「君は公爵家にいてくれるだけで、立派に役目を果たしている。何も申し訳ないなんて思う必要はない」
「…………じゃあ、あなたと一緒にいられる場から、少しずつ社交を始めようかな? 私も、その方が心強いし」
「ああ。それならば許容範囲だ。……これは俺の希望と、合理的な理由に基づいた提案だが、君の不名誉な噂を完全に払拭するためにも、公の場では可能な限り仲睦まじい姿を見せつけるべきだと考える。具体的には、俺が君の腰を抱いたり、俺からだけでなく君が俺の腕に触れたりという身体的接触。見つめ合ったり微笑み合ったりなどの非身体的接触も含めて、だ」
「……う、うん。でも別に愛人の噂はどうでもいいけど――」
「実は、俺に愛人がいると思った令嬢たちから夜会のたびに言い寄られて困っているんだ。もちろんそれに応えたことはない。だが、公爵家という地位に惹かれる者が多いらしく、何かと近づかれて扱いに困ることが多い。君が社交に出るならば、多少は近づく者は減るだろう。だがさらに、君との関係を公の場で示すことで、今の状況を終息させたいんだ」
「え?」
まさか、そんなことがあったなんて。
確かに、公爵家の跡取りで、こんな美形で優しくてしっかりしている夫は、魅力的だろう。
(……嫉妬って、どんな気持ちなのかな)
ちらりと、そんな好奇心が生まれた。
実は恋愛の意味での嫉妬はしたことがない。愛人の噂を聞いた時は、嫉妬というより裏切られたショックの方が大きかった。しかも離縁の危機で、嫉妬どころではなかった。
むしろリオスが嫉妬を経験済みなんて驚いた。私は結婚前も結婚後も、ほとんど異性と関わっていなかったというのに。
少しだけ、他の令嬢に言い寄られているリオスを見てみたい気もした。どんな態度をとるんだろう。それを見た私はどんな気持ちになるんだろう。嫉妬をするのだろうか。
でも、そう思えるのは、彼が私をまっすぐ愛してくれるという確信があるからだ。だって、彼が私を裏切るところは想像がつかない。
もちろん、彼がその状況を嫌だと言うなら、私にできることは何だってしたい。
私は強い意志を込めて頷いた。
「分かった。他の令嬢が近づけないくらいベッタリしよう!」
「ありがとう。助かる」
彼は、嬉しそうに笑い、そして続けた。
「それと、もう二度と一人で出て行くなんてことはしないでくれ。寿命が縮むかと思った」
「ごめんなさい……っ! もうしない! 家出するときは護衛も連れていく!」
「……家出する前に話し合おう……」
「た、たしかに!」
ひと息ついたあと、リオスはタオルを持ってきて、私の顔をそっと拭いてくれた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた顔を丁寧に拭かれながら、少しずつ心が落ち着いていった。
それから、ゆっくりと説明された。
義父の年の離れた弟――リオスにとっては叔父が、北のウィンターガルド領を事実上治めているという。その人には息子が三人いて、末っ子はまだ幼い。もし願い出れば、養子に迎えられるかもしれない。ただ、まだ打診していないため、過度な期待は禁物だということだった。
リオス自身は、義両親と養子の可能性について何度か話していたらしい。だが「まだ若いのだから、気にすることはない」と言ってくれていたそうだ。
けれど――私はもう限界だった。
それを察したリオスは今すぐに相談しようと言ってくれて、一緒に義両親のもとへ向かった。
私たちの大喧嘩の件を使用人から知らされていた義両親は、一も二もなく頷いてくれた。
胸の奥で張りつめていた糸が、少しだけ緩んだ気がした。
嫉妬について考える場面を少し加筆しました。




